第17話 海に潜むもの

 志帆しほは、つかつかと大股で颯斗はやとの傍に歩み寄った。彼の周囲は、既に島民たちがたっぷりと空間を開けてくれていた。志帆もまた、彼らにとっては近寄りがたく恐ろしい存在ででもあるかのように、彼らは更に一歩ずつ退いてさえいる。もう遠い昔のような昨晩の宴席で、志帆と笑顔で話していたのが嘘のようだ。


「志帆、お前──」


 ただ一人、声を上げたのが雄大ゆうだいだった。この人は志帆を呼び捨てにするんだな、と思うと颯斗の胸がなぜか騒めいた。幼馴染なのだから、思えば当然なのだろうけど。


「お前は──その、良いのか……?」

「うん。私は分かってたし。こうしなきゃ、って」


 颯斗には理由は分からないけれど、雄大は心配そうな、気遣うような目で志帆を見ていた。確かに、今の彼女の様子はどこか危ういものではあるのだけど。二人の間だけで何かが通じ合っていることが颯斗にはもどかしく、一方で志帆が雄大に目もくれずに颯斗の腕に触れてきたのが少し嬉しい。そういえば、祖父の墓参りの時にも、思いがけず手を握ってもらえたっけ。


「颯斗さんに説明するね。皆には、一旦帰ってもらって」

「……大丈夫なんか、志帆」

「うん」


 颯斗の腕を掴まえた状態で、志帆は父の前園まえぞのとぼそぼそと言葉を交わした。大丈夫、とは志帆のことなのか颯斗のことなのか、それとも島を襲う変事に関することなのか──颯斗は、また口を挟むことができないでいる。彼が問い質そうとするのを見計らって、かつそれを止めるために志帆が現れたかのようにも思えてしまう。

 志帆の指が颯斗のそれに絡み、彼の心臓を跳ねさせた。けれど、颯斗を狼狽させておいて、志帆は父親だけを睨んでいる。続けて彼女が吐き捨てた声には、どこか挑戦的な響きがあった。


「颯斗さんは、私のセ、だからね」

「志帆……!」


 セ、だ。今度は間違いなく一音だけの単語のようだと聞き取れた。前園が目を剥いたのは、娘の反抗的な態度を咎めたのか、颯斗に聞かせるべきではない言葉だからか。


「しばらく来ないでね。──颯斗さん、入ろう」


 前園が何か言うよりも早く、志帆は颯斗の手を引っ張った。前園や雄大、島民たち──彼らの視線が矢のように背中に刺さるのを感じながら、颯斗は前園家の玄関を潜った。




 閉ざした扉の向こうから、前園や雄大の声がくぐもって聞こえていた。どうやら、前園が島民たちに何か言って宥めているらしい。

 颯斗の手を握ったまま、志帆は器用に足だけで靴を脱ぎ捨てた。午前中の墓参りと同じく、スニーカーだからできることだ。他人の家で靴を揃えることができないのを気にしながら、颯斗も志帆に倣って上がりかまちに足を載せた。


「来ないで、って……お父さんは? 家にれないなんてこと、ある?」

「大丈夫。たっくんのこともあるから──誰かの家で、色々話すことがあるだろうから」

「色々……?」


 志帆が迷わず階段を目指すのに気づいて、颯斗は思わず足を止めた。前園家の間取りを全て把握している訳ではないが、昨晩、家人が二階に上がってくる気配はなかった。志帆も前園夫婦も、主に家の一階で生活しているということだ。志帆は、颯斗が間借りしている部屋に向かっているのだ。年頃の異性に、仮にとはいえ自室に足を踏み入れられることを想像して、颯斗の声は上擦った。


「ちょっと待って、片付けてたかどうか自信なくて……」


 志帆の手を振りほどきながら、颯斗は必死に記憶を手繰った。朝は、ちゃんと布団を畳んだはずだ。汚れた服や下着も、バックパックの奥にしまったはず。洗濯については、前園の妻に相談しなければならないと思っていたところだった。志帆に言うには、恥ずかしすぎることだから。と、そこまで考えて颯斗はまた気付いてしまう。家の中に、人の気配が全くないのだ。


