第9話 熱砂と白き影たち

 いつの間にか、深く記憶の中に沈み込んでいたロディーヌは、深呼吸をしてゆっくりと目を開いた。目の前には果てしない大地が広がっていた。乾いた大地、という表現はもう適切ではないかもしれないとロディーヌは思った。土と砂の混合だと思っていたものは姿を変えていた。それは一度風が吹けば舞い上がる微粒子の寄せ集めだった。完全なる砂の世界が姿を現したのだ。不思議な隆起が現れては消えていく。


 砂は、歩き始めたロディーヌの足元にまとわりつき、やがて大街道の上にも増えて、所々道が見えなくなった。それでもまっすぐに歩いていくしかない。日射しがだんだん強くなり、気温も上がってきたようだ。

 立ち止まって汗を拭うロディーヌに熱を持つ風が吹き付けた。細かな砂が混じっていて肌を打つ。ロディーヌは顔をしかめた。砂に打たれるなど考えたこともなかったし経験したこともない。

 袖口や襟口から侵入した小さな砂のせいだろか、体のいたるところで奏で始められた不協和音に居心地の悪さが増していく。歯がギシギシ鳴るようだ。砂漠の入り口でこれほどなら、一体奥ではどれほどのものなのだろか。果たして砂漠の中を渡り歩くことなどできるのだろうか。ロディーヌはひどく不安にかられた。


 けれど西に向かうしかない、砂漠を行くしかないのだ。そしてそれは終わりではなくて始まり。本当の目的地は、この先で巡り合うものからもたらされるのだとロディーヌの中の何かが告げていた。

 核心に迫っていくのだ。そんな気はさらさらなかったけれど、もう逃げることは許されない。全てを受け入れて、今、押し開かなくては……漠然とではあるけれど、ロディーヌはそう思った。そのためにも歩き続けなくてはいけない。ロディーヌは自分を励まして一歩一歩踏みしめた。


 日差しや熱風を避けるように俯き加減で、黙々と歩き続けた。日が傾き始める頃には、これまでにない疲れを感じた。そろそろ休んだ方がいいだろうと思ったけれど、自由自治区を出てしまった今、泊まるところなどもちろんあるはずもない。日が落ちるまでに見つけた岩陰にロディーヌは身を寄せた。

 食欲はなかったけれど、背負っていたバッグから日持ちする固いパンを取り出し、ゆっくり嚙み砕き水で流し込んだ。街を歩いている時とは比べようもないほどの疲れだ。きっと、初めて体験する乾燥や暑さがこたえているのだろう。


 そして日が落ちると、今度は急に冷え込み始めた。ロディーヌはバッグからコートを出して急いで着込む。もしかしたら使うこともあるかもしれないと、軽い気持ちで詰め込んだものが役に立つとは。それにしても急激な温度変化には驚かされた。ここはもうすでに、人が安心して住める場所ではないのだとロディーヌは思った。

 フードを深くかぶり岩陰で身を丸めれば、西からの風は幾分遮ることができたが、それでも細かい砂は舞い続け冷えた粒となってロディーヌを叩く。思った以上に大変な一日になったけれど、これで空の王国に入ったことは間違いない。


「絶対カロレイアさまに会わなくては……そのために来たのだもの」


 その時まで砂漠を歩き続ける。それは答えのない旅のように思われた。どこまで歩けばいいのか、いつまで歩けばいいのか……答えなど見つかるはずもなく、ロディーヌは考えることをやめた。見上げた空には美しい月が輝いていた。故郷と同じ月だ。疲れ切ったロディーヌは泉の女神シャルレイアにこの旅の行く末を祈り、天空草の花咲く大好きな季節を想って眠りについた。


 翌朝、いよいよ砂漠はその真の姿を見せはじめた。頻繁に疲れを感じたロディーヌは幾度となく休みを取る。岩陰に身を寄せてしばし目を閉じるのだ。それはわずかな時間だったけれど、身じろぐとフードの上からさらさらと砂がこぼれ落ちた。


