第23話 潮の味

「こっち。下に降りよう」


 志帆しほが示した道を辿りながら、颯斗はやとは彼女が今日はスニーカーを履いていた理由を悟った。崖下へと続く道は、決して整備されたものではなく、岩や崖の角度が緩いところを足場にして、知っている者なら降りられなくはない、という程度のものだったのだ。


「……ここ、昔も通ったな。行きは飛び込んだから、帰り、上る方だったけど」

 記憶を巻き戻すような感慨は、颯斗の声を弾ませた。あの海がいよいよ間近に迫っているという興奮によるものかもしれないが。


「子供が代々道を作ったと思うんだよね。皆、何となく知ってて……ほんとに来ちゃうのは、男の子だけだっただろうけど」


 慎重に──颯斗からすればもどかしいほど──、ゆっくりと岩場を降りながら志帆は語った。子供同士の情報のネットワークというもの、やんちゃな男子を醒めた目で見る女子の構図は颯斗にも覚えがあるから何となく情景は想像がつく。とはいえ、この島特有の事情を踏まえると、単純に女の子は危険なことをしない、というだけではないのだろうけど。


「海に入っちゃいけない? あの時も、後で怒られたと思うけど。危ないからだと思ってた」

「まあ、普通に危ないよね。皆、泳ぎは得意だけど足がったりとか頭をぶつけたりとかはあるだろうし……」


 比較的大きな落差を降りるために屈んだ志帆は、そこで言葉を途切れさせた。でも、言外の続きは、颯斗もはっきりと聞き取ることができた。


「それに、白波に目をつけられるかもしれないから」


 そういえば、志帆以外の島民の口から、島を脅かす怨霊の名を聞かないな。ふと、そんなことを思いながら颯斗は補足した。まあ、前園家や限られた者しか知らないとか、恐怖ゆえに名前を出したくないとか、そんな事情はありそうだ。


「そう。それが本来の言い伝えなんだろうね。どうせ、海に関わらないで生きていける人なんていないのにね。少しでも可能性を減らそうってことなんだろうけど」

「でも、一緒に遊んだ子たちは知らなかったんだよね? 雄大ゆうだい君も……だからあの時ここに来たし、今も、普通に帰省したんじゃない? 無視する程度の言い伝えだったってこと?」


 くだるにつれて、当然のことながら水面は近づく。潮の香りに加えて波の音も聞こえだして、夢で見る海に包まれた感覚を思い出して、颯斗の鼓動は早まっていく。喉が乾くのは、夏の日差しの暑さや崖を降りる運動のためだけではないだろう。この渇きは、ただの水では収まらないのを彼はもう思い知っている。


「だって、日高ひだかさんは長生きで、ずっと元気だったもん。セのことなんて忘れてた人も多かったんだよ。理由が忘れられてたら、言い伝えの信憑性もなくなるしね」


 颯斗が追い付いたのを見計らって、志帆はまた降下を再開した。昔ここを通った時の記憶は朧だけど、ここまで来たら手探りでも彼が先行した方が早い気もする。でも、島民に宣言した通りにガイドを務めようというのか、志帆が先頭を譲ることはなかった。


「そっか……島の人にとっても久し振りなんだ……」


 颯斗の方も、島の歴史に思いを馳せることで足が出遅れてしまう。


 先代のセである日高という人は、須藤の話によると大往生だったとか。その人が何歳の時にセに選ばれたかは分からないが、数十年に渡ってその立場にいたとしてもおかしくない。ならば、志帆や雄大はもちろん、その親である前園の世代にとってさえ、セの不在がどういうことか、実際に経験したことはなかったということだ。白波の霊がどのように暴れるのか、どんな凶事をもたらすのかも。祖父の世代から伝え聞いたことをやっと思い出して怖がり出した、という段階なのかもしれない。そして、その中でも特殊な家柄だった前園家には、多少なりとも正確な情報が伝わっていたのかも。


