第4話 幼き日の夢は海からの風にはためく

 ロディーヌが深い眠りからゆっくりと覚醒すれば、もう日はすっかり登りきっていた。随分寝坊してしまったけれど、おかげで疲れは取れたようでほっとする。まだまだ旅の序盤、体調を崩しては元も子もない。

 昨日と同じように丁寧に紅茶を淹れたロディーヌは、菓子パンの残りを朝食にした。それでもまだ食べきれない。


「もう、本当に……持たせすぎなんだから。でも……ありがとうございます」


 母を彷彿とさせる昨日の女性に感謝の言葉を紡ぎながら、ロディーヌは菓子パンの残りを大事の奥へとしまった。今日のおやつに十分なるだろう。


 大街道に出れば街はもう活気に満ち溢れていた。街道沿いにずらりと並ぶ店、その奥には工房がひしめき合い、そこでは多くの職人たちが、世界を支える様々な商品や作品を生み出しているのだ。そしてさらにその奥に、職人たちの暮らす通りが広がっている。

 表の店で気に入ったものがあれば、その店の主人に案内してもらって工房に赴き、商談することもできる。冷やかしで入ったつもりが思わぬ発見につながり、それが大きな展開を生むこともここでは日常茶飯事だ。輸出入や取引といったことにまだ知識も経験もないロディーヌだったけれど、それでも街道沿いの店を覗くだけで、十分にそんな世界の奥深さを感じることができた。


 店々には、この街で職人に生み出されるものだけではなく、世界のあちこちから運ばれてきたものも並んでいる。見慣れた泉の王国の野菜や果物の前にも人だかりができている。特殊なものも多く、美食家の間で大評判なのだ。ロディーヌはその人気ぶりに嬉しくなってしまう。さらに、天空草の花の青に彩られたショーウィンドを見上げて感嘆の声を上げる人たちを見れば、誇らしさで胸がいっぱいになった。

 ただ通り過ぎていくだけだと思っていた道も、多くの発見と感動をロディーヌにもたらした。もちろん抱える不安ゆえに全てを手放しで喜ぶことはできなかったし、一人なのだと気づけばその高揚感も長くは続かない。それでも活気あふれる街の様子にロディーヌは勇気付けられたのだ。


 午後の日差しが傾き始めた頃、ロディーヌは思わず足を止めた。目の前に見える光景が信じられなかった。


「うそ……え? どうして?」


 たくさんのバルコニーを持つ高い建物の間に、真っ白な帆を張った大型船がゆっくりと見え隠れしているのだ。そんな大きな船を見たのは初めてだったし、なぜこんな街の真ん中に船があるのか見当もつかなかった。それはまるでおとぎ話のような不思議さで、ロディーヌの心はあっという間に、子どもの頃の好奇心を取り戻した。気がつけばロディーヌは、その船目指して駆け出していた。


 通りを抜けると途端に視界が開けた。キラキラと何かが反射している。水面だ。街の真ん中に大きな川が流れているのだ。ロディーヌもその名前だけは知っている川。世界の南北を繋ぐ世界大河。ロディーヌはその大きさに目を見張り、圧倒的な水量にまだ見ぬ海を想像した。南に広がる海はもっともっと広いのだと思うと、軽くめまいを感じるほどだった。

 大小の船、色とりどりの帆。荷を運ぶための簡素で小ぶりな船も多かったけれど、それでも泉の国の天空草を運ぶボートとは桁違いの大きさだ。中には船頭船尾に美しい像が付いている優美なものもあり、それらは常から舟を操る海の王国のものに違いないとロディーヌにもわかった。さっき見えた大型船もその類のものだろう。


「ああ、ジェロームさま! 船です! 海の王国の帆船です!」


 ロディーヌは感嘆の声を洩らした。それはもう何年も前のこと。まだ八歳のロディーヌは兄たちとお城の舞踏会に参加したことがあった。子どもたちばかりが集められた部屋でロディーヌは自分よりも小さな男の子の横に座った。それはまだ六歳の王太子ジェロームだった。

