第8話 砂漠へ向かう道の南と北
やがて道沿いの店が少なくなり、東から自由自治区に入ったばかりの頃と同じく空き地のような場所が目立ち始めた。ただ、こちら側には公園のようなものはなく、大きな倉庫ばかりが並んでいたりとかなり無機質な感じだ。
それでもまだそこに出入りする商人たちの姿が見えているうちは、ロディーヌも寂しさを感じなかった。けれどやがて人の姿が減り、「これより自由自治区」という看板を掲げた幾つかの倉庫を見たのを最後に道から人の気配がなくなれば、ロディーヌの胸がどきんと音を立てて鳴った。
ついに街道沿いの建物がなくなり、草もまばらな赤土が広がり始めた。まだ日は傾いていなかったけれど、なんだか一気に温度が下がったのではないかとロディーヌは思った。人の温もりがなくなったせいだ。抱えてきた不安がまたむくむくと頭をもたげ、自治区の活気が恋しかった。がらんとした大街道を乾いた風がただ駆け抜けていく。
ロディーヌは宿の主人から聞いた話を思い出していた。
砂の女神カロレイアは死を司る神だ。白き翼で世界を覆い尽くす。その真っ白な世界では何者も隠しだてはできず、奥の奥まで暴かれるのだ。それは再生への道。まとっているものを全て解き、新たに始まる場所。双子の妹である泉の女神シャルレイアが生の女神であることは、二人を繋いで生と死がくり返されることを意味する。それこそが永遠なのだ。
吹き付ける砂嵐は容赦なく、邪心を持って進む者の前に道はない。未だかつて砂漠を渡った者の話など誰も聞いたことがない。あそこへは決して行ってはいけない、あれは聖域。何人も立ち入ることは許されない。
ロディーヌがまさか西の王国を目指しているなどとは思わなかったのであろう。主人は知っていることをあれもこれも聞かせてくれた。ロディーヌは静かに相槌を打ちつつ聞いていた。自分の旅の理由もその行き先も、胸にしまったまま一言も話すことはなかった。
けれどロディーヌは感じていたのだ。その砂漠を渡れた純真な者たちはきっといる。だからこそ、その過酷さが伝わっているのだ。ただ、その者たちがその物語を誰かに自慢げに吹聴するような人たちではなかったと言うだけだろう。それは漠然とした考えだったけれど、そこには何か自分を導くようなものがあるような気がしてならなかった。
「でもここは白じゃない。女神さまの聖域だなんて到底思えないわ。それって……まだまだ本物の砂漠は遠いってことなのかしら……」
水の香りのしない赤茶けた大地。そんな光景もまた初めて見るものだった。生きるものの温かさを感じさせない風景というのはなんと味気ないものなのだろうとロディーヌは思った。
一人で歩く大街道はやけに広く感じられた。やがて乾いた土地の上に砂埃が舞い始める。大街道はこれまでと同じように薔薇色の輝きを持って続いていたけれど、周りの景色が変わったことにロディーヌは気づいた。
土に砂が混ざり始め、少しずつ世界から色が失われていくようだ。ああ、ここからが砂漠なんだ、本当の砂漠地帯に近づいているのだとロディーヌにもわかった。
ロディーヌは砂漠を見たことがなかった。知識としてはあったけれど、今初めて見るそれは、ロディーヌが想像していたよりもずっと味気なくて近寄りがたいものだった。佇む人に無関心な表情を見せ、自分がこの地上に一人残されているような孤独感を与えるのだ。先へ進むだけだと自分を励ますロディーヌだったけれど、正直を言えば心細くなる一方だったのだ。
からからと乾いた何かが走っていくのが見えた。とっくに命をなくしたものが、けれどずっと何かを探し続けるようなその様子にロディーヌはぞっとした。寂しい寂しいと何かが叫んでいた。会いたい、触れたい、聴きたい。想いがからからと回っては消えていく、それは途方もなく悲しい光景に思えた。
