第29話 悪意の螺旋

 興奮して叫ぶ颯斗はやとの思いを、けれど志帆しほは理解しないようだった。


「颯斗さん……何言ってるの?」


 比彌ひみ島の夜は街灯もほとんどないも同然だ。その闇の中では彼女の表情はよく見えないけれど、声や掴んだ腕から、不審と戸惑いが伝わってきている。


「この島に『いる』のは白波だけじゃない──それか、伝わってることが間違ってるんじゃない? 俺は実際に見たんだから……!」

「……そりゃ、その可能性はあるかもしれないけど。私には分からないよ……!」


 颯斗が掴んでいない方の手で、志帆はそっと彼の手を自身から引きはがした。夜の海水で冷え切ったその手を温めようというのか、そっと握り込む──でも、彼女の手だってまだ震えているのに。


「でも、状況は変わらないでしょ。『あれ』が颯斗さんを憎んで狙っているならなおさら。島から出ないと危険なことには──」

「でも、俺は昔何を見たのかを確かめたい。どうしてずっと夢に見るのか、気になって仕方ないのか」


 「でも」に「でも」を重ねて反駁した颯斗に、志帆は辛抱強く答えた。聞き分けのない子供に対するように。彼の手を握り、撫でさすりながら。


「……何もいないかもよ。セ、背の君──恋人の代わり、っていうのも間違いなのかも。恋人が裏切ったと思ってて、何度でも殺してやりたいって思ってるだけかも」

「そんな存在を、儀式までして崇めるようなこと、する? そいつが島をずっと守ったりする?」

「私に言われても……!」


 颯斗の頑固さに苛立ったのか、志帆は声を上げ──そして、慌てて周囲を見渡した。彼女も全身濡れてしまったのだろう、いつもはシャンプーの香りが漂うところ、海水の雫が颯斗の頬を打った。


「もうすぐ漁の人が出て来ちゃう。静かにしないと……」

「え、今何時なの?」


 辺りはまだ真っ暗で朝の気配は遠いようなのに。志帆の焦りは颯斗にも伝染して、意味があるのかないのか分からないままに声を低める。


「多分、三時くらい……でも、暗いうちに出航するから」

「そんな時間……。えっと、この状況見られたらマズいよね?」


 前園の家で窓を開けた時は、まだ日付が変わる前だったはずなのに。白波──と呼ばれているもの──にさらわれるまでに意外と時間が掛かったのか、それとも、それだけの時間海に浸ってぼうっとしていたのか。暗闇に佇む自分の姿を思い浮かべると颯斗の二の腕が粟立った。海水に体温を奪われたことによる冷えもあるのだろうが。


 とにかく、超常現象が過ぎ去った後は、現実の問題に対処しなければならない。勝手に窓を開けて白波に殺されかけていたとしられたら、颯斗は軟禁されても文句が言えなくなってしまう。志帆を詰問するどころか、頼る形になってしまったのが情けないけれど──この状況には、彼女も困っているようだった。


「今は戻らない方が良いと思う。お父さんが出て行ってから帰って……朝、目が覚めたから散歩してきたの、って顔してた方が」

「大丈夫かな?」

「颯斗さん靴履いてないし、いないのはバレないと思うけど……お母さんが、変な風に考えてくれれば良いんだけどね。あの、あんまり突っ込めないように……」


 颯斗の手を握りっぱなしだった志帆の手に強い力が加わり、それに彼女の体温が上がった気がして、彼女の言わんとするところが分かる。未明からデートで海に出かけてはしゃいでいたと思わせなければいけないということだ。


「……志帆ちゃんも濡れちゃったね。変な意味じゃないけど、くっついてた方が良いかな……」

「……うん」


 やましい意味はないのだと、わざわざ断りを入れながら志帆の身体に触れる時、颯斗の耳は熱くなっていた。冷え切った身体を自らの熱で温められるから良い、のだろうか。




 志帆も寝ていたか寝るところだったのだろう、Tシャツにスウェットのごく楽な格好のようだった。暗い中ではよく見えないけれど、彼女は見えなくて良かった、と打ち明けて笑った。人前に出るような格好ではないから、と。


 それでも、スマホを持ち出していただけ、志帆は颯斗よりも余裕があった。あるいは、正気を失ってはいなかった。運よく海水に浸っていなかったし、港や人家から少し距離を取った浜辺でも辛うじて電波は繋がっていたから、時間を確認したり、ささやかな光源ながら辺りを照らしたりする程度のことはできた。明るくなるまでバッテリーをもたせなければならないから、動画サイトで時間潰し、なんて余裕はなかったけれど。

