幕引きと幕開け

「でも、ちょうどよかった。しっかりしてるうちに渡せる」

 亮一がカバンから通帳を取り出してオレの前に置いた。その通帳にはオレの名前があった。

「何だよ、これ」

「直さんに頼まれてた200万の定期」

「200万! なんで!」

 オレは眉間の皺をさらに深くして声を上げた。

「ケン…」と吉岡が人差し指を立て、唇に当てる。

 オレは吉岡を見て首をすくめたが、内心の動揺はそのままだ。

「200万て何だよ」と声をひそめて亮一を問い詰める。

「知らないっすよ。オレは直さんから指示された通りに、ケンさん名義で定期にしただけで…」


 亮一が怪訝な表情でオレを覗き込む。

「ケンさんが直さんに頼んだんじゃないんですか?」

「いや… 頼んだ覚えはないし…」

 吉岡が小さく咳払いをする。見ると、片目を閉じて合図している。

 あ、と声が漏れた。

「ああ、そうだ… そう言えばオレが頼んでたんだ。忘れてたよ」

 オレは慌てて引きつり気味の笑顔を亮一に向ける。

「勘弁してくださいよ。結構な額なのに忘れるなんてありえねー」

 亮一が疲れた顔に呆れた笑みを浮かべた。


「だけど、こうして見ると、お前はもう立派なエリート銀行マンだな」

「銀行マンなんて、言うほど良いもんじゃないっすよ」

 亮一はカウンターに片肘を付いて、手の甲で頬を変形させ、深い息を吐いた。

「オレ、今まで自分がどれだけ恵まれていたか、日々実感してますよ。銀行入るまで、オレの周りには意地悪な人も、悪意を隠してる人もいなかった。井の中の蛙がこの歳になって、ようやく大海に放り出されて、もうへとへとっすよ」

「お前そういう免疫なさそうだもんな。見るからに、のほほんと幸せに暮らしてきた感じだよなあ」


「ケンさんは? 悪意ある意地悪な人が周りにいたの?」

「お前より2年長く生きてる分それなりにな。女は怖いぞ。羊の皮をかぶって表れる」

「ああ、彼女の話か…」

 半開きの眠そうな目でフンと鼻を鳴らす。

「まあ、彼女は小悪魔くらいが可愛くてあこがれるけどな」

「小悪魔の彼女? それが亮一のあこがれ?」

 吉岡が目を見開かせ、唐突に口を挟んでくる。

「違う違う。どっちかって言うと、俺がそうなりたいって言うか。年上相手に小悪魔になるのも楽しいな… なんてね」

 亮一がおどけた笑いを見せる。

「なるほどね。年上と付き合う場合は、オレが我ままになればいいのか。勉強になるわあ」


「ケンさん、なんかあったんすか?」

 その問い掛けに言葉を詰まらせていると、吉岡が「何もないよ」と助けてくれる。

「君も仕事や人間関係で疲れてるけど、ケンはもっと色々なことに疲れてるんだよ」

 吉岡が軽くオレに片目をつぶる。

「ケンさん、お互い辛いっすね。オレ、昔に戻りてーわ」

 亮一はカウンターで突っ伏すと、そのまま動かなくなった。

「おい、亮一… なんかお前が酔いつぶれてるとオレは酔えない。てか、おれの立ち位置奪うな。おい、亮一。ここは酔って寝込むような店じゃないぞ」

 オレが亮一の背中をゆすると、吉岡がいいよと止めた。

「しばらく寝かしてあげよ。きっと疲れが溜まってるんだろ… まったく、この店、君ら二人に潰されるな」

 吉岡が目を細めて優しい微笑みをこぼす。


「七瀬さん、この200万…」

 オレは声を潜めて切り出すと、吉岡はうんと頷いた。

「直が愛美ちゃんから取り返した金だから。全額とはいかなかったみたいだけどね。大事に使えよ」

 吉岡が囁き声で答える。

 オレはしばらく、通帳に見入っていた。

 金が入る度に愛美に渡していたから、正直なところ、総額いくら貢いできたか、細かい数字は全く把握していなかった。どうやら傍で見ていた草壁のほうが、しっかり金勘定をしていたようだ。


「かなわないな… オレ、直さんに頭上がらない」

「何を今さら言ってる? ガキの頃から世話になってるんだから、頭上げようなんて思わないほうがいい」

 オレは何度かうんうんと頷いていると、自然と目頭が熱くなり、慌てて瞬きを繰り返した。

 吉岡が黙ってオレの前におしぼりを置く。

 おしぼりで目を覆い、オレは声を殺した。



 それからしばらくして、新聞に「内田文子」の名前が躍った。

 どこかで聞き覚えのある名前だと思ったが、思い出せずに流そうと思った時、紙面に載った画質の悪い写真が誰かに似ていた。

 オレが知っている顔は、バッチリ完璧な化粧にクルンクルンにカールされた髪で、適度に可愛らしい30代を演出していた。その写真は、仮面が外れたように何もかもがそぎ落とされ、実年齢の45歳かそれ以上に見えるが、愛美が最後にオレに見せた、冷淡で険しい目つきはそのままだった。


 オレは仕事が終わると、真っ直ぐセブン・アールに向かった。

 吉岡は、やっぱり来たなという顔でオレを迎える。

「愛美ちゃん、なんで捕まったの? 返金してオレと別れる代わりに、警察には届け出なかったんじゃないんですか?」

 吉岡が余裕の笑みを見せながら、優雅にカクテルシェイカーを振る。

「酒なんかいいから早く答えて下さい」という言葉を飲み込んで、多少イラつきながら吉岡を見ていた。

「眉間… 皺がすごいよ」

 吉岡がニヤっと笑みを浮かべ、白いカクテルをオレの前に出した。

「七瀬さん、じらさないでくださいよ」


「アイツが…  直がそんな甘いわけないだろう」

 吉岡がおもむろに口を開いた。

「ただし、彼は愛美ちゃんとの約束を守ったよ。警察には行ってない。愛美ちゃんのような人は、通常、複数の男を相手にしてる。カモさんは君一人じゃなかったってこと。直は彼らに情報を渡しただけだよ」

 オレは言葉を失ったまま呆然としていた。

「これで、誰を敵に回したら一番怖いか、わかっただろう?」

 吉岡はウインクして、茶目っ気たっぷりに微笑むと、カクテルを指さした。

「何もかも忘れて明日からは希望に満ちた第一歩を… そんなカクテルだよ」

 オレはカクテルグラスの淵をさかずきのように持つと、一気にグイっと飲み干した。



終わり


最後まで読んでいただきありがとうございました。

心から感謝いたします。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おもかげ ひろり @Hirori-T

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