第22話 夢に見た海
島で起きている変事にも関わらず、翌朝も空は青く、暑気を払う風は爽やかだった。
「一緒に食ぶっと良か。……仲良うね」
どこかぎこちない微笑みの
「ありがとうございます。あの、すみません」
気遣いに対して、そして、志帆を受け入れなかったことに対しても、颯斗は頭を下げた。一般的には理性ある態度は褒められてしかるべきな気もするけれど、この島の特異な空気の中にあっては、颯斗が持っている常識が通じないことに薄々気付かされてしまっている。
とはいえ、
「海には行かん方が良かじゃ。志帆がおってん助けらるっか分からんで」
「はい。わかりました」
多分、前園たちに聞いても分からない。父からの返信も、まだない。だから、志帆や
志帆と並んで歩いていると、島民からの視線が痛いほどだった。颯斗の感覚ではまだ朝が早い午前九時台だというのに、漁港の集落ではどこかひと仕事終えたようなのんびりした気配が漂っている。そういえば夜も明ける前から出港するとか、そんなドキュメンタリー番組を見たことはあった気がする。それなら、港は事実山場を越えたところなのかもしれない。
志帆が漁師たちと顔なじみなのは、初日から既に知ってい。あちこちから声をかけられて、志帆はその度に気さくな笑顔で答えていた。
「二人で
「ちょっと、ね。ガイドみたいな感じで」
「仲良うなったんやなあ。良かった良かった」
「そうだね、デートだね」
デート、のひと言に、魚網の手入れをしていたらしい漁師は豪快に笑った。それを聞く颯斗は、志帆の纏う空気がひんやりと冷えた気がして、気が気ではなかったけれど。
昨日すれ違った老婆と同じだ。この島の住民は、颯斗と志帆が結婚することを望んでいる。あるいは、当然のことだと考えている。志帆がずっと──少なくとも日高という先代のセが亡くなった後は──このプレッシャーに曝されていたとしたら。颯斗を前にして取り乱すのも、島民の期待を裏切ってやりたいと思うのも無理はないのかもしれない。
颯斗が内心で案じていた通り、なのかどうか。集落を出ると志帆の足取りは早まり、先ほどまで浮かんでいた笑顔も消えて真顔になってしまった。営業スマイルは売り切れ、と言わんばかりの態度に少し気後れを感じながら、颯斗は彼女との会話を試みる。
「……お父さん──前園さんが、波の機嫌が悪いとか言ってたんだけど。例の……幽霊って、海にも影響あったりする? だから島の人たちにも関係してるの?」
昨夜気付いてしまった違和感の追及の、第一歩だった。白波の被害は、恋人の身代わりに男を何人か取り殺すだけではないとしか思えない。比彌島が長く歴史上の記録に登場していないという、須藤の言葉とも矛盾する。前園の必死の懇願といい、島で起きている──あるいは、これから起きるかもしれない事態を、颯斗はまだ全て説明されていないはずだ。
はぐらかされるかも、との懸念は、意外にも外れた。志帆は、しばらく言葉を探すように黙って歩いていたけれど、やがて、口を開いてくれたのだ。
「……うん。セがいない時期は、海が荒れるんだって。私の男をどこにやった、って感じなのかなあ。もちろん漁にも影響するから、皆、早くセを捕まえろって感じで。……ふふ、悪霊と一緒だよね」
「え……それじゃ、やっぱ俺、帰っちゃダメなんじゃないの?」
志帆の薄暗い微笑みと、彼女が告げた内容が颯斗の体温をすっと冷やした。頭上からは太陽の日差しが降り注いでいるというのに、氷水を浴びせられたよう。
驚き焦る心の片隅で、颯斗はまたも納得していた。そういうことなら前園も土下座くらいするし、島民たちも歓迎するはずだ、と。事情を知れば知るほど断るのは難しそうに思えるし、だからこそ老婆などのように、志帆との仲を当然のこととして語るのだ。
冷や汗を滴らせる颯斗を見上げて、志帆は軽く肩を竦めた。
