第11話 はるか神話の国の物語
はるか昔、まだ神々や妖精の存在が人のすぐ近くにあった頃。泉の王国の人々は泉の女神シャルレイアの美しい姿を常に空に見ることができ、王宮は様々なことを女神の侍女に託して伝えることができた。
そんな時代、王国の一番下の王子は、女神の侍女であった天空草の花の妖精に恋をした。妖精たちは天空草の花から生まれ、成長すれば人と同じように生活をすることができる。彼らは女神に仕え、女神と人との間をつなぐ役割をするのだ。
そして数年の後、そのままその地に残るものと青い蝶となって離れるものとに分かれていった。飛び立つものたちは生まれ出た時と同じように再び花に戻り、しばしの時を経て蝶へと変わるのだ。
その頃の天空草は一年を通して花開き、妖精たちの二度の誕生を請け負う大切な場所だった。花畑が美しければ美しいほど、生まれ出る妖精たちはその身も心も美しいものとなった。彼らは人と同じような姿をしていたけれど、その髪も目も真っ青で、背中には大きな翅を持っていた。それは陽の光を通す美しい青で、金の粉を振りかけたような輝きを放つ。
王子が恋した妖精はもう長い間女神に仕えていてその信頼も厚く、度々、女神の言伝を持って王宮へと参上していた。凛として公正で、丁寧な仕事をするその妖精はその整いすぎた美貌のために一見冷たく見えるけれど、その実、王宮の庭園で王子が話しかければ、まるで花が綻ぶように優しく笑うのだ。
王子はいつかこの妖精を妻に迎え、天空草を増やしてこの地を地上の楽園にしたいと夢見ていた。しかしこの地にとどまるも離れるも、全ては彼女の意思一つだ。彼女が青い蝶となってこの地を離れないように、早く自分の心を伝えなければと王子は考えていた。
そのためにもまず、自分が妖精たちと同じように、女神と人々を繋ぐ役割をしっかりと担っていく姿を見せるべきだと考え、敬虔な祈りの下、人々と共に嘘偽りなく汗を流して働いた。
けれど、その心には常に焦りがあった。花畑から飛び立つ青い蝶の姿を目にするたびに王子の不安は募った。心配で心配でて仕方がない。一日も早く想いを伝えなければいけないと思っていたけれど、ある日ふと、伝えたところで人である自分に妖精が心を開いてくれるだろうかという疑問が心をよぎった。
それに気づいた瞬間、王子は激しく落胆した。人と妖精、互いに力を合わせて働いてはいても、夫婦となったもののことなど聞いたことがない。あまりにも違う種の自分たちに果たして未来はあるのだろうか……。
こんなにも愛しく思う彼女にもし拒絶されたら……そう思うと王子はもう耐えられなかった。そうなることが恐ろしくて身動きが取れなくなってしまう。想いを伝えなければ何も始まらないというのに、聞きたくない答えを恐れるばかりの王子がそこにはいたのだ。
けれどそうではなかった。先頭に立って水路を作り、天空草を育てる心優しい王子のことを、妖精もまた好ましく思っていたのだ。しかし王子と同じく妖精もまた、人との間にそのような感情が生まれたところでどうなるものでもないだろうと苦々しく思っていた。大切な二つの想いは、すぐそばで空回りを続けていたのだ。
そんなある日、王宮で開かれた宴の最中に、王子のそばに一人の吟遊詩人がにじりよった。青き山脈の向こうからきたという吟遊詩人は腕こそ確かだったけれど、その心のうちにはドロドロとしたものが渦巻いていた。彼は訪れる先で何かと問題を起こしていた。しかし山脈のこちら側の人々はまだそれを知らない。
悲劇や惨劇が起これば己の糧とし、それを哀歌にして歌い爪弾き、その事実を知らぬ人たちの賞賛を受ける。そうやって生きることに喜びを見出してしまった吟遊詩人は、今や悪行を重ね暗い深淵に身を落としていたのだ。彼は望む災いを引き起こすために、怪しげな術師や影に生きる精霊たちとの繋がりを持ち、ますます暗い喜びに酔いしれていた。
そんな吟遊詩人に女神に保護された泉の王国は美しすぎた。彼は弱々しいその花を踏みにじりたいという激しい欲望に駆られた。暗い笑みをたたえながら、吟遊詩人は多くの人が集うホールを見渡した。そして見つけたのだ。
お誂え向きの若者がいるではないか! 心のうちに闇を抱えるものを見つけることは、この闇色に染まった吟遊詩人にはお手の物だった。ほおほお、いい具合に苦しんでいる。人知れず舌なめずりをした吟遊詩人は、わざと王子の胸を締め付けるような哀歌を選んで弾き語り、優しい微笑みをたたえて王子に近づいた。
「殿下、なにやらお悩みでございますか? 世界を渡る私には色々と見聞きした知恵がございます。どうぞ、その苦しい胸の内をお話しくださいませ」
その言葉に王子は驚いた。常には明るい顔を見せて働いていたため、誰一人王子の心のうちを知らなかったからである。それを見破った吟遊詩人は、彼がいうように、やはり人の心の機微に聡く、助けとなってくれるかもしれない、王子はふとそう思ってしまったのだ。
今宵は悲しい愛の歌が多かったせいか、いつになく物思いに沈んでしまった。自分の想いも果たされることなく、風にちぎれていくのかと思うと、王子の胸は引き裂かれんばかりだったのだ。それが吟遊詩人に仕掛けられた罠だとは気付かず、王子はその不安を彼に打ち明けようと決めた。
王子は王宮の奥の自分の私室へと吟遊詩人をいざなった。静かな部屋に二人きり。秘めたる心の内を誰にも気づかれてはいけないという思いからだった。長く辛い時間を一人で耐えてきた王子にとって、それはまたとない機会のように思われたのだ。王子はこの怪しげな男に心を許してしまった。
一方、吟遊詩人の方はといえば、心の中では今にも笑いださんばかりだった。けれど彼は神妙な顔をして、あと一押しとばかりに王子を覗き込んだ。人の心の奥深く淀みたまったものを、吟遊詩人はその才能によって引きずり出す。それが尽きれば己の命も尽きるのだと言わんばかりに、貪欲に人々の負の感情を求めた。
吟遊詩人は、仕掛けた罪にはまったいたいけな犠牲者が傷つき苦しめば苦しむほど、もたらされる快感を甘く感じ満たされるのだ。そこで何が起き、何が失われるかなどには興味はなかった。離れていった後の土地がこの世からなくなったとしても、何一つ心動かされはしないだろう。
今、詩人は王子に囁く。王子の心という脆い杯に深い闇のような一滴を落とし、その底に沈んでいた黒い想いもろとも激しく搔き回すのだ。
「さあ、殿下、何の心配もいりません。すべてをお見せください。私めが、きっとあなたさまをお守りします」
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