呈色

読永らねる

呈色【一話完結】

 慣れない雪道を歩くと、思った以上に体力を奪われる。そう知ったのは、持病の喘息が起きてからだった。


 浅くなる呼吸の中、ぼんやりし始めた視界で必死に鞄を探る。ようやく薬を取り出して、飲み水がないことに気付いた。


 一面真っ白な村、引越して間もない僕には近くの家すらわからない。思考が止まり、動きも止まる。


「あやや、だいじょーぶ?」


 ゼェゼェと痛みを伴う呼吸を繰り返し、時折喉からヒューヒューと音が漏れる。自分の不快な呼吸音が脳内で響く中、鈴を転がしたような声がそれらを一瞬で何処かへやった。


「狐の手も借りたいって状況だねぇ、お礼は弾んでよ?」


 発作で意識が曖昧な中、その子の頭を見て僕は目を疑う。同じ高校の制服を着たその女の子には、ゲームのキャラクターのような狐の耳が生えていた。


 息も絶え絶えに飲み水が必要なことを伝えると、女の子は雪をひょいとすくった。手のひらに乗せた雪を口元へと運び、目を伏せ、語りかけるように呟いた。


『ゆっくり眠れ、トロトロと』


 滲んだ視界でも、目の前の出来事が有り得ないとわかる。雪はみるみる溶けていき、水になった。体温で溶けたとかそんな早さじゃない。


 お椀のようにした手のひらを、女の子がそっと差し出した。真っ白な手の中に澄んだ水が揺れている。

 直接口をつけて飲むなんて、恥ずかしいどころでは済まない。

 だが、ためらっている暇はないし、何より女の子の柔らかな笑みが、僕から躊躇いを奪った。


 薬を口に入れると、透明にゆっくりと口付ける。水は雪ほどの冷たさはなく、顎に触れた彼女の指のほうが冷たく感じた。

 こくり、薬を飲み込み、ゆっくりと息をくり返す。しばらくすると発作は落ち着いた。


 顔をあげ、改めて女の子を見る。気のせいじゃなく、やっぱり同じ高校の制服を着ていて、赤いチェックのマフラーをしていた。


 真っ白な肌に、首元の赤が映える。前下がりで綺麗に切りそろえられた黒髪は、艶やかで美しく、真っ黒な狐耳は新鮮だったけれど、それがとても気高く美しいものに見えた。


「落ち着いたかい?」


 女の子が優しく尋ねてきた。僕は頷き


「はい、お水ありがとうございます。その……美味しかったです」


 助かりました。そう言うつもりだった。けれど、目の前の出来事にまだ動揺しているからか、変なことを口にしてしまった。


「え……えへへ、どういたしまして」


 女の子の頬がほんのり赤くなり、少しだけ口元をモニョモニョさせる。その顔に急に冷静になり、僕も頬が赤くなった。


「あの……僕は藤、藤蓮介、君は?」


 照れ隠しのように早口で名を名乗った。女の子は少し照れ臭そうなまま


「鳴川カモメ、お礼は油揚げでいいよ、明日お昼に図書室でね」


 そう告げて、何処かへ去っていった。



 目の前の不思議な出来事、許しを与えるような柔らかい笑顔、真っ白な手、ふわりとした耳。その夜、頭の中では昼の出来事が反芻され続けた。


「狐なのに……カモメなんだなぁ」


 小さな独り言、名前を聞いたときに浮かんだ素朴な疑問だった。カモメ、カモメねぇ……音にせず、口の中で名前を繰り返した。

 文字通り狐につままれたようなありえない経験をしても、不思議と気にならなかった。


 姿と矛盾した名前も彼女の雰囲気に似合うような気がした。


 明日再び会える、その事実になぜか嬉しくなり、いつもより穏やかに眠りにつくことができた。




 次の日、約束した図書室に足を運んだ。そこには、昨日とは違い耳の無いカモメの姿があった。


 隣の席につき、改めてカモメを見る。視線に気付いたのか、カモメがニヤリと犬歯を見せた。


「あれあれ? こっちの方がお好みかな〜?」


 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、耳を出したり引っ込めたりして遊ぶカモメを見て、昨日の出来事が夢では無いと確信する。一応周囲を確認するが、幸いにも周りに人はいない。


 鞄からタッパに入った油揚げを取り出すと、中を見る前にカモメはケラケラと笑った。


「あふ、あははは、ほんとに持ってくるなんて……真面目だねぇ」


 初めて会った時のどこか不思議な存在感や、大人びた雰囲気、それらを裏切るような年相応の可愛さ。どれもがカモメを構成する要素で、そのどっちつかずな部分に無意識に惹かれる自分がいた。




 その日からカモメとの日々が始まった。昼休み、放課後、登下校。気まぐれに現れ、ちょっかいをかけてくるカモメに振り回される僕。


 生活は一変した。


 カモメは神出鬼没だ、普通にすれ違うことなど一度もなく、なぜか毎回不意をついて現れる。


 いつしか僕の方からカモメを探すようになっていた。不意打ちに備えるためで、別に深い意味はない、多分。


「や、奇遇だねぇ」


「奇遇って……図書室から見てたくせに」


 学校の図書室はちょうど校門を見下ろせる位置にある。たまたま振り返った時に、視界の隅に黒髪を捉えていた。


「嘘⁉︎ 気が付いてたなら言って……いや、黙ってて欲しかった!」


「はは、ごめんごめん、なんか嬉しくって」


 田舎特有の閉塞感、と言うほどでもないが、僕は街からやってきた人間だ。興味は持たれても、好意を持たれるわけではない。


 引っ越してきてから一ヶ月ほど経っても、一緒に帰る相手、言葉を交わす相手はカモメだけだった。


 相変わらず一面の雪、少しずつ慣れてきた道をゆっくりと並んで歩く。僕はカモメと色々なことを話した。


 カモメは街のことを知りたがった。話題や本の内容に出てくる度、僕に説明を求めた。話を聞きながら少し寂しそうに外を眺めているカモメを見て、彼女が街へ向ける感情が気になった。


 澄んだ空気と、カモメに振り回されたおかげで徐々に体力がついたこともあり、僕の発作の頻度は減っていった。


「どうだ蓮介、この頃の具合は?」


 ある日の夕食の時間に父の口からそんな言葉が出た。僕は素直に


「かなり安定してるよ、発作も起きにくくなったし」


 そう答えた。


「それはよかった! じゃあ来週末様子見で街へ戻ってみような!」


 父の嬉しそうな態度とは裏腹に、僕はハッとした。街へ戻る、考えてみれば当然だ、僕は治療のためこの村へ来た。発作が治れば父が働く街へ戻るのが自然だ。


「父さん、街には一人で戻ってもいい? 友達にも会いたいしさ」


 そう言うと、定期的に連絡することを条件に許可が下りた。嘘をついたことに少しだけ心が痛んだ。




「なぁカモメ、来週末一緒に街へ行かないか?」


 僕はカモメを誘ってみた。彼女は耳をピンとたてて、目を丸くした。街という単語は彼女にとってやはり特別なのだろう。しかし、喜びも束の間、彼女の表情が曇った。


「ん〜、行きたい気持ちはあるけど、ダメなんだよねぇ」


「ど、どうして?」


 カモメは罰が悪いような、寂しそうな顔で続けた、その視線は床を向いていて、耳にも元気がなかった。


「私は見ての通り普通じゃない狐なんだけどね〜、なんと言うか、それはこの村の内側だけでさ、出たらフワフワの私になっちゃうんだ、ごめんね」


「……カモメが謝る事じゃないよ、教えてくれてありがとう」


「ん……」


 その日からだろうか? 徐々に元気を取り戻し、自由を手に入れ始める僕と、村に縛られて不自由なままのカモメ、縮まったはずの僕達の間に少しずつ距離ができていった。





 雪解けの頃、僕はすっかり元気になり、街で過ごしても発作は起きなくなっていた。両親も街へ戻る支度をし始めた。


 この頃のカモメは常に耳をしまっていた。まるで普通の女の子だ。僕にはそれが別れ支度のように感じて、胸が痛んだ。


 引越しの予定をカモメに伝えると、カモメは笑っておめでとうと言った。その笑顔のぎこちなさを理解できるくらいには、僕はカモメを知っていた。


「一緒に帰ろう」


 無理して笑顔を作るカモメの手を引き、僕は初めて出会った場所まで歩いた。彼女の手は暖かかった。


「病院の個室って暇でさ、すごい孤独なんだよ、真っ白で景色はつまんないし、外が羨ましくなるんだ」


 振り返らず彼女の手を握ったまま話す、言葉を紡ぐ、祈りのように。


「外に出られなくて悲しんでるカモメを見てさ、なんか勝手に自分と重ねちゃって、なんとかしたいって最初は思ってたんだ……けど、今は違う」


 今は違う、の部分で手をきゅっと握られる、彼女の不安が手を通じて伝わってくる。それを振り払うように振り向き、彼女をまっすぐ見つめる。


「君が好きだ、君が僕に新しい世界をくれた。だからお礼がしたい、油揚げなんかじゃ足りないんだ。君にとってこの世界が退屈なら、僕が君の新しい世界になる。君が望んでくれるなら、僕はこの村で暮らすよ」


 カモメの目が丸くなり、そして綻ぶ。その瞳から涙がポロポロとこぼれ、繋いだ手を濡らした。


「キツネなんかで……私なんかで……いいの?」


「君がいい、君じゃなきゃ、ダメなんだ」


 真っ白だった村に春が訪れ、景色は色付いていく。その中に抱き合う二人の男女、その女の子の頭には、柔らかな狐の耳がついていた。

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