恋する正体
あれから三か月、正体を無くすまで飲み潰れた割には、愛美に騙されていたことへのショックはすぐに消え去り、失恋の傷らしい傷を自覚することもなく、あっさり立ち直り、普通に働いて、たまにセブン・アールに顔を出す平穏な日常を送っていた。
「それはつまり、愛美ちゃんを本当に愛してはいなかったってことだね。ケンは結局、誰のために身を粉にして働いてたんだろうね」
吉岡がオレの前に、タンブラーに注がれた透明のカクテルを出した。
愛美の苦境を救うために昼夜働き、食費を切り詰めた生活を送っていたと信じていたが、「誰のために」と改めて訊かれると、「愛美のために」とは言い切れなかった。
「このカクテル、さわやかで美味しいっすね」
カクテルを一口、口に含んでそう言うと、吉岡が目を丸くして固まっている。
「ケン、君からカクテルの感想を聞けるなんて。いつもはビールのごとくあっという間に飲み干して、およそ味わうことなどなかったのに… 大丈夫か?」
「オレだって、言わないだけで、いつも美味しいと思って、七瀬さんのカクテル飲んでますよ」
ふうんと全く信じてない様子でオレを見る。
「俺は好きだよ。ケンのそういう、誰になんて思われようとも、自分の好きに行動するところ」
「オレ、そんな我ままじゃないっすよ。ちゃんと周りのことも考えてるっす」
吉岡が意味ありげにふふっと笑う。
「その場の雰囲気に合わせようなんて思わず、バーだろうがカクテルだろうが、居酒屋にいてビールをあおるがごとく飲み干すスタイル… 最高だよ」
口角を左右に引き上げてニカッといたずらっぽく笑う。
「それ… 褒めてますか」
「もちろん。褒めてるよ」
「褒められてる気がしない…」
「君の、自分が大好きで、自分が幸せな気分に浸るために行動できる、その逞しさは実に羨ましい。なかなかできることじゃない」
「なんか皮肉られてる気がする」
吉岡が「ないない」と、首を左右に振って柔和な微笑を見せる。
「君が昼夜働いて、疲れ切って死にそうな顔でここに来て、カクテル少し飲んだだけで突っ伏して寝てしまって… だけど、一度も嫌な顔はしていなかった。むしろ逆。実に幸せそうだった」
吉岡はまた、ふふっと意味ありげに笑う。
「君は、きっと誰かに尽くしてる自分が一番大好きなんだろうな。相手のことを愛してるとか、愛されてるとか関係ない。そもそも、そこに相手は介在しない。自分だけなんだよ」
「なんかオレ、アホみたいに聞こえるんだけど…」
吉岡が白い歯を見せて笑った。
つられて笑いながら、オレは中学1年の頃を思い出していた。
あの頃は、尽くしたい相手がいた。卒業したら、身を粉にして働いて、守ってあげたい人がいた。
時々、教室で授業を受けていると、こんなことをしてる場合じゃないんだと焦って、今すぐにでも学校を飛び出したい衝動にかられ、義務教育を呪ったりした。
オレ自身のことなどどうでもよくて、ただただ尽くしたかった。命に代えても守りたいと思っていたかも知れない。それほどオレの人生の全てだった。
ある日突然、その全てが目の前から消えた。尽くしたい相手が無くなって、オレの全身全霊で誰かに尽くしたい気持ちだけが残った。
『君は、きっと誰かに尽くしてる自分が一番大好きなんだろう』
吉岡の言う通りかも知れない。
オレはもう誰でもいいから尽くして、自分が満足したいだけだったのだろう。
過去に付き合った女たちに捨てられても、傷つくこともなく引きずることもなく、あっさりと忘れて来たのは、そんなところに理由があったのかも知れない。
オレはカクテルを口に含んだ。
「ん… さっぱりとしてて美味しい。これは七瀬さんオリジナル?」
「明日は雪だな… 季節外れの」
吉岡が半開きの目線で苦笑する。
「定番カクテルだよ。ジン・フィズ。この酒の持つ意味は、あるがままに。ケン、今の君のまま、そのままでいいんだよ」
「このままのオレに見つかるかな… 互いに尽くして尽くされて、互いの腕のぬくもりで温め合える
「今までは少し焦り過ぎだったね」
吉岡は白いカクテルをオレの前に出した。
「やっぱりこの長い脚付きの逆三角形のグラスだと、カクテルって感じっすよね」
「恋は焦らずゆっくりとね。そんな意味のカクテルだよ」
その時、店のドアが開いた。
「あれ… ケンさん、酔っぱらってない。いつもは出来上がってる時間なのに」
大学を卒業して、大手銀行に入った高校の後輩、
「アホ、オレだってクールに飲んで、酒を味わう日もあるわ」
亮一は大口を開けてアハハと笑う。
「そんなケンさん、見たことない。明日はきっと雪だ」
「何だよ。七瀬さんと同じこと言って」
亮一が一瞬、えっと驚いて視線を揺らすと、吉岡が余裕の笑みで当たり前だろうと返す。
「同じ職場で働いてたら、感覚も同じになるのさ」
「そんなもんですかね」
亮一が真摯な瞳でオレを真っすぐ見て、うんうんと何度か頷いた。
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