第10話 青き水の復活

 ロディーヌは空を振り仰いだ。しかしそこにはもう青い輝きはなかった。花は終わり、蝶たちははるか森の王国へと旅立ったのだ。圧倒的な青の力が消えた空を前に、ロディーヌはまた自分の小ささを感じずにはいられなかった。


(ちっぽけな青。出来損ないの青。私なんかが本当にできるのだろうか)


 ようやく見つけたものがまたグラグラと崩れそうになる。目の前が歪み、胸が締め付けられ、よろめいたロディーヌは、再びそばの壁に手をついた。と、その前をふと何かが横切った。

 エピステッラだった。はぐれたのか、置いていかれたのか、迷ってしまったのか。仲間たちはもう旅立ったというのに、花畑ではなくてこんな街の中でたった一匹。その姿は今にも崩れ落ちそうなほど弱々しかった。


「そっちは危ないわ!」


 ロディーヌは己の不調さえも忘れて叫んだ。荷馬車になどぶつかってしまえばひとたまりもない。声が届くとは思えなかったけれど、そうせずにはいられなかった。ところが不意に、蝶はロディーヌへと向き直った。そして一呼吸ののち、まっすぐロディーヌの方へと飛んできたのだ。


 蝶はロディーヌの美しい髪の青い一房にとまり、緩やかに羽ばたきを繰り返した。その姿をロディーヌはじっと見守る。小さな体にみるみるうちに活力がみなぎっていくのが感じられた。翅の先までもがつやつやと輝きを増していく。ロディーヌの水が、弱り切った蝶を癒しているのだ。

 やがて蝶はゆっくりとロディーヌを仰ぎ見た。そして、彼女の天空草の花のように美しい瞳を覗き込み、その翅を震わせた。


「喜んでいるの?」


 ロディーヌは、心の中に光が差し込むような喜びを覚えた。驚くべき速さでわだかまっていた闇が払われ、限りなく澄み渡っていく。小さな青からもたらされる水の音が一段と大きくなった。ああ、自分は、自分の青は役に立ったのだと、熱いものが込み上げる。

 長い年月をかけて侵食された心の空洞に、今、綺麗な水が満たされていく。青い輝きがさらに広がり、まるで自分の中に癒しの泉が出現したかのようだ。彼女に宿る青がエピステッラを救った。けれどロディーヌもまた救われたのだ。

 髪から離れ、ふわりと舞い上がった蝶にロディーヌは優しく言う。


「さあ、早く。きっと大丈夫、追いつけるわ。また会いましょう。青い花が咲く頃に」


 蝶は力強く羽ばたいて、今度こそ迷うことなく北を目指した。仲間たちの消えた空にその姿が吸い込まれて行った時、ロディーヌは心からの感謝を女神に捧げた。


(私は生かされている。ちゃんと役割を与えられているのだわ。自分の中にある青が紋章でなくたって構わない。この色を誇り、生きていきたい……)


 もう一度やり直そうとロディーヌは思った。憎しみや怒りから生まれるものはなに一つなかった。けれどそれさえもきっと、いつか自分にとってかけがえのないものになっていくような気がした。

 

 どこかで憎悪に取り付かれている人に出会えば、その人の悲しみの深さを思い知れるだろう。苦しみの日々を感じてあげられるだろう。そして自分もそうだったと教えてあげられる。助けてあげられるかもしれない。

 ちっぽけな自分。価値のない自分。なに一つ大きなことはできないだろうと思ったけれど、ないものをねだる前にできることを探すべきなのだ。小さいなら小さいなりにできることがある。それを信じることこそが始まりの一歩なのだ。

 誰もが役割を持って生まれてくる。それは全て等しく大切なもの。それが結びつきあって、世界は作られている。それを忘れてはいけないのだ。

 粗末にしていい命などない。生かされている意味がわからないのなら、探しに行けばいい。生きるとはそういう事。完全なものなどないのだから、等身大の自分でぶつかっていけばいい。


 その日からロディーヌは兄たちを取り戻す方法を精力的に模索し始めた。とは言え、何から始めていいものか……。しかしわからないままにも、ロディーヌの体は領主館裏にある泉へと向かった。

 小さな頃から慣れ親しんできた清らかなるもの。その脇には小さな祠もある。特別なものではない。国中で見ることのできるものだ。誰のものというわけでもないそれらは、一番近くに住むものが心を込めて世話をするのだ。

 幼い頃のロディーヌも、兄たちとせっせとこの祠に水や花を捧げたものだった。今そこには何もなかった。もちろん綺麗に保たれてはいる。忙しい合間を縫って母が掃除を続けてくれたのだろう。文句のつけようがなかったけれど、ロディーヌは寂しさを覚えずにはいられなかった。


「お兄さまたちだって、きっとここに花をたくさん飾りたいと思うはずだわ……」


 袖を捲り上げ、水をまき、目につくところすべてを一心に磨き上げたロディーヌは、日が傾き始めた頃、一輪の天空草の花をそこに飾った。泉の周りに咲く最後の一輪だった。


「来年の夏にはお兄たちと一緒にここに青をいっぱい飾りつけられますように」


 ロディーヌは奥にかけられた女神の絵姿をじっと見つめた。その背には二枚の大きな翼が描かれていた。それは天空草の花よりも、エピステッラの翅よりも、青く輝いている。女神の有する青は類まれな輝き、泉の王国の至高の色だ。


 どの国でも信仰する神はその姿を民の前に見せ、人々はそれを像に彫ったり絵にしたりすると言われているが、泉の女神は今もまだ傷ついたまま姿をあらわすことはない。神をより感じることができると言われる者にさえ、女神は未だ青い陽炎のようにしか見えないらしい。

 ロディーヌは自分たちを抱きとめた白い腕を思い出す。あの時、自分たちを導いた女神は何かを託そうとしたのだ。自分たちが生かされたのはその始まりなのだ。そう思わずにはいられなかった。


「シャルレイアさま、どうぞお許しください」


 女神に向けた己の負の感情をロディーヌは心から詫びた。そして、もう一度女神に目通り叶う日を願って来る日も来る日も祠を清め、祈った。女神と結びつき、謎を解き明かすきっかけを得たいと望んだのだ。すべては青の輝きの中に秘められた何かなのだと、そう感じていた。女神から与えられるものは、己の強さの中に花開く。生きることを、兄たちを救うことを決めたロディーヌは、その決意を女神に届けるべく、祈り続けた。

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