「そのための儀式なんだと思うんだけど。白波とセの結婚式みたいな意味もあるそうだから。儀式的な結婚と、前園の娘との結婚……それで、二重に騙す、みたいな?」
「結婚の意味は、それだけじゃないよね。セが海に行きたがるから、それを止めるっていう」
「うん」
よく覚えていたな、といった風に軽く目を見開き、志帆は頷いた。すぐに前を向いて、歩き始めてしまったけれど。今日はスニーカーを履いている志帆の足取りは昨日よりも早い──でも、颯斗が追い付けないほどではない。ほんの数歩で横に並んだ颯斗に、志帆は今度は目をくれることもしなかった。前を向いたまま、ごく淡々と言葉を繋ぐ。
「でも、そこは大丈夫だと思う。白波の力が及ぶのは、島の周りだけみたいだから。颯斗さんが島を離れれば、海に飛び込みたいなんて思わないって」
「でも……儀式だけなら俺もできるかもだけど、それで、騙せなかったら……?」
白波の霊を鎮めるために、この島はずっと儀式を行い、前園の娘を差し出すという二重の策を採ってきたのだという。颯斗が聞く限りでの判断になるけど、一度きりの儀式よりも生涯続く結婚の方が重要なのではないか、と思えてしまう。恋人がまたいなくなった、奪われたと白波が認識したら──島は、ずっと災厄に見舞われる、ということではないのか。
「それは……島でどうにかすることだと思う。颯斗さんが気にすることじゃないよ」
「でも──」
「今時、こんなことがいつまでも続けられる訳ないでしょ。島の人口も減る一方だしね……良い機会だったんじゃない?」
彼女自身や家族が住む島に対するものとは思えないほど、志帆の口調は冷静で突き放したものだった。この口調は、昨日も聞いたものだった。陸の墓参りをした時に、水葬は嫌だと語った時。夜になって、抱き合うような格好で颯斗に帰れと告げた時。前園の娘に生まれた志帆は、課せられた務めゆえに島を嫌っているのだろうか。故郷なのに、とありきたりのことを言うには、颯斗はあまりにも部外者だった。
そういえば、確かに島では志帆以上に小さな子を見かけないのだ。たまたま目についていないだけで、全くいないということはないのだろうけど。これから結婚する若者や、須藤のような移住者もいないとは限らないのだろうけど。白波が恋人代わりに狙いを定められるような男の島民は、いずれいなくなるのかもしれない。
島の未来に思いを馳せて、颯斗の足取りは遅れていた。そんな彼を叱咤するかのように、志帆は明るい声を上げる。
「そんなことより、もうすぐだよ。ゆう君との待ち合わせの場所! ……颯斗さんは、来たかったんでしょ?」
言われて、颯斗は初めて気付く。前園の妻の言いつけに従って、山道を進んでいるとばかり思っていたけど──彼の鼻を、潮の香りがくすぐっている。港の、魚の生臭い臭いが混じったものではない、もっと純粋な海そのものの香り。そうだ、彼は比彌島の地形をきちんと知っている訳ではない。そして、この島はとても小さい。入り江のように海岸線が入り組んだところでもあれば、山の中で不意に海に出くわすこともあるかもしれない。
「……海に、近づいてる?」
夢に見た香りを、現実に感じている。その不思議な感覚に、颯斗はくらりと眩暈を感じた。声が上ずるのは、動揺によってか──それとも、期待だろうか。
「そう。……最初の時は、一人で行って『取られ』たら怖いから教えられなかったけど。私と、ゆう君もいるから大丈夫かな、って。人目にも、つかないしね」
志帆が囁くと同時に、木々が途切れ、視界に青が飛び込んできた。空と、海の青だ。
十年近く経っても全く変わっていない。そこは、かつて颯斗が飛び込んで遊んだ崖だった。
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