年増盛りは母の味

 相変わらずオレの頭の中では、鉛の玉がゴロンゴロンと転がっているような痛みが続いている。

「七瀬さん、オレ何も覚えてない…」

「昨日はヒドかったね、ケン」


 吉岡は初めて会った時こそオレのことを、名字の「綾野あやの」とか名前の「つよし」と呼んでいたが、オレと吉岡を引き合わせた高校の寮母が「ケン」と呼ぶのを聞いて、すぐに「ケン」になった。

「確かにこの漢字じゃ『つよし』とは読まないよな。『ケン』になるわ」

 吉岡の言う通りで、今まで生きてきて「つよし」と呼ぶのは、その名を付けた母と、名前を平仮名で表記していた、幼稚園から小学校低学年くらいまでに関わった人だけである。

 その頃関わりを持った人たちとは、すでに縁が切れていて、今では「つよし」と呼ばれることもなくなった。


「酒が可哀想になるくらい滅茶苦茶な飲み方して、泣いてわめいて、俺の店の雰囲気ぶち壊してくれちゃって。全く勘弁してくれよ、ケン」

「泣いてわめいた… オレが…」

「そう、君が、だ」

「ゴ…ゴメンなさい… すみません」

 オレは再び顔を突っ伏す。

「マジで覚えてないの?」

「う… はい…」

「じゃ、俺たちの熱い夜も… 何も覚えてないのか…」

 俺たちの熱い夜…?


 顔を上げると、「残念だ」と寂しげに微笑んでいる吉岡は、上半身が裸だった。

 どこか達観したような、穏やかな大人の雰囲気を持つ吉岡は、一見しただけではそうは見えないが、ゲイである。

 慌ててオレは胸や腹… アソコに手をやると、何も着ていない。

 オレは全身硬直して言葉を失った。

「あぁ… え… うぅ…」

 吉岡がニヤリと笑い、コップの水と薬を差し出す。

「俺たちの情熱的な夜に乾杯。二日酔いの薬だ」

 オレは呆然と、ただ座り込んでいた。


「おめえは、クズみてえな女とばっか、付き合ってんじゃねえよ」

 これまた聞き覚えのある声と共に、頭が何かに押さえつけられ、オレはシーツの中に押し倒された。

 オレの顎あたりに、ごわついたかかとが当たり、こめかみあたりに、足の指がぐりぐりと押し当てられている。

 その脚をたどった先には、草壁くさかべ直也なおやの顔があった。


 草壁は母の結婚相手の部下だった。

 中学1年の終わりに、母がオレを捨て二十以上も歳の離れた男と結婚した。その男がオレに当てがったお世話係が草壁だ。

 出会った当初は、上司の再婚相手の息子ということで、それなりに丁寧な対応だったが、勝手に自分の母校に入学させ、先輩後輩の間柄を築いてからは、「つよし君」「きみ」から吉岡と同じように「ケン」、吉岡からはまだ言われたことのない「お前」「おめえ」と、凄まじく扱いが変わっていった。

 たった一人の身内だった母親から疎まれ、独り放り出されたオレにとっての幸運は、草壁直也と吉岡七瀬との出会いであり、二人が同級生で同じ寮生活を送っていたことである。


 オレは草壁の脚を払いのけた。

なおさん、いつからそこにいるんですか?」

「いつからって、昨日からずっと一緒だよ」

 吉岡が、代わりに答える。

「酷い暴れようで、直を呼んだんだ。死人のように正体なくした君を、ここまで二人で運んで来たんじゃないか」

 草壁が勝ち誇ったように、オレを見下ろしてニヤついている。

「じゃあ、じゃあ、オレと七瀬さんの熱い夜をそこで… そこで、じっと見てたの」

 草壁が、いきなりクッションをオレの顔に押し当てると、息を止める勢いでぐいぐい押し付ける。

「お前は、何を勝手に既成事実化してんだよ」


 その後ろで、吉岡が声を出して笑っている。

「ゴメンゴメン。俺が悪い。ちょっとからかっただけだよ。何もしてないから。君に手を出したら殺すと、直から言われてるし… 大体、正体ないヤツ抱いたりしない」

「じゃあ、じゃあ、なんでオレ裸なの」

 オレは草壁を払いのけ、すがるように吉岡に訊いた。

「おめえが、七瀬の店でゲロ吐いて、店を破壊したからだろうが」

 草壁がクッションを投げつけてくる。

「直、もういいよ。それより、じゃれてないでブランチにしよう」

 吉岡が指したテーブルには、3人分の洋食プレートが用意されていた。


 セブン・アールが、ブラウンと黒を基調にした、洗練された落ち着きのある内装なのに対し、吉岡の部屋は、アイボリーで統一された、穏やかで明るい雰囲気のワンルームだった。


「ケン、とりあえず服着てよ。下着も服も俺のだけど」

 吉岡が、丁寧に畳まれた衣服を手渡してくれた。

 なぜトランクスまで脱がされているのか、深く詮索せず、首をすくめて「すみません」とだけ言って受け取る。

 こんな時、まるでオレの心が読めるみたいに草壁が口を出す。

「ゲロ吐くは失禁するわ。で、なんも覚えてないとかふざけろよ。そんだけ落ち込む理由が、あの女に振られたからなんて、情けなくてこっちが泣けてくるわ」

「し… しっきん…」

 知識として知ってはいるが、実際に使ったことのない言葉に、体が縮みあがる。


「疲れてたんだろう。昼も夜も、寝る間も惜しんで働いてたなら、仕方がないよ」

 吉岡の優しい言葉が心に染みて目が潤む。

「そのダブルワークで稼いだ金は、全部あのクソ女に巻き上げられて、お前、どんだけアホなの」

「だって…」

 オレは半泣きで鼻をすすり上げる。

「婚約してるんだから、愛美ちゃんのこと助けたいじゃない。お母さんがガンで闘病してて大変だし、ゆくゆくはオレのお母さんにもなるわけだから… なるはずだったんだから…」

 オレは、吉岡に用意された衣服をすごすごと身に着け、ブランチが用意された席に着いた。


 そんなオレに、追い打ちをかけるように草壁が口を開く。

「最初はキャバ嬢だろ。散々入れあげて、金が無くなったら捨てられて、次はスナックのママ。二股掛けられた上に、体しか利用価値がないガキと逆切れされて。今度は結婚詐欺師にひっかかって… しかも全部年上のババアばっか。スナックのママなんて20も上だぞ」

「結婚詐欺師… ひどいよ、直さん。愛美ちゃんをそんなふうに言うなんて」

 ハチミツのたっぷりかかったトーストにかぶりついていた草壁が、鋭い眼光でオレをにらみつける。

 そして、その口がゆっくりと動いた。


「本名、内田うちだ文子ふみこ


  

  

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