「っつ!」


 動かなければ砂に埋もれてしまうのだという恐怖がロディーヌを襲う。疲れても立ち止まってはいけないのだという強迫観念にとらわれそうになる。けれど疲れ切ってしまえば、逆に命も危うくなることにロディーヌは気がついた。恐怖に負けてはいけない。何のために自分はここにいるのか、何のために命はあるのか、ロディーヌは心の内で繰り返す。兄たちとともにあの青い泉に帰るのだ。苦しくなるたび、ロディーヌは自分の中に湧き出す泉をイメージして歩き続けた。


 日射しは一層厳しさを増し、風はさらに熱く強くなっていく。見渡すかぎりの砂の中に延々と続く大街道をロディーヌは一人黙々と進んだ。長く堪え難い一日は、太陽が沈むことでようやく終わったのだと知れる。変わらない風景と過酷さを増す環境が、ロディーヌから徐々に感覚を失わせていた。

 疲れ果ててうずくまり、重苦しい気分のうちにまた朝がくる。ロディーヌは壊れかけた機械仕掛けの人形のようにのろのろと起き上がり、また同じ一日を始める。いったいどれくらいの時間がすぎたのか、そのうちわからなくなった。

 けれどロディーヌはまっすぐに前を見続けた。暗い闇の中に横たわっていた日々を思い出す。永遠の地獄は、けれどある日破られたのだ。導かれているのなら、辿り着くべき先はあるのだと信じられた。発狂しそうな日々も、彼女にとっては受け入れるべきものとして捉えられたのだ。


 今や見える世界には真っ白な砂しかなかった。時折そこに岩山が現れる。不思議なことにそこにはわずかながらの緑が縫いとめられ、水が湧いていた。その水にロディーヌは助けられた。食欲がない時も、水だけは飲もうと決めた。水こそが自分の正気を保ってくれるのだとロディーヌにはわかっているのだ。

 強弱はありながらも風が止むことはなかった。もちろんそこには砂が混じっていて、汲んだ水にも当然のように紛れ込む。けれどじっとその水面が静かになるまで岩陰で待てば、やがて砂は沈んで飲むことができた。それは思った以上に綺麗な水だった。それを飲み干しながら、この水がなければ自分はどうなっていただろうとロディーヌは身を震わせた。


 砂漠に入ってからというもの、岩山があれば少し早めでもそれを今日の宿と決めた。次にいつ岩山に出会うかなどわからないからだ。風をさえぎり、水を提供してくれる岩山は唯一の頼みだ。

 そしてその岩山には、大きなトカゲのような姿をした何かがいた。彼らはみんな一様に真っ白で、硬い鱗に覆われた体は岩肌の一部と化している。昼の間は動くことなくそこに張り付き、まるで死んでいるかのようだ。初めて見た時、ロディーヌは思わず大きな声をあげそうになったけれど、相手に全く動きがないことがわかってからは気にせずその脇で水をくみ、休んだ。自分の神経も案外太かったのだと苦笑してしまう。


 太陽が沈み、砂漠が月の光に煌々と照らし出される頃、岩山に張り付いた大トカゲたちは目覚める。その目が真っ赤であることにロディーヌは気がついた。けれどその目が彼女を見ることはない。炎のような目はついていても、そこに世界は映っていないからだ。

 冷えていく砂の上、遥か先にうごめく感覚を追って、大トカゲたちの密やかな狩りは始まる。長い影が音もなく砂漠の上に伸びていった。昼間の彼らからは思いもよらないスピードで、流れていく砂よりも早く大トカゲたちは移動していく。それは不思議な光景だった。

 なぜだろう、少しも恐ろしくは感じなかった。空の王国に入ってから見た命あるものがその大トカゲたちだけだったからかもしれない。奇妙な親しみがそこには湧き起こっていたのだ。孤独に叫びたくなる世界の中で、その一時だけは心を取り戻せたような気がした。月明かりに浮かび上がる砂上の姿を横目に、ロディーヌは眠りに落ちていった。

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