「えっと、お母さんは?」

「多分、たっくんのおうち。……色々、お手伝いがあるから」


 志帆が小声で呟いたのは、もっともなことだった。人が亡くなれば、やらなければならないことは多いはずだ。突然のことだったからなおさら、家族が呆然として手がつかないということもあるだろうし、こういう島なら隣近所で協力し合う習慣なのかも。でも、家の中に入ってみれば思いのほか薄暗く、夜が確実に近づいているのが分かる。墓参りに、須藤の家の訪問に──長い一日も、終わりに近づいているのだ。


「そっちじゃダメ? 座って、ゆっくり話してよ」


 夜に、二人で密室に篭るのは、良くない。特に、それが女の子の自宅で、両親にも知られているなら。せめてもの抵抗に、颯斗はダイニングを示した。食卓を挟んで向かい合うなら、まだ体裁が良いような気がしたのだ。でも──


「畳にね、ぺたって座りたいの。疲れちゃったから」


 灯りをつけていない薄暗い廊下で、志帆はひっそりと笑った。その表情がやけに艶めかしくて、そしてやけに凄みがあって、颯斗は言葉を失ってしまう。その隙に志帆は階段を上り、彼は追いかけるしかなくなってしまう。

 部屋に戻ると、志帆は、颯斗の荷物になど目もくれずに、真っ先に窓辺へと歩み寄った。彼女の指が、クレセント錠の弧をなぞる。


「窓、ちゃんと閉めて寝たんだね。良かった……」

「波の音がうるさいって言ってたし……海の夢を見そうだったから」


 女の子と二人きり、の緊張もある。でも、それ以上にやっと本題に入ろうとしている気配を感じて、颯斗は慎重に言葉を紡いだ。普通じゃない、頭がおかしいと思われかねないことだけど、今なら志帆にも通じるだろうと思うことができた。


「俺、この島の夢をずっと見てたんだ。小さい頃に海に飛び込んだ時の……すごく、生々しい夢。苦しくて怖いんだけど、怖いだけじゃなくて……」


 耳に波の音が、皮膚に海水の冷たさが、舌に潮の味が蘇る。海に包まれた時の記憶が。あの時は息苦しさにパニックになりかけたけど、でも、決して悪夢とは思えないのだ。あの水底をまた覗き込みたい、何を見たのかを確かめたいと思ってしまう。彼は、夢の続きを見るためにこの比彌島に来たのだ。

 颯斗はどんな表情と眼差しをしていたのだろう。窓の外、赤く染まりつつある空を背景に、志帆がふうと溜息を吐いた。


「やっぱり、颯斗さんが見初められていたんだね……」

「海に『いる』の? 窓を開けたら入ってくる?」


 昨晩の前園たちのやり取りを思い出しながら颯斗が問いかけると、志帆は眉を寄せて窓辺から離れた。彼の近くに来ようというのか、窓から来る何かを恐れたのか。窓から見える海に投げた志帆の目は、恐怖とも嫌悪ともつかない感情が淀んでいた。

 目線で座るように颯斗に促し、先ほどの言葉通りに足を崩して畳に座ると、志帆はやっと小さく頷いた。


「そう。……たっくんね、窓開けてたんだって。ずっと、『出て』なかったからね、知らない若い人もいたんだよね。しばらく島を離れてたしね……」

「それが『誰』か、教えてくれるの?」


 何、ではなく誰、と聞くのが適切だろうと思って颯斗は言葉を選んだ。「それ」に対しては、どうも意思や息遣いを感じるから。連れて行くとか行かれるとか、入ってくるとか。……見初められる、とか。島民たちが使う言葉もそうだし、何より颯斗自身がこの島に、この海に対して感じる感覚は呼ばれているとしか思えないのだ。


「…………」


 颯斗の期待の眼差しに応えて、志帆は無言のまま頷いた。

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