第12話 甘い毒の痺れと惨劇
王子は、膨れ上がった心の闇に押し出されるかのように言葉を吐き出した。王子の青い目を見つめながら詩人は優しげに頷く。その裏では赤い舌をちらちらと見せながら、その黒い想いを丸呑みにしたい衝動に身をよじる大きな蛇を身のうちに隠しながら。甘い毒のような言葉を次々と囁いた。
「殿下、よくお聞きくださいませ。あの花畑がある限り、彼女はいつかはあなたさまの元を離れていきますぞ」
その一言に王子の心がぐらりと傾き、泡立ち波打った。でも大丈夫ですぞ、お任せください、私めには秘策がありますると、王子を心から心配するようなそぶりを見せて詩人が囁く。それはどこまでも甘く強い毒だった。その毒に頭は痺れ、王子はますます囁きにとらわれていく。
「妖精が青き蝶となって飛び立てないように、そうしようと勧めるだろう仲間の蝶や花畑を燃やし尽くしてしまえばいいのです。花がなければもう蝶になることは叶わない。そして新たな妖精が生まれなければ、あなたの妖精は女神のためにこの地にとどまるでしょう」
愕然とする王子に、吟遊詩人はさらなる追い討ちをかける。
「殿下がやってきたことは、残念ながらすべて反対のことだったのです。新しい花など育ててはいけません。今すぐに火を放ち、すべてを燃やし尽くすのです」
本来ならありえないような話、恐ろしい囁きだった。けれど今、王子の心は不安に押しつぶされ救いを求めていた。これほどまでに確実な方法はないと思われた。愛しい人を繋ぎとめたい一心だったのだ。詩人は懐から黒い石を取り出した。
「殿下、お助けいたします。この石に火をつけて花畑に投げ込むのです。これは普通の石ではありません。燃やせないものなどないのです。そうです、殿下の行く先を邪魔するものはない。これで大切なものを、その手にできますぞ」
操られるかのように王子がその石に手を伸ばした。けれどその石に触れた瞬間、禍々しいなにかが感じられ、王子は思わずそれを手放した。王子の心にはまだ女神への深い想いが残っていたのだ。しかし吟遊詩人は王子の手に再度石を握らせて押さえ込んだ。
黒い闇がじわじわと王子を侵食していく。その心に深い霧がかかり全てが曖昧になっていった。これさえあれば大丈夫です、殿下、今しかないのです、と吟遊詩人は繰り返した。
やがて王子の手からは力が消え失せ、その目は虚ろになった。そしてついに王子は石を手に窓辺に寄りかかり、それきり動かなくなってしまったのだ。吟遊詩人は王子のそんな様子を見届けると満足そうに笑い、そっと王子の部屋を離れた。
夜が明け朝日が窓際の王子を照らし出したけれど、王子はまだぴくりとも動かなかった。固く目を閉ざした横顔は深く物思いに沈み、何かと戦っているように見えた。
日は少しずつ高くなり薔薇色だった空が青く輝き始めた頃、王子がはっと顔を上げて空を仰ぎ見た。そしてその青に反応するように立ち上がると、ふらふらと王宮を出て行った。
王宮前には天空草の花が揺れている。王子が人々一緒に丹精込めて育てた花畑だ。それは青い宝石のように輝いていた。王子は虚ろな瞳でその様子を見つめる。けれどその花畑から数匹の青い蝶が飛び去るのを見た瞬間、王子は顔色を変えた。握りしめていた黒い石に大急ぎで火をつけた王子は、何事かをつぶやきながらそれを花畑に投げ込んだのだ。
小石一つで咲きほころ花を燃やせるはずがない。けれどそこには恐ろしい力が込められていて、瑞々しいはずの花たちが瞬く間に轟々と音を立てて燃え始めたのだ。
花から飛び立った蝶たちもまた、追いかけてきた炎に焼かれた。花畑が蝶もろとも燃えていく。王子はその様子をじっと見ていた。目は虚ろなままで感情は全く読めなかった。
やがて火は信じられないことに水路にも広がった。清らかな水の上を赤い蛇のように炎が突き進む。それはその勢いのまま村の中にも分け入り、容赦なく建物に襲いかかった。
立ち上る黒煙と炎。突然のことに人々は混乱した。多くの人が逃げ惑い、あちこちで泣き声や叫び声が響き始めた。けれど敬虔な村人たちの中には冷静なものも多い。すぐに人々は我を取り戻し、力を合わせて消火活動を始めた。
けれど悪魔が生み出した火をどうやっても消すことができないのだ。火は弱まるどころかますます勢いを増し、次々と燃え広がっていく。なぜならそれは水さえも燃やす業火だったからだ。それでも水を運び続けるしかない。水が火に勝ることを祈りながら、人々は必死になって働き続けた。
真っ赤な炎はそんな人々をあざ笑うかのように、国中の村々、花畑という花畑、すべての上で踊り狂った。青き水の王国はすべてを焼き尽くさんとする地獄の火に支配されたのだ。やがてやってきた夕暮れの強烈な西日がさらにそれを真っ赤に染めていく光景は、もはやこの世のものとは思えなかった。
声にならない悲鳴が世界を覆い尽くすような惨劇。それでも王子は表情を変えずそこに立ち尽くしたままだ。誰が呼びかけても答えようとはしなかった。その心はもうここにはないように見えた。それは燃え盛る花畑以上に異様で恐ろしい姿だった。
その時、空一面に深い青が広がった。人々が見上げる中、水を伴う風が次々と起こる。それは天上に湧き出す泉のようになり、燃え盛る火の中に無数の雫が降り注いだ。泉の女神シャルレイアの青き翼が世界を包み込んだのだ。
けれど炎は治ることなく、まるで意思を持っているかのようにそれに抗い、いきり立った。今や火は花畑を離れ、空に広がる女神に向けて一斉に牙をむいた。青い翼に食らいつき引きちぎろうとする赤い牙。それを叩き落とし、押し流さんと激しい雨のように降り注ぐ水。
両者の力は拮抗していた。簡単に決着がつくとは思えない。国中の者たちが抱き合い固唾をのんでその死闘を見守った。
そのうちに彼らは気がついた。赤い牙の中に渦巻くどろどろとした気味の悪い何かは、多くの歪み苦しむ顔にも見えるのだ。誰もが身震いせずにはいられなかった。王子の弱った心に取り憑き、己の意のままに炎を操っている恐ろしい何かの正体を、人々は見たのだと思った。
それはあらゆる負の感情を飲み込んで肥え太った闇だ。この世界の暗部が今、泉の王国で炎の姿となり、すべてを焼き尽くし、己の中に取り込もうと暴れているのだ。それはあまりに凶暴で強大で、女神の力を信じているものたちにさえも絶体絶命の危機を感じさせた。
けれど夕闇が迫り来る中、やがて青が赤をねじ伏せてそれは終わった。両者がすべてを注ぎ込んだこの戦い、最後は僅差で上回った女神の力が王国を壊滅の危機から救い出したのだ。
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