 結局のところ、カップルよろしく身体を寄せ合ってひたすら時間を過ごすしかないのだ。もちろん彼らは本当のカップルではないから無言で波の音を聞き、夜空を雲が流れて星が見えては隠れる様を眺めるだけだ。圧し掛かるような気まずい沈黙を誤魔化すためにか、何度目かにスマホに目を落とし──志帆は軽く息を呑んでから画面を颯斗に向けて見せてくれた。ブルーライトに瞬きながら画面に目を凝らすと、そこには彼も知っているアドレスが表示されていた。


「……須藤さんからメール来たよ。明日の未明に、船を出してくれる人が見つかったって」

「そう……」


 一目でわかる内容を、志帆はわざわざ読みあげて教えてくれた。


 もしかしたら、志帆は須藤からの連絡を待っていて夜更かししていたのかもしれない。釣り人相手のサービスで、朝早くに活動することがある相手なら、深夜に話が動いても不思議ではないから。いかにも嬉しそうな志帆の声の調子からして、よほど待ちわびていたのだろう。


「お金は気にしなくて良いって。取材のための、経費みたいなものだから、って」

「それは、ありがたいね」


 志帆とは全く逆に、颯斗の声に力も熱も篭っていない。また退路を塞がれた、と思ったのだ。顔も知らない相手を巻き込んで、須藤には金銭的な負担もかけてしまう。その状況で、子供の頃の曖昧な記憶を理由に島に残りたい、などとは言いづらい。白波──なのかもしれない、そうでないかもしれない存在──に狙われているのも、前園たち島民を期待させればさせるほど島を離れづらくなってしまうのも、はっきりとした現実だ。颯斗の勝手でごねている場合ではないと、志帆は言いたいのかもしれない。


「……『あれ』はね、元々の白波だけじゃないんだと思う」

「何……?」


 颯斗に一層身体を寄せながら、志帆は彼の耳元に囁いた。必要以上の密着に狼狽える彼に逃げる隙を与えず、彼女はぴったりとくっついてくる。


「代々の前園の娘が、『あれ』を強くしちゃったんだと思う。だって、彼女たちの夫は白波に心を奪われてしまうんだもん。なんで、どうしてって思ったはず。悔しかったはず……!」


 彼女の熱い吐息と囁きが、さっきの暗い海で触れた白波の想いに似た感覚を颯斗の皮膚に感じさせた。つまり、縛られ絡めとられるような。引きずり込まれるような。その相似に、颯斗は志帆が言わんとしていることを何となく察する。


「前園の娘の恨みも、『あれ』は吸収している、みたいな……?」

「そう。好きな相手を取られたってところだけは一緒だから、ってことだと思う」

「原因はあいつなのに……」

「それか、白波の恋人を奪った姫、かな。でも、手を出せる相手じゃないからね……」


 海底の深みへと続く黒い螺旋を思い浮かべて、颯斗は喘いだ。なんて不毛な悪循環だ。白波の霊は奪われた恋人を求め、その思い故に前園の娘から夫を奪う。そして娘たちの嫉妬や憎悪が、また関係ないはずの男を狙う悪霊に力を与える。志帆が語ったのはそういうことだ。もしかしたら彼女自身が、その螺旋に取り込まれかけているのかもしれない。だからこそ「あれ」の思いを代弁できるし、だからこそ逃れようと足掻こうと必死なのかもしれない。


「じゃあ、俺が見たのは──」

「分からないんだってば。でも、白波が一人だけの霊っていうかじゃないっていうか──そういうことなら、颯斗さんを好きになった人格? みたいなものもいるのかもね」

「そう、かな……」


 志帆は颯斗を慰めることで説得しようしているとしか思えなかった。彼女の言葉を丸呑みするには、志帆が語った解釈はあまりに都合が良いし、今まで彼女が颯斗にちゃんと説明しなかったことは多すぎる。それに──颯斗はまだ、夢に見るほどの鮮烈な記憶、命を顧みずに海に呼ばれる強烈な衝動の余韻から醒められていない。悪霊に取り込まれた嫉妬の成れの果ては──気の毒には思うけど──彼が焦がれる対象としてはまだみすぼらしいと思えてしまう。


「あ、船が動いた。もうすぐ夜が明けるよ……!」


 俯く颯斗を置いて、志帆がさっと立ち上がった。急に消え去った温もりに驚いて顔を上げると、暗い海にぽつぽつと灯りが動いているのが見える。漁船が掲げる灯り、ということなのだろうか。空に視線を移せば、一面の漆黒がほのかに紫の色味を帯び始めている。星の輝きは朧になって空に紛れ──やがて、太陽が姿を見せる。


 夜が終わり、人が生きる昼の世界が訪れつつあった。

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