大好きな人と引き離されて、一人で耐える時間の恐ろしいまでに長く重く果てしないこと。暗闇の中に何年もいたロディーヌにはそれが痛いほどわかる。沈み込みそうになる気分を変えようと、ロディーヌは視線を遠く南に投げかけた。
ずっと先の方に黒々とした森が見えた。その森の中ほどに、さらに黒々とした何かが尖った山のように飛び出しているのが見えた。世界の南には海の王国があるけれど、その手前には魔領域が広がっていると考えられている。人との交流はほぼなく、どのようなものたちが暮らしているのか、ロディーヌには想像すらできなかった。
あの黒い森もそうなのだろうか。ねっとりとした何かが、森や山を覆っているような気がした。その不気味さが、遠く離れた乾いた大街道上にいるというのにただならぬ湿り気を感じさせ、ロディーヌは見えぬ手で背筋をぞろりと撫で上げられたかのように身を震わせた。
その暗さには影の中で横たわっていた日々を思い出す何かがあった。禍々しいなにか。たとえ魔領域とはいえ、明るい海の王国に近い場所には光溢れる場所もあることをロディーヌは祈らずにはいられなかった。ロディーヌは視線を引き剥がし、今度は右側を、はるか北を見やった。
砂地の向こうにほのかな色味を持つ大地が続いている。そこにあるのは確か聖獣の里だ。それもまた街道南の魔領域と同じくらい閉ざされていて知る者は少ない。ロディーヌは目を凝らしてその未踏の地を見た。
あれは岩なのだろうか。ロディーヌの位置からだと途中で砂埃が起こっていて、それがベールのように視界を遮っているためよくわからない。けれど、その荒野のような場所の所々には濃いピンクや黄色が見え隠れしていた。もしかしたら花が咲いているのかもしれないとロディーヌは思った。
すでにロディーヌの周りには何もなく、花が咲いているように見えるそこまで一体どれくらい離れているのか、そしてそれがどれくらい広がっているのか、まったく見当もつかなかった。ただ、恐ろしく広いのだということは理解できた。人という大きさの基準をはるかに超えた未知の世界だ。しかしそこに恐ろしさはなく、その岩床は見れば見るほど温かさを感じさせるのだ。黒い森とは正反対だった。
最初はわからなかったけれど、じっと見ているうちにロディーヌにもわかってきた。その大地の色は白の上に薔薇色を重ねたような色なのだ。柔らかな色。優しい朝焼けを思わせるような色だ。砂嵐のせいでそんな風に見えているだけかもしれないけれど、なぜだか不思議と心休まる光景だった。
ロディーヌは立ち止まってしばらくの間遥か北を見やった。彼女は知らなかったけれど、この大街道に敷かれた石は聖獣の里と森の王国の国境近くにある古代の断崖から掘り出されたものなのだ。幾層にもなった薔薇色の石はどの時代の何であるかはわからないけれど、その果てしなく続く断崖はかつての谷の跡なのだと言われていた。そしてその石と似た成分を持つものが聖獣の里を作る岩床だ。
「よく見えないのが残念。私たちには何も情報がないけれど、森の王国にならお隣だし何かあるかもしれないわね。きっと綺麗な場所なんでしょうね」
北に広がる柔らかな薔薇色の大地にロディーヌは命を感じた。どんな花が咲いているのだろうかと目を閉じ想像してみる。残念ながらまだ見ぬ花を思い浮かべることはできなかったけれど、閉じた瞼の裏には愛してやまない泉の王国の風景が甦ってきた。
滴り落ちる芳醇な水、吹き抜ける柔らかな風、そよぐ花たち、緑に覆われた大地とその中に張り巡らされた水路。故郷の風景が次々と沸き起こり、清涼な潤いが乾いた体に染みていくようだ。見える風景は違うけれど、もしかしたら北の大地に住むものは、自分たちと同じように美しいものを愛し守り育てるものなのかもしれないとロディーヌは思った。
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