第5話 微笑みを乗せた船

 これは自分の使命なのだと、強い気持ちで臨んだ旅。それでもやっぱりロディーヌも十七歳の少女なのだ。ふとしたはずみに不安で足元をすくわれそうになったり、じわじわと怖さを感じて泣きたくなったりもする。

 けれど、想像していた以上に温かい交流や泉の王国を誇らしく思える機会があったりと、自由自治区に入ってからのロディーヌは、心に抱える不穏なものをうまく紛らわされていた。

 それに一日歩き続ければ、疲れ切ってすぐに眠りに落ちる。そうすれば余計なことも考えずに済む。そうやって自分を騙し騙し過ごしてきた。そんな日々があとどれくらい続くのか、正直考えたくもなかった。


 そんなロディーヌに、ひと時とはいえ、全てを忘れさせてくれるような輝きがもたらされたのだ。幼い頃から夢に描き続けた帆船が、今ロディーヌの心をさらっていく。目の前に展開される美しい物語、それは憧れの船旅の夢だ。

 ロディーヌは陽光と風の中で誰かと一緒に笑っている。誰だろうなんて考えもしなかった。いてくれて当然の人、世界にこの人しかいない人、大切な大切な人、ロディーヌはそう感じていた。同時にそれは夢なのだということもわかっていた。けれど、だからこそ、今だけはそんな夢の中に浸っていたいと願ったのだ。


 残念ながらその人の顔までは見えなかったけれど、なぜか、あの日ジェロームと一緒に見たヴァナンドラを思い出さずにはいられなかった。船が海の王国を感じさせるからだろうとも思ったけれど、それ以上の何かがそこにはあるような気がしてならない。ヴァナンドラが自分をじっと見つめているような、そんな感覚にロディーヌは囚われた。


「ああ、なんて綺麗なんだろう。光よりも水しぶきよりも、もっともっと澄んで輝いてるわ。なんだか飲み込まれてしまいそう……ううん、包み込まれる、かしら……」


 それはとても幸せで温かさに満ちた夢だった。ロディーヌは年頃の娘らしく、その甘い痺れにしばし酔いしれた。張り詰めていた心も不安に押しつぶされそうな心も、この時ばかりは輝く陽光と水しぶきのイメージに柔らかく包まれていく。


 ぱしゃん! と波止場に打ち付けられる波の音でロディーヌは我に返った。日はいつの間にか落ちていた。もちろん街灯は赤々と灯され、大運河の様々な場所が照らし出されている。行き交う船の活気も変わらないように見えた。

 それでも、どこもかしこも明るくて、昼間と変わらないような街中に比べれば、運河沿いは幾分照明が落とされた場所も多く情緒があった。照らし出されて色鮮やかな帆がはためく向こうの空が、だんだんと暗くなっていくのも一興だ。

 眩しい陽光の下の帆船も大いなる冒険心をくすぐられて良かったけれど、星空の下で揺れる帆船もロマンチックでため息がこぼれる。世界中から集まってきた人たちが、この風景の虜になる気持ちがよくわかった。

 けれどロディーヌにはそんな旅人たちが持ち合わせていない過酷な運命が示されているのだ。闇に包まれる空に、さっきまでの光に満ちた夢も薄れ、じわじわと胸に迫るものがあった。自由自治区を抜ければ、その先は未知なる砂漠だ。


「それでも行くだけだわ。何が起きるかなんてわからないんだから……心配しても仕方がない。今を楽しむことが一番だって、お兄さまたちがよく言ってたじゃない。期待はしないけど……素敵なことだって起きるかもしれない」


 ロディーヌは自分に言い聞かせるように呟いて運河沿いの道を歩き始めた。南北に走る大街道に、この東西を結ぶ道が交差するまではまだ距離がある。大運河はまっすぐではなく、ここ自治区では東に大きく蛇行しているためだ。交差する街道地帯はより一層忙しくなくなる。どこよりも多くの乗り降りがある大運河も然りだ。混雑を防ぐためにそう設計されている。


 すっかり遅くなってしまったから、今夜の宿を急いで探さなければいけない。見上げれば、思った以上に宿の印があってロディーヌはほっとした。ただ、船着き場に近い分、ここでもギルトの旗がはためく宿が多くなっていることに気づく。この風景を楽しみたい人や、国外の貴賓用に特別な宿が作られているのだ。

 ロディーヌは薔薇色の旗をきょろきょろと探した。窓から大運河を見たいだなんてそんなことは言わない。いや、逆にそうではない方がいいような気がした。綺麗な夢を見すぎては心が苦しくなってしまう。今はただこじんまりと暖かく夜を過ごせるスペースがあれば良い、ロディーヌはそう思った。


 しばらく歩くと小さな路地があり、その先に薔薇色の旗が掲げてあるのが見えた。ロディーヌは迷うことなく路地に足を踏み入れた。年季の入った木の扉はまるで普通の家のようだ。両脇の窓下にはコンテナに入ったかわいい花たちも揺れている。こんな夜には願ってもいない宿のような気がした。ロディーヌはそっとベルのついたその扉を押した。


その旅籠は、家族で経営する小さなものだった。まるで親戚のうちに泊まりにきたような温かさが、一人旅で疲れていたロディーヌを包み癒してくれる。そして心のこもった夕飯のあと、宿の小さな一人娘が分厚い本を抱えてやってきた。


「ねえ、お姉ちゃん、これ見て。お姉ちゃんにそっくりだと思うの」


 それはロディーヌも小さい頃に読んだ「世界の昔話」だった。世界にあまたある神話や逸話などを子どもがわかりやすいようにお伽風に作り直したもの。ただ、どこの国も外国のものが好まれる傾向にあるため、国ごと地域ごとに、その内容は異なっていた。

 ロディーヌは、森の王国や海の王国の話を繰り返し読んだことを思い出す。自分とは違う髪の色、瞳の色、それだけでもう胸が高鳴った日々。優しく楽しい話が多かったけれど、中には手に汗握る冒険談もあった。ようやくハッピーエンドに辿り着いたとき、どれほど安堵したことか。それは小さな子どもたちにとって、宝物のような本なのだ。

 娘が嬉々として差し出したページには、青い服を着た金髪の少女が描かれていた。ロディーヌの祖国、泉の王国の物語だ。


「ね、おんなじでしょ。おんなじ髪の色、おんなじお洋服。すごいでしょ!」


 大きな目をキラキラさせて自分を見上げる少女。優しく頷きかけたロディーヌは文章に目を通す。

 放蕩者の兄たちは数々の悪さをして、ついには女神の怒りに触れ、醜い鳥に変えられてしまう。けれど心優しい妹が、たとえそんな兄たちでも大切な家族なのだと、遠くへ飛び去った彼らを追いかけて長い旅に出、苦難の末に兄妹は巡り会う。娘はその時、己の指を犠牲にして兄たちを救うのだ。妹の美しい心に胸を打たれた兄たちが、涙を流し悔い改めれば、恐ろしい呪いはとうとう解ける。四人は手に手を取って国に帰り、今度こそ、みんなで幸せに暮しました、というお話。

 愚か者は罰せられるという教訓と、誰かを救いたいという純粋で美しい気持ちは奇跡をもたらすという希望が書かれたお話だ。神話から引き継がれたものが、口伝えで少しずつ形を変え、このような物語になったのだと言われている。そしてそれは、そのままロディーヌの物語でもあった。

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