優しい計らい

「本名、内田うちだ文子ふみこ

 草壁がオレを睨み付けたまま、怒りをはらんだ声でその名を口にした。

「誰、それ…」

「お前が『愛美ちゃん』とか呼んでる女だよ」

「愛美ちゃんは『鮎川あゆかわ愛美まなみ』って名前で…」

「へえ、芸能人みたいなオシャレな名前だね」

 吉岡が柔らかな口調で横やりを入れる。

「お…お父さんは会社経営してたけど、高校生の時、倒産して自殺して、苦労して女子大に行って商社に就職して、お母さんの闘病を支えてるって…」


 草壁が無言でカバンから書類を出し、その角でオレの頭を軽く小突いた。

 書類には、興信所の名前が記載されている。

「本名、内田文子、45歳」

 おもむろに草壁が読み上げる。

「45歳!」

 ほぼ同時にオレと吉岡が叫んだ。

「高校中退後、主に水商売中心に生計を立てる。父親は中小企業に定年まで勤めあげ、母親と二人年金暮らしで、毎日元気にカラオケとゲートボール三昧だ。目、鼻、顎、胸など、全身十数か所にわたり整形しているものと思われる」

「愛美ちゃん…」と呟くと、ほぼ同時に吉岡と草壁が「文子ちゃん」とかぶせる。


 自分でも気が付いていた。

 年上の女性にばかり目が行く。

 母にもらえなかった愛情を求めているのか、その胸に抱かれて眠りたい衝動が抑えられない。幼い日に抱かれて眠った酒とタバコの匂いがする胸が、途轍もなく恋しい。

 見透かしたように草壁が切り出す。

「まだあの母親を捨てられないのかよ。もう母親に夢を持つな。お前が思い描いて求めている母親は、幻想でしかない」


 オレだって、母親を諦めようと努力した。

「人生やり直すから邪魔しないで」とオレを捨て、「私の生活を邪魔しないで」と言って、電話にすら出てくれない。

 オレは母にとって、邪魔でしかない存在。

「私の幸せを邪魔しないで!」

 愛美にもそう言われたことを思い出す。

 オレの目から自然と涙がこぼれ落ちた。


「まあ、若いから色々あるさ。紅茶でも飲んで落ち着いて」

 吉岡が、バラの絵が描かれた綺麗なティーカップを差し出した。

「そう言えば…」と、吉岡が思い出したように草壁に話しかける。

「直に迫ってくる、しつこい年上の女に困ってるとか言ってたけど、あれどうした? 一度くらい相手してやったの?」

 うつむいて涙ぐんでいるオレの隣で、平然とハムのソテーとスクランブルエッグを平らげた草壁が、紅茶を一気飲みするとニヤリと笑った。

「ああ、もう何度も抱いてやったよ。拒否するのも面倒になって… まあ便器替わりだと思えば抱ける。旦那は70過ぎて満足できないから、汚ねえ体持て余してるのな… ケン、お前の母親」


 草壁が、にやけた顔でオレを見た。

 全身が震え、体の奥底に抱え込んでいた爆弾が爆発するように、オレの体を得体の知れない力が突き動かした。

「どえりゃあぁぁぁぁ!」

 無意識に体の深奥から叫び声を上げ、草壁に襲い掛かっていた。が、週3ジム通いで鍛えている草壁に、ダブルワークな上に食費を切り詰めた生活で、疲れ切ったオレが敵うわけもなく、オレは簡単に吉岡のベッドの上に放り投げられた。

 草壁は、仁王立ちになってオレを見下ろしている。


「抱くわけねえだろう、あんなババア。自分の幸せのために、息子をリセットして捨てるようなクソ女なんか抱いたら、こっちの体が腐るわ。お前は捨てられたんだよ。鼻をかんだティッシュよろしく、ゴミ箱に捨てられたんだ。捨てられたティッシュが、鼻汁の主にいつまでも執着してんじゃねえわ!」

「なんでいじめるの。オレのことなんで… オレはティッシュじゃない… 鼻汁の付いたティッシュ…」

 オレは子供のように泣いていた。


「お前は、初めて会った13歳の時のほうが、ずっと大人だったよ。今よりは、母親と決別する覚悟が見えてた。女を追いかけるようになってからだ… 退行するように母親の面影を女に求め始めたのは」

 草壁がタオルをオレの顔に放り投げた。オレはそのタオルに顔をうずめて泣いた。

「自分で決別しろ。少なくとも、お前に母親のような、無条件の愛情を注いでくれる女は、絶対に現れない。現れたとしたら、そいつは羊の皮をかぶったクソ女だ。一緒になって愛情を注ぎ合えるような、お前に釣り合った女を連れてこい」


「まあまあ、直、そのくらいにしてあげて。ケンも高い授業料だったけど、十分学んだから。次はきっと大丈夫だから」

 そう口を挟んだ吉岡を見ると、両手にティーカップを持って立っていた。

「割れたら困るから… 彼氏とおそろいのヘレンド、高いからね」

 草壁は深いため息をついた。

「もう構ってられねえ… お前なんかさっさと野垂れ死ね。ママ、ママって言いながら」

 低い声で静かにそう言うと、部屋を出て行った。


 オレは体を起こし、草壁が去ったほうを見ていた。

「あいつも、なかなか不器用だからさ。傷つけるような乱暴な物言いしかできないけど、君のことが、心配で心配でたまらないんだよ。直にとっては、弟みたいなもんだから… 俺にとってもだけど」

 吉岡の口調は優しかった。

「内田文子… 鮎川愛美ちゃんだっけ? 直が彼女に、君と別れてくれって頼んだんだよ」

「直さんが…」

「このままじゃ君が体を壊すからって。別れなければ、このまま警察に行くと言ってね。直も君を傷つけたくはなかったと思う」


 13歳で独り暮らしを始めて以来、オレの気持ちを一番理解してくれていたのは草壁だ。

 台風で停電になり、安普請のアパートで、外にいるのと変わらないような轟音に震えながら、毛布にくるまっていると、全身ずぶ濡れの草壁がヒーローのように現れた。

 中学生の頃、独りで暮らしていても、それほど孤独を感じなかったのは、クリスマスや正月、それ以外にも何くれとなく顔を出し、共に同じ時間を過ごしてくれた草壁がいたからだった。

「オレ、直さんに謝らないと… あの人がいなかったら、ここまで独りで生きてこれなかったのに… オレいつも直さん裏切って…」


 吉岡がオレの傍らに腰掛け、背中をさする。

「大丈夫だよ。今度は同い年か… まあ1、2コ上でもいいけど、可愛い女の子といい恋愛して、直を安心させればいいよ」

 しばらく沈黙した後、吉岡がおもむろに続ける。

「まあ、女はもうこりごりだって言うなら、俺の胸に飛び込んできてもいいけど… 直に殺されるのを覚悟で受け止めてやるから」

 オレは、一気に冷静さを取り戻し後ずさった。

「冗談だよ… 冗談に決まってるだろう。全くからかい甲斐があるなあ」

 吉岡はニヒルな笑みを浮かべて立ち上がった。

「さてと、今夜は店に清掃が入るから臨時休業だ。おかげで恋人と熱い夜を過ごせるから、ケンに感謝だよ」

 吉岡が満面に笑みを溢れさせた。


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