第9話 生まれ出る本当の強さ
この世界に戻ってはきたものの、もはや両親のために生きながらえることしか考えていなかったロディーヌには喜怒哀楽は存在しないも同然だった。自分など価値はないものであり、その体が朽ち果てていこうが興味もなかったのだ。
泣いたり笑ったりと大忙しだった小さなロディーヌは、あの日、大ガラスの翼で遠く西の彼方へと吹き飛ばされてしまった。いや、女神共々、深い水底に横たわったままなのかもしれない。どちらにせよ、ロディーヌにはこの世界について思うことはもうないはずだった。それなのに……。
そんなロディーヌの中に湧き上がった感情。それは怒りだった。ロディーヌが生まれて初めて持った闇色の負の感情。兄たちをなくしたときでさえ、彼女を支配したのは悲しみや絶望感で、運命や女神への怒りではなかった。そんな自分がなぜ向けられた一言にそこまで反応したのか、ロディーヌ自身にもわからなかった。ただ何かにつき動かされた、そんな瞬間だった。
「あ、わ、あぁ……」
役に立たない喉の代わりに、ロディーヌは天に向かってその心で叫んだ。
(女神さま、これはあなたさまの気まぐれなのですか? 私たちが何をしたというのでしょう。誰よりも気高いお父さまが、どれほど真摯にこの世界と向き合われているか。お母さまがどれほど領地のみなを愛しているか。女神さまはよくご存知ではないのですか? それなのになぜ……私たちは貧乏くじを引いただけなのですか? ああ、あんまりです。不公平ではありませんか、ひどすぎます。お兄さまたちを返してください)
誰よりも清らかに生きようとした娘が歪んだ黒い心に我を取り戻すとは、あまりにも皮肉だったけれど、それが凍てついた心に火を灯したことは間違いない。ふつふつと
怒り、さらにはそれをぶつける先が女神であるなど、信仰心厚いサフィラスの娘のすべきことではない。そう思いながらもロディーヌは止められなかった。自分にはないと思っていたものがあふれ出すことに恐れを感じながらも、心のどこかで合点がいっていた。美しいばかりでは生きられない。醜い感情を受け入れて初めて、人は人になるのかもしれない。生きることを本当の意味で知るのかもしれない。
「お兄さまたち、こんな醜いロディーヌを許してくれますか?」
ひび割れた小さな声が喉の奥から絞り出された。頼りなく、今にも消え入りそうだったけれど、それでもそれはこの世界の中に流れ出たのだ。
一つこぼれれば、あれもこれもと繋がっていく。受け入れるばかりの自分を捨て、生きることにしがみつけ。納得できない悔しさをすべてぶつけ、答えを掴み取ろうともがけ。敬虔で従順で、与えられたものを喜ぶことは、恵まれた環境の中だからこその美徳だったことにロディーヌは気づかされた。
清らかさを求める自分のままでは朽ち果てていくだけだっただろう。けれど何かがそうはさせなかったのだ。
同時にロディーヌは思った。もしかしたら人と違う自分のあれこれは、女神に愛されている証拠などではなくて、女神の大いなる怒りによって生じたものなのかもしれない。それならば、呪われるべきは兄たちではなく異形の自分。泉の乙女だなんて、女神の紋章だなんて、やはり忌まわしいものでしかなかったのだ。とんだお笑い草だと。
こんなもの、こんなもの……ふらふらとロディーヌは通りへ出た。行き交う人ごみや荷馬車の砂埃、何もかもがけたたましく、ロディーヌは耐えられなくなってそばの壁に手をついた。息苦しくて、胸をかきむしって空を見上げた。
「あっ!」
そこには遠く旅立っていくエピステッラたちの姿があった。空を覆い尽くすほどの青。圧倒的な青。エピステッラ、世界を繋ぐもの。想いを運ぶもの。ロディーヌが大好きだったその蝶は、兄たちとの楽しい思い出の象徴だ。だからそれが一瞬にして燃え尽きて以来、ロディーヌが蝶を見ることはなかった。
それはロディーヌにとってこの世界で一番おぞましいものになったはずだった。それなのに……青い光のような蝶たちは、やはりこの世界で一番美しいものでしかなかった。愛する輝きだった。
「……青、青、私の青……」
思えば、どんな暗闇の中でもそれはずっとそばにあった。この世界に未練はないと思いながらも、それだけは手放せなかった。ほのかな青に寄り添えば、微かながらにも大好きな兄たちの声が、泉から湧き出す水の音が聞こえた。
再び青の輝きに接し、ロディーヌの中で大きくなっていくものがあった。
『……ロディーヌ、ロディーヌ……ロディーヌ!』
懐かしい兄たちがくっきりと自分を呼ぶ声をロディーヌは聞いた。
「会いたい! お兄さまたちに会いたい! お兄さまたちのところへ行かなくては!」
雑踏の中で、遠くなっていく蝶たちを見つめたままロディーヌは微動だにしなかった。けれど心の中では、湧き上がった様々な想いが少しずつ結びつき、一つの形を作り出そうとしていた。いつしか、女神への怒りも、異形の自分を卑下する気持ちも薄れ、もしかしたら、そこには深い理由があるのかもしれないという想いが新たに芽生え出た。
(生きよう、行こう! たとえ自分が呪われた存在で、女神さまから憎まれていようとも、だからこそ進まなくては。この命を賭けて、お兄さまたちを助けた時、私は全てを知るのかもしれない)
そう確信した時、ロディーヌの中に生まれた怒りが形を変えた。みなぎる力はそのままに、荒ぶる気持ちだけが収まっていく。押しつけられた悲劇にこれ以上振り回されたままではいられない。誰よりも信仰厚く、この領地のために、花のために生きてきた自分たちに、この悲劇が下されたのはなぜか。自分たちにはそれを知る権利がある、ロディーヌはそう思ったのだ。そして、それを解き明かすことこそが、残された自分の使命なのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます