正体

第28話 夜の海

 素足を水が撫でるのを感じて、その冷たさに颯斗はやとは跳ねた。濡れたジャージが足にまとわりついてバランスを崩し、派手に水飛沫を上げてよろめく。口に入った雫は塩辛く、海の浅瀬に足を浸しているのだとやっと気付く。


 いったい、いつの間に。前園まえぞのの家の二階にいて、窓を開けたところのはずだったのに。


 南方の夏の夜だから、水の冷たさはともかく風はぬるい。それでも、あり得ない事態に遭遇した颯斗は恐怖による寒気で身体を震わせた。

 まず、ここがどこだか分からない。辺りは一面の闇、都会では見られない満天の星空は息を呑む美しさだけど、真っ黒な海の底知れない闇は星明りを圧倒して、颯斗に迫る。陸地を求めて身体を巡らせると、濡れた砂に足がめり込み、あるいは魚だか海藻だかが足に触れてびくりとさせられる。


 全身を濡らしながらもがくうちに、颯斗の目は闇に慣れた。ある方向に、星空を切り取る黒い影が佇んでいるのも、見えるようになってくる。山の稜線と──それに、目を凝らせば、闇の中に建物の影らしいシルエットも見える。都会の夜景には比べるべくもないけれど、星の灯りとは違う人工の照明もぽつぽつと見えるのに気づいて、颯斗は安堵の息を吐いた。


「あっちか……!?」


 多分、集落の傍の港だろう。前園の家から、距離としてはそう離れてはいない。移動した記憶もなく海にいたのは説明のしようもないけれど。とにかく、早く安全な場所にもどらなくては。夜の海はあまりに暗くて深くて呑み込まれてしまいそうだ。陸の灯りを目指して足を動かしても、背中にあの圧倒的な闇を背負っているかと思うと、水と濡れた布地が絡みつくからというだけでなく、身体は重く、動きは鈍く感じられた。


 硬い大地を踏むことができるのまでにどれだけ進めば良いのか、彼の身に何が起きたのか。前園に見つからないように家に入るにはどうしたら良いか──なるべく余計なことを考えないように、無心に足を進めていた颯斗は、不意に辺りが全くの暗闇ではないことに気付いた。


 光源、という訳ではないのだけれど。闇の中に、白いものが「見える」。とはいえ決して実体のある物質ではないだろう。長い髪にほっそりとした身体つきの女の影だと思うけど、どうしてそう認識するのかは分からない。彼の前にいるのは、絶対に生きた人間ではない。肉眼が捉えているものではない。でも確実にそこに「いて」、颯斗を凝視している、と思う。その存在は──


「白波……?」


 「彼女」の名を呟きながら、颯斗は戸惑っていた。会いたかった、やっと会えた、と思って良いはずだった。幼い頃の海で会った存在、夢にまで見て焦がれた存在に、やっと再会できたのだから。劇的な「何か」を感じることを期待して、彼は窓を開けたはずだ。なのになぜ、今になってみると恐怖を真っ先に感じるのだろう。彼女の方も、「恋人」と巡り合ったと思っているはずなのに。


「止めろ、来るな……」


 「彼女」がこちらに手を伸ばしたのが、なぜか分かった。それを避けようと颯斗は一歩退く。思ったように飛びすさることはできない。足が寄せる波とぶつかって抵抗を感じる。背中に夜の海が迫って、その圧に押し潰されるような気分になる。夜と闇と海はあまりにも大きくて、それに比べれば人間なんてちっぽけな虫けらでしかない。


「お前、何なんだよ……っ!」


 でも、何よりも怖いのは目の前の「何か」だ。「違う」のだ。「これ」は、彼が焦がれたものでは「ない」。飛び込んだ海の水底で、彼が出会った存在はこれではない。あれが何だったのかも、たった今遭遇しているのが何なのかも分からない。でも、絶対に「違う」のだけは分かる。


「来るなっ、触るなよお!」


 「彼女」は滑るように近づいてくる。人が走るのでも跳ねるのでもないスピードで。避けようとして波に足を取られ、颯斗は海に倒れた。一際大きい水飛沫が上がる。口の中を潮の味が満たし、鼻の奥に痛みが走る。手をつこうとすると、例によって柔らかい砂に沈み込んでかえって身動きが封じられる。せめて頭を水面上に保とうと身体をよじるけれど、水の中では人間の動きはじれったいほど鈍かった。水で濡れた衣服が、全身を縛るように絡みついて。