 恥ずかしがり屋のジェロームに、可愛い弟ができたような気分で優しく接すれば、ジェロームはすぐにロディーヌに打ち解けた。そして、ジェロームが自分の部屋から持ち出してきた大きな図鑑を、窓際に場所を移して二人で覗き込んだのだ。

 海の王国のことが詳しく書かれた本のようだったけれど、ロディーヌが見たのはほんの二頁だけだ。まずはジェロームが瞳をキラキラさせて教えてくれた「大きな船」、そしてその次のページにあった「黄色い宝石」。そのどちらもがロディーヌの心を激しく掴み取った。


「これは……本当に動くのですか? 天空草のボートよりもずっとずっと大きいのですよね?」

「ああ、たくさんの人を乗せて一度に運べる、『はんせん』というものだ」

「ジェロームさまは『はんせん』がお好きなのですか?」

「ああ、いつか自分のものを作りたい、持ちたいんだ」


 まだ六歳だったけれど、ジェロームはすこぶる聡明で、その強い意志や情熱は、ロディーヌにも十分に伝わってきた。彼ならきっと海へ行ける船を作れるだろう。泉の王国にはそんな船が通れる水路などなかったけれど、わけもなくロディーヌはそう思ったのだ。はためく白い帆、青く輝く海、それは胸踊る冒険の世界だ。ロディーヌとジェロームは綺麗な挿絵を指差していろんなことを話し合った。楽しい時間だった。


「ロディーヌ、女性はこのようなものも好きなのではないか?」


 ジェロームが次にめくって見せてくれたものを見た瞬間、ロディーヌは息が止まるかと思った。そこにあったのは輝く太陽のような石だった。そんな美しい石は見たことがなかった。


「これは海の王国の特別な宝石だ。名前は……ヴァナンドラ、だ。うん? ロディーヌどうした? 具合でも悪いのか?」

「いいえ、大丈夫です。ただ、びっくりしてしまって。とても綺麗で……」


 息も絶え絶えのロディーヌを見て心配そうに声をかけたジェロームだったけれど、突然「あ!」っと声をあげると駆け出していった。そして、すぐに戻ってきたその手には何かが握られていた。首をかしげるロディーヌに向けてジェロームが指をひらけば、繊細なチェーンのネックレスが見えた。そこには小さな光のような石が光っている。


「そうだった、これはヴァナンドラだ! 母上からいただいた。ロディーヌがそんなに好きならば」

「だ、だめです! それはジェロームさまが大事になさってください。もし誰かに贈るとしても、その時はちゃんと大切な人でなくてはだめなんです。ほら、ここを」


 ロディーヌが指した先をジェロームも覗き込む。

 ヴァナンドラは古い海の王国の言葉で、「海が愛するもの」という意味である。大切な人、特別な人に贈る宝石だと書かれている。今ここで、ロディーヌがジェロームからもらっていい代物などではないのだ。それもジェロームの母上のものなど、とんでもない。王妃は早くに亡くなっていて、それはジェロームにとって形見。まだ小さい彼はそれを理解していないのかもしれないとロディーヌは思った。


「これは特別なものなのですよ、ジェロームさま。大切に大切になさってください」

「……わかった。でもロディーヌは」

「大丈夫です。私もいつか、ヴァナンドラを贈ってくださるような素晴らしい方に巡り会えるよう、頑張りますから」


 そんなことを約束しあったことをロディーヌは思い出した。それは兄以外の人たちとの思い出としては特別なもので、今なおロディーヌの心の中にくっきりと残されている。


 しばらくお会いしていないけれどジェロームさまはお元気だろうか。まさか私がこんな世界大河のほとりにいようとは夢にも思わないだろう。ロディーヌはジェロームの綺麗な水色の瞳が驚きで大きく見開かれる様子を想像してくすりと笑った。

 また一隻船が着く。真ん中の帆柱には海の王国の色である鮮やかな青緑の大きな帆、その周りには金色の小さな帆を幾つもはためかせた美しい船だ。いつか自分もそんな船に乗って、遠く海の王国や森の王国に行ける日が来るだろうか。ロディーヌは幼い少女のように目を輝かした。

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