「十年前だと、日高さんもそろそろ、って感じにはなってただろうけど。だから、家によっては止めとけって言われることもあったかもね」

「なるほど……」


 多分、夜に爪を切らないとか口笛を吹かない、という類のジンクスと同じことだとあの頃の子供たちは思っていたのだろう。もしかしたら、その親たちも。都会育ちの颯斗だって、あそこの交差点は「出る」とか、あの神社で神隠しがあった、なんて噂を聞くことはあった。それで絶対にそこにはいかないという子もいれば、逆に肝試しをしようという連中もいた。幸いに、というか、颯斗の周辺では事故や事件や不可解な出来事に遭遇した子はいなかったけど、この比彌島には「本物」がいてしまったと、そういうことなのだろう。




 そうこうするうちに、二人は崖を降り切っていた。上から見上げると崖は海に対して張り出すようになっていて、まさに天然の飛び込み台といったところだ。ごく小さな浜辺に波が打ち寄せている。その波が陸地を削ってできたのか、人が通れそうな洞窟が、ぽかりと黒い入り口を見せている。なるほど、ここを秘密基地にしないなんて子供には難しいことだろう。


 何より──海が目の前に迫っている。船上から覗くのより、なお近い。今の季節なら、軽く足を突っ込むくらいは大丈夫だろう。あの頃のように飛び込んだりはしないけど、少し水に触れるくらい良いだろう。


 誘われるように、颯斗は寄せては返す波打ち際に足を向けた。スニーカーを海水が浸す感触が、少し不快だったけれど。それを無視して屈み込み、掌で海水を掬い──口に寄せる。


「──颯斗さん!?」


 志帆の驚きの声を聞きながら、颯斗は盛大にせ返っていた。強い塩気はひと息に飲み干せるようなものではなく、彼の喉が拒絶したのだ。夢にまで見た、渇望したはずの味ではあったし、懐かしくはあったのだけど。暴挙のような行動が残したのは、喉と鼻の奥に残る痛みだけだった。


「お茶、飲む? 持ってきてて良かった……」

「う、うん。ごめん……」


 不審に満ちた眼差しながら、志帆が水筒の麦茶を差し出してくれたのを、ありがたく受け取る。水筒の蓋を兼ねたコップで一、二杯呷あおった程度では潮気を完全に拭うことはできなかったけれど、とりあえず人心地つけることはできた。

 と、そこに志帆を呼ぶ声が響く。


「志帆! 何やってんだ!?」

「ゆう君……お待たせ!」


 岩陰に座っていた人影が、立ち上がってこちらに歩み寄ってくる。雄大だ。志帆に呼び出されて、颯斗たちを待っていたのだろう。


「えっと……こんちは」

「はい……どうも」


 ぎこちない挨拶に返して、同じくぎくしゃくと会釈しながら颯斗は胸の動悸を痛いほどに感じていた。雄大は、今の一幕を見ていただろうか。颯斗が、ごく自然に海水を口にしたところを。子供ではあるまいし、海を見てはしゃいだ、なんて言い訳は通じないだろう。


 それに、変な奴だと思われる以上の恐怖が、颯斗にはあった。志帆も雄大もいなかったら、彼は何をしていただろう。海水に噎せたところで我に返ることができただろうか。それだけでは我慢できずに、海に入ったりはしていなかったかどうか──自分でも、自信をもって首を振ることができない。


 白波は、今も彼を手招きしているのか──それとも、別の「何者か」の力によるものなのか。いずれにしても、彼に植え付けられた衝動は、思った以上に深いところまで食い込んでいる気がしてならない。


「あ、あの……大変な時なのに、手伝ってくれる? みたいで……ありがとう」

「いや、俺も昨日は感じ悪くて……」


 引き攣った笑顔で礼を述べると、雄大も曖昧な笑みで応じた。彼の奇行は見ていなかったのか、それとも見なかったことにしてくれたかは分からない。


「まあ、志帆の頼みだし、今時おかしいと思うし……拓海たくみの仇みたいなもんだし、な」


 低く呟いた雄大は、ぎゅっと眉を寄せていた。きっと、心の痛みを堪える表情だろう。そして唇を結びながら、彼は決意を固めているようだった。


「化け物なんか出し抜いてやろうぜ。あんたを、逃がしてやる」


 次に口を開いた時、雄大の顔にはふてぶてしい笑みが浮かんでいた。

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