第26話 姫の島

 洞窟を抜け出すと、南国の太陽の強烈な明るさが颯斗はやとの目を眩ませた。夜の闇に紛れて密航する計画なんて話していたけど、今はまだ昼まで、爽やかな風が豊かな木々を揺らしているのだ。明るいからといって何も起きないかというと、海水を口に含む奇行に走った彼には分からないのだけど。

 ただ、汗だくになりながらも崖を上れば、海は視界から消える。潮の香りだけを頼りに海に飛び込もうとするなんてことはさすがにないだろう……多分。だから、森の中に身を置いた颯斗は、木陰の風が汗を冷やしてくれるからというだけでなく、ほっとした気分になっていた。


 もちろん、これから家に帰るという訳にはいかない──それどころか、まだまだやることも考えることも山積みなのだけど。


「で、その須藤すどうって人に会うにはどうすれば良い?」

「名刺もらったから連絡は取れるし、家も行ったから……」


 雄大ゆうだいに問われて、とりあえずは電話だろうか、と思いながらスマホを取り出すと、表示は無情にも圏外になっていた。スマホを見下ろして固まる颯斗に、志帆しほがこともなげに言う。


「直で行った方が早いんじゃない? 須藤さん、基本は在宅なんじゃないの?」


 準備良く持ってきていたらしい制汗スプレーを、Tシャツの首元を広げて噴射しながらのコメントだ。メンソールの少しつんとする香りと白い鎖骨が何とも甘酸っぱい感覚を呼び起こして目のやり場に困ってしまう。


「志帆ちゃんが疲れてないなら、良いと思うけど……」

「私は大丈夫。一旦出直す方が、お父さんとかに見られちゃうかも。私たちとゆう君が会ってるの、あんま気付かれない方が良いと思うんだ」


 やる気と体力をアピールするかのように、志帆はその場で軽く跳ねる。女の子が良いというなら男子二人が否と言えるはずもないし、島民に見つからずに行動したいというのはもっともだ。それでも、志帆がやたらと須藤と会いたがる──ひいては、颯斗を島から逃がそうとしている、という印象を拭うことはできなかったけれど。


 圏外でも、受信済みの画像を見るのには何ら問題がない。昨日、須藤から送られた地図の画像を志帆と雄大に見せると、島で育った二人はあっさりと頷いていた。地元の人が見れば、大体の位置は分かるらしい。島の中に人が住んでいる場所は限られるから当然、ということらしい。




 颯斗が須藤の家のチャイムを鳴らすと、待ちかねていたかのように素早く扉が開いた。


「昨日は港が騒がしかったから、何か連絡をくれるかと思っていたんだ。直接来てくれるとは思わなかったけど」


 三人分の人影を見て一瞬目を瞠った須藤は、けれどすぐににこやかに颯斗たちを招き入れてくれた。拓海たくみが亡くなったことは、昨日の颯斗の去り際で察しているだろうし、前園家が比彌ひみ島の因習に深く関わっているのも、恐らく須藤にとっては既知のこと。何より、颯斗は最近の島の変異の中心にいるのだと──拓海や雄大は「違い」、颯斗は「そう」なのだと、このライターは看破していた。彼が追い求めていた島の謎の鍵が揃って訪れたとなれば、須藤も機嫌よく迎え入れるのは道理だろう。


 昨日と同じリビングに通された颯斗は、昨日は手をつけられなかったゼリーを今日こそ味わった。もらいものと言っていたから、箱詰めで届くようなちょっと高価なものなのかもしれない。汗で水分を失った身体に、ひんやりとした甘みと喉越しが心地よかった。


「白波という女の怨念に、セ──背の君、か。なるほどね……」


 茶菓子に手を付け損ねたのは、今日は須藤の方だった。主に志帆が語ったこと──白波という娘の悲恋、「彼女」が今も島を彷徨っていること、セの役割と前園の娘の定め──、つまり、最近の比彌島で続く変事の原因というか背景について聞き終えた須藤は、詰めていた息を深く吐き出した。驚きよりは納得の表情に見えるのは、尋常ではない事態を予想していたから、だろうか。

 若者三人が本題に入る──島脱出の協力を仰ぐ──前に、須藤は昨日のようにメモ帳を取り出した。


「この島の怪異──と、そう言うのは失礼かもだけど、とにかく、大本おおもとになったのは女性の霊というか、なのはしっくりくるな」

「そうですか?」


 颯斗たちが首を傾げる中、シャープペンが紙をなぞる滑らかな音が響く。須藤が書きつけているのは、画数が多い漢字だった。島の名の「比彌」に──さらに、幾つか。


「比彌島って、元は姫島でしょ、多分。ヒミ、はヒメ、の古称なんだ。女神とか女性皇族で何とかのひめ、って……分からないか。えっと、邪馬台国の卑弥呼は知ってるでしょ。あれも、ヒメミコやヒメコの意味じゃないか、って説があるし」

「そう、なんすか? 住所書く時とか面倒だなとしか思ってなかったけど……」


 媛、日女、姫、卑弥呼、姫巫女。教科書でしか見ないような漢字の数々を見るのは不思議な気分だった。友人の瑛太がこの場にいたら、喜んで須藤の話題に食いついたのだろうか。でも、現実には颯斗だけでなく志帆も雄大も当惑の視線を交わし合っている。島の人間にとっても、名前の由来は時の流れで擦り減って消えたようなことなのだろう。


「男島と女島とか、父島と母島とか。男女で対になる名前の島や山も各地にあるから、彦島とかが昔はあって、海底火山の活動とかでなくなった──って説も考えてたけど。もっと単純に、姫がいる島だから姫島、比彌島ってことなんだろうね」

「白波は──姫、ですか……? その、もともとはただの漁師の娘だったんじゃ……? そもそも引っかかってたんですけど、この島、昔から他の国の影響を受けてないってことだったじゃないですか。恋人を豪族の姫に取られるっていうのが、どういうことかな、って……。背の君も、平民に使う言葉じゃないですよね……?」


 訳知り顔で総括した須藤に、颯斗はやっと口を挟む隙を見つけた。志帆から話を聞いた瞬間に、須藤の語ったことと矛盾すると思っていたのだ。彼にも分かったことだから、本職のライターならすぐ気付くだろうと思ったのに──須藤は軽く首を傾げただけだった。


「恐れられる怨霊がまつられて神になるのはよくあることだからね。生前の身分に関わらず、神と呼ばれるに相応しい力があるなら、相応の称号というか尊称で呼ばれることだってあるだろう」

「神になった怨霊……」

菅原すがわらの道真みちざね公とかね。あの人が流されたのも九州、大宰府だったか……。とにかく、怒らせた相手の機嫌を取って神様にしちゃおうっていうのは、日本人の気質なんだろうねえ」


 まただ。また、辻褄が合ってしまった。怨霊がいる海で水葬なんておかしいんじゃないか、と思ったけれど。力のある存在への畏怖が信仰にもなるというなら、何も不思議ではない、自然な流れだったりするのだろうか。

 黙りこくる颯斗を余所に、須藤は答え合わせを求めるかのように志帆に視線を向け、そして彼女は小さく、けれどはっきりと頷いた。


「多分、そういうことなんだと思います。白波がいつの時代の人かは分からないし……だから、思った以上に古い時代の人で、彼女はずっと島を外から隔てていたのかも。だから、比彌島は歴史に姿を見せなかったし、お父さんたちは彼女を怒らせないようにしているってことだと……」


 思う、かも。曖昧な言葉遣いと裏腹に、志帆の口調は断定的だった。切るように睨むように、須藤を見据える視線も、強く鋭い。仮説に過ぎないはずなのに、どうしてこうも自信ありげな態度になれるのか──でも、颯斗が疑問を口にするよりも、須藤が楽しそうに声を立てて笑う方が早かった。


「つまり、君らは神に逆らおうっていうんだね。これほど面白い話になるとは思っていなかったな……!」


 不遜なことを口にしながら、須藤の頬は緩みきっている。そこらの超常現象を軽く超えた、小さな島でとはいえ神と認識される存在を耳にして、興奮しているのは明らかだった。

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