 いや──絡みつくのは、海水や海藻や布地だけではない。彼の手足を縛り、水底に繋ぎとめようとする「何か」を、感じる。白波の、数百年に渡って蓄積された想いが鎖か重石になっているかのよう。その想いの深さ激しさに殴られたように、颯斗は怯み、そしてまた水中へと引きずり込まれる。これは、「彼女」の手中に堕ちたということなのか。


「…………! ──っ」


 口に流れ込む海水を吐き出そうとしても、首を持ち上げるのは至難の業だった。星空が回り、歪む。水越しに見ているからか、酸欠によって視界が霞んでいるのか。いずれにしても、意識を保っているのも限界に近いのだろう。これが、彼の最後なのか。こんなところで、こんな相手に。彼の方でも人違いだと分かっていたら、窓を開けたりはしなかったのに。


 身体の力が抜けていく。冷たい水に包まれ、沈みそうになった時──ふわりと、浮き上がる方向の力を感じた。


「颯斗さん!」


 志帆しほの声だ。志帆が、彼の名を叫んでいる。どうして彼女がここにいるのだろう。朦朧とした頭で不思議に思いながら、颯斗は盛大にせき込んだ。すがりついた志帆もよろめくのを感じて、慌てて足に力を入れる。足元を揺さぶる波も、海底の砂の不安定さもさっきまでと同じ。──ただ、あの白い存在の気配はない。彼らがいるのは、ただの夜の海だった。それでも暗さと深さは恐ろしく、人間が太刀打ちできそうもないのに変わりはないのだけど。


「志帆ちゃ──なん、で……!?」


 せながら尋ねた颯斗の背を、志帆が優しくさすってくれた。海水で冷えた身体に、人肌の温もりがありがたい。海辺で抱き合うような格好は、青空の下か、せめて夕日を背景にしていたらロマンチックだったかもしれないけれど。


「波の音の聞こえ方が違うような気がして……。颯斗さんはセ、だしね。見に行ったら部屋にいなくて、窓が開いてたから……」


 志帆は颯斗の手を引いて、波をかき分けるようにして陸を目指しているようだった。やっと息が落ち着いたかどうかの颯斗には、自分がいる場所の感覚は分からない。だからおとなしく志帆についていくだけだ。

 波が踝をかすめるくらいの水位になって、港に係留された船の姿も見て取れるようになって──戻って来たと確信できて初めて、颯斗は口を開いた。


「さっきの……見た?」

「……うん」


 颯斗と繋いだ志帆の手指に力が篭った。囁くようなトーンの声と合わせて、彼女の怯えを伝えてくる。志帆にとっては、知り合いや幼馴染の命を奪った存在を間近に触れた、ということになるのだろうか。その心中を慮りつつ、けれど颯斗だって聞きたいことが山ほどある。


「あれが、白波、だよね?」

「だと、思う……私も、見たのなんて初めてだけど……」

「恋人の面影を求めて島の人を取り殺すんだよね?」

「……って、聞いてるけど」


 暗闇の中でも、志帆の目が泳いでいるのが分かった。手が震えているのは、濡れた身体を夜風が冷やすからだけだろうか。動揺を隠そうというのか、志帆は手を振り払おうとするが──それを許さず、颯斗は彼女の腕を強く掴んだ。


「『あれ』に捕まって、あいつの感情みたいなのが伝わって来たんだけど」


 死に瀕した記憶を反芻して、颯斗も震える。でも、恐怖や寒さだけが理由だけではない。心の奥底──海の底で光るひと粒の真珠、なんて言ったら酔っているみたいかもしれないけれど。彼の胸に、微かな希望が灯ったのだ。


「あいつは、俺を憎んでいた。絶対に殺してやるって思ってた」


 恋人の身代わりなどで呼ばれたのでないのだとしたら。何度も感じた違和感が、間違っていなかったのだとしたら。島に残る伝承が、今まで聞いたことで全てではないのだとしたら。


「あいつは、俺が会ったやつじゃない……!」


 颯斗を駆り立てる衝動は、真実かもしれないのだ。

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