第13話 はるか西への準備
両親も諦めたわけではなかった。いつか息子たちは帰ってくるかもしれない、そう信じていた。けれどそれがいつになるのか全く見当もつかず、期待はせずにいたのだ。もしかしたら、そんな日は二度と来ないかもしれないという想いも同時にあったことは確かだ。
良くも悪くも七年という月日は大きい。変わらぬ日常が戻り、ようやく娘が明るさを取り戻してくれたこの頃、セオドアたちの中には、もうこのままでいい、このまま平穏に時が過ぎてくれれば、という思いが芽生え始めていた。それなのに……! 今また娘まで失うかもしれないなんて! 二人は激しく怯えた。
それゆえに、躍起になってロディーヌを説得する日々は続いたけれど、それでもロディーヌの決意は変わらなかった。取り乱す両親の手を取り微笑むロディーヌの姿は、親の贔屓目を差し引いても神々しいものだった。女神シャルレイアの言葉が強固な護符となってこの旅を守ろうとしていることは明らかだ。最後は涙ながらにセオドアたちが折れることとなった。
けれど彼らも薄々気がついていたのだ。長きにわたって空っぽだった娘が青き水に満たされ本当の微笑みを取り戻した日から、何かが始まろうとしているということを。
そしてついにそれは大きく動いた。ロディーヌは己の力を、大切な人々の言葉を信じ、歩き始めたのだ。
遠く指し示された西は大ガラスになった息子たちの消えた空の向こう。女神の青の紋章を持つロディーヌが、女神の言葉を授けられて出発する、それはこの国で一番女神に近しい位置にいると言っても過言ではないサフィラス家の者たちには当然のことのようにも思えた。
「お父さま、お母さま、私は思うんです。あの忌まわしい出来事も、長きにわたる苦しみの日々も、みな私たちに託されたものではないかと……。これは終わりではなくて始まりなんです。女神さまが本当に求めていらっしゃるものを、私は取り戻しに行くのです」
想像したこともないような世界の果て。その遠き道を行く娘を想ってセオドアたちの胸は引き裂かれんばかりだったけれど、深い信仰の元、彼らはロディーヌの言葉を信じて頷いた。そして、必ず無事に帰ってくるようにと、二人もまた泉の女神に願かけをすることにしたのだ。
泉を愛するロディーヌをどうぞお護りください。彼女が帰って来る日まで、小さな泉を守り、週に一度は聖域から新しい水を汲み、祠に捧げて祈ることを誓った。癒しの泉の水を飲んだ者は必ずその地に帰れるように女神が守ってくださる。この領地の者はみなそう信じている。ロディーヌも笑って言った。
「私もお兄さまたちもあの日、たくさん飲みました。だから大丈夫。きっとみんな帰ってこられます」
天空草の花が満開に咲き乱れる季節の中で、ロディーヌは遥か西の空を振り仰いだ。空の王国、西の果てに位置するその国に行ったことがある者のことなど、誰一人聞いたことはなかった。そこには果てしない砂漠が無限に広がっているのだと言われている。
見渡す限りの砂の世界……穏やかで平穏な王国の中ではまるで夢物語のようだ。それをどこまで渡っていけば女神に会えるのか全くわからなかったけれど、今はただその道を行くしかない。もちろん、得られる情報などあるわけもなく、ただ出来るかぎりの準備をしたいとロディーヌは思った。
兄たちとともに帰ってくることを強く信じてはいたけれど、何があってもおかしくはないのだ。取るものも取らず飛び出して行ってはいけないと、焦る自分をロディーヌは戒める。両親とこれまで以上に日々を丁寧に楽しく仲睦まじく過ごし、心残りを作らないことをロディーヌは密かに決めた。
「次の春が来たら出発します。大丈夫、すぐにいなくなったりはしませんから、安心して。それに私、世界のことなど何も知りませんから、ちょっと勉強しなければいけませんしね」
そう言って朗らかに笑えば、両親の強張った体から少しは力が抜けていくようだった。この七年、両親は苦しんだ。苦しみながらも自分を信じ守ってくれたのだから。今は穏やかな日々を二人には過ごしてもらい、笑顔で見送って欲しいと心から思った。
「そうそう、お兄さまたちの部屋に大きな地図があったはず、ちゃんと見ておかないと」
そう気がついて部屋に急いだロディーヌは貼られた世界地図を見て拍子抜けしてしまう。なんという大雑把な……それだけ世界はまだ身近ではないということだ。あまりにも人は知らなすぎた。
けれど、ありがたいことに、この世界には大きな街道が敷かれているのだ。行く人は少ないというのに、不思議なものだとは思う。ふと、それは未来のあるべき姿なのかもしれないとロディーヌは思った。とにかく、空の王国へはただまっすぐに、大街道を西へ進めばいい。それは旅慣れないロディーヌにとって大きな助けとなるはずだ。
南北に伸びる大街道、東西に伸びる大街道、それが交わる場所が自由自治区で、さすがのロディーヌも名前くらいは聞いたことがあった。多くの人が生活する場所、世界の物流の中心。その中を通っていくのだ、西の果てにたどり着くまでは寂しいかもしれなくても問題なく旅を進められるだろう。
もちろん、今まで経験したこともないような距離を歩かなくてはいけない。王国から出たことのないロディーヌにとって、それは十分に大きな旅だ。しかし、本当の旅はその先なのだと、ロディーヌは空白のままの地図を見つめた。何も描かれていない西の果て、砂漠に足を踏み入れる時からがロディーヌの旅なのだ。
「でも……心配しても仕方がないわね。こんなこと、きっと後にも先にも経験できないわ。自由自治区や砂漠が見られるなんて、私は幸せな人間なのよ」
小さい頃から憧れた物語の国、北の森の王国や南の海の王国へも大街道は続く。行くことができればと胸を高鳴らせた幼い頃の夢とは少し違ってしまったけれど、ロディーヌは奇しくも西へと向かうことになった。自分にはないだろうと思っていた機会を与えられたのだ。それはきっと喜ぶべきことだろう。
ロディーヌは泉の王国の人間だという誇りを胸に旅しようと思った。自分の中の青のきらめきを失わなければ、きっとその青が導いてくれるような気がしたのだ。だからそれを念頭に旅の準備を始めた。
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