おもかげ
ひろり
失恋からのへべれけ
目覚めると、真っ白なシーツの波が、眼前に広がっている。
どこだ… ここは…
頭を起こそうとすると、激しい頭痛に襲われ、再びシーツの中に突っ伏す。
「ようやくお目覚めか」
聞き覚えのある声が、耳元で優しくささやきかける。
声のほうを見ると、
そうだ… 昨日は、七瀬さんの店で飲んでたんだ…
オレは記憶をたどった。
恋人の
結婚して温かな家庭を築いていこうと、二人で誓ったはずなのに。
「ごめんなさい。他に好きな人ができたの。あなたとは結婚できない」
「なんで… なんで突然そんなこと言うの。オレ、なんか君に嫌われるようなことした?」
「とにかく別れて」
「そんなこと急に言われても、納得できないよ。ついこの間まで、温かい家庭を作ろうって語り合ってたのに… なのに急に… オレ何かした? オレに悪いところがあったら直すから…」
「もうッ!」
愛美はオレの言葉を遮った。
心底迷惑だと言わんばかりに、眉間に皺をよせ、視線は決して合わせようとしない。
「もうあなたのことは好きじゃなくなったの!」
「この間はオレのことが大好きだって。オレだけだって言ってたのに、数日で心変わりするの!」
「ああ、もうッ! しつこいわッ!」
そんな乱暴な言いようは初めてだった。
会ってから一度も合わせなかった目を、ゆっくりとオレのほうに向ける。
数日前まで、潤んだ瞳で愛情深く見つめてくれた愛美とは、全く別人の凍りついたような眼差しでオレを睨む。
「好きなことと結婚は別だってことに気が付いたの。あなた、私が満足できる暮らしをさせてくれるの? 8歳も年下で、高卒で、大した稼ぎもなくて」
愛美は頬をゆがませ、フンと鼻を鳴らす。
「その上、婚約指輪は安物のオモチャ!」
「でもそれは、愛美ちゃんのお母さんの入院費に使ったから…」
「だから? 婚約指輪がケチられるわけ?」
はぁとため息をついて、愛美は身体の向きを変える。
「今、年上の男性からプロポーズされてるの。大卒で会社経営してて、母の入院費なんかで、婚約指輪にしわ寄せがいくような、貧乏人とは違う立派な人よ」
「愛美ちゃん…」
オレは、すがるように名前を呼ぶ。
愛美はくるりと向き直ると、蔑むような眼差しでオレを見た。
「私の幸せを邪魔しないで! 黙って別れてください! さようなら!」
ぞんざいに言い捨てると、愛美は何の躊躇もなくオレに背を向け、行ってしまった。
オレは呆然と立ち尽くしていた。
理不尽だとは思ったし、とても納得できないとも思ったが、愛美が言い放った言葉が頭の中に残って、ぐるぐると巡っている。
年下で、高卒で、大した稼ぎもない。
婚約指輪は3万円の人工ダイヤ。
「当店自慢の最高級品質のジルコニアを使用しておりますから、輝きは素晴らしいものです。それに通常のプラチナ仕上げよりも、さらにプラチナの輝きを感じていただける、ワンランク上の仕上げを施しておりますので、見劣りしません」
店員に勧められたリングは、眩しいほどキラキラと美しい輝きを放っていた。2万の予算だったが、愛美に喜んでもらえるならと、無理をして3万のそれにした。
「オレ、一生懸命働いて、いつか本物のダイヤをプレゼントするから」
そう言って渡した時は、愛美は瞳を潤ませ「ありがとう」と言っていたのに。
オモチャの指輪…
年下… 高卒… 大した稼ぎもない…
愛美が言ったことは、何もかもが事実だった。事実だから仕方がない。
そう自分に言い聞かせながら、オレはとぼとぼと行きつけのバー、セブン・アールに向かっていた。
その日は愛美を一緒に連れて行って、セブン・アールのオーナー、吉岡七瀬に紹介するはずだった。
吉岡は、高卒で社会に独り出たオレのことを、いつも気にかけてくれる同じ高校の先輩で、常連客が集う落ち着いた雰囲気のバー、セブン・アールのオーナーである。
オレは多分、ひどい顔をしていたと思う。
悲愴感を身にまとったオレを、吉岡はいつもと変わらず、包み込むような優しい笑顔で迎えてくれた。
吉岡の顔を見た瞬間、全身の力が抜けて、同時に制御不能になった目から、涙がとめどなく溢れ出す。
カウンター席に崩れ落ちるように座って突っ伏すオレを、吉岡は特に驚くこともなく、黙って水割りを置いて温かく慰める。
そして、そこで記憶が途切れる。
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