第18話 白波

 畳の上に胡坐あぐらをかくと、い草の香りが颯斗はやとの鼻をくすぐった。実家も、一人暮らしのアパートも、床はフローリングだから、馴染みのない香りだ。畳についた掌に、規則正しく編まれた繊維が食い込む感触も。目線の低さも──ショート丈の靴下から覗いた志帆しほの白いくるぶしが、やけに近く目に入ってしまうのも。


「この島に伝わる、昔話があってね──」


 颯斗の視線に気付いているのかいないのか、志帆は宙を見上げている。その目に映るのは、でも、アンティークめいたひも付きの照明ではないだろう。多分、比彌島を取り囲む青く深い海、その奥底を覗き込んでいるはずだ。

 夜の海のような暗い目のまま、志帆が語ったのはこのような内容だった。


 昔、比彌ひみ島の網元の息子が豪族の姫君に見初められた。その若者には既に結婚を約束した娘がいたが、貴人の命令には逆らえず、恋人たちは引き裂かれることになった。しかし、許嫁を奪われるのを耐え難く思った娘は若者を殺し、自らも海に身を投げた。


「──『彼女』は、恋人を諦めていないの。今も、ずっと。だから、島の血を引く男の人は、『彼女』に狙われちゃうの。恋人の面影が、あるってことなんだろうね」

「……恋人と間違えるっていうか、身代わりに、っていうこと……?」


 語り終えた志帆に、颯斗は眉を寄せて問いかけた。信じられない、という言外の声が聞こえなかった訳ではないだろうに、志帆は当たり前のように頷いてみせる。


「そう。器量自慢の娘だったんだって。だから、誘われたら逆らえないって。だから、窓や扉を開けて隙を見せたらいけないの。魅入られたら、連れて行かれるから」

「…………」

「あの……実は、たっくんの他にも、死んでしまった人がいて……だから気を付けるように言っていたの。えっと、颯斗さんにもちゃんと言った方が良かったんだろうけど……ごめん、なさい」


 颯斗が眉を顰めるのは、秘密にしていたことを咎めている訳ではない。彼は実は、須藤すどうから島で相次いだ不審死について聞いている。だから、水底に「何か」──あるいは「誰か」がのは間違いないだろうと思う。

 でも、それを認めた上でも志帆を疑わざるを得ない。彼女は絶対に嘘を吐いている。須藤から聞いた島の歴史と噛み合わないのだ。この島は周辺の地域からずっと干渉を受けていないという話だった。島の漁師に横恋慕する豪族の姫なんて、登場する余地はないはずだ。


 何より──志帆の話を呑み込むと、颯斗を呼んでたのは死んだ娘の幽霊というか怨霊だということになってしまう。恋して失った許嫁の身代わりに、島の男を引きずり込むとかいう。それなら、颯斗はいわば人違いで呼ばれているということで──あれほどの、居ても立っても居られないような衝動が、そんな勝手な理由によるものだとは思いたくない。「彼自身」が呼ばれているのでなければ、夢にまで見ることはないのではないだろうか。


 志帆の話の綻びを見つけようと、颯斗は必死に記憶を探った。須藤の話、雄大ゆうだい前園まえぞのたちが言っていたこと──そうだ、まだ、不審な点があった。


「さっきの、雄大君たちが言ってた、俺に教えてないって、それだけ? ……セ、とか言ってたのは……?」

「背の君、って古典とかで言うでしょ。夫のこと。白波しらなみは恋人が恋しくて現れるんだから、『彼女』に見初められた人は背の君で、それが縮まってここではセ、って言うようになったみたい」

「白波って……、その人っていうか、その幽霊の名前? なんで分かるの?」


 まるで知り合いででもあるかのように、志帆はさらりと幽霊の名前らしきものを口にした。やけにみやびなその名前に、記憶から浮かび上がる声がある。


『……波んご機嫌次第で駄目やっせんどん』


 屋久島を出る時の前園は、海の話なんかしていなかったのではないだろうか。比彌島に着いた時も、機嫌がどうこうと言っていた気がする……かもしれない。颯斗のリスニング力は惨憺たるもので、最初は単語の切れ目もよく分からなかったのだ。

 白波という女の霊は、海にまでも影響を及ぼすのか──だから、拓海たくみや、他の死者たちは海で見つかったのか。それほどの力を持つ怨霊だから、颯斗の意識まで操ることができるのか。ごくり、と呑み込んだ唾に、潮の辛さが混じる。「彼女」は、今も颯斗を誘っているのだろうか。彼は、惑わされているだけなのだろうか。


「白波は、前園家の先祖だったの。だから、うちが彼女のしたことの責任を取らなきゃいけないの」


 颯斗が内省に気を取られているうちに、志帆の声がやけに近づいていた。我に返って目を上げると、彼の目の前に、Tシャツに包まれた志帆の胸が迫っている。なぜ、と思う間もなく──柔らかな温もりが、彼を押し倒していた。


「『彼女』の望みは、今度こそ恋人を盗られずに結ばれること。前園の娘は、セに選ばれた人と結婚するの。そうすれば、白波はしばらくは大人しくなる……!」

「ちょっと、待って……!」


 颯斗にし掛かる志帆の身体は軽く、その気になれば押し退けることはそう難しくないだろう。でも、彼女の震える声と思い詰めた眼差しが、彼の力を奪ってしまう。それに、汗と石鹸が混ざった女の子の匂いも。このままではいけないと思うのに、志帆を傷つけずにこの場を収める方法が分からないのだ。下手に手を振り回しては変なところに触れてしまいそうで、颯斗は狼狽えて無様にもがくだけだ。


「こういうの、良くないって……! 昨日会ったばっかだよ!?」


 多分、志帆もどうすれば良いか分かっていないようなのが幸いといえば幸いだった。畳の上に倒れた颯斗に馬乗りになって、シャツを脱がそうとしているようだけど、倒れた人間のシャツはそう簡単に脱がせられるものではない。ジーンズのボタンに伸びた指は、辛うじて先んじてブロックすることに成功する。と、志帆は癇癪を起こしたように激しく首を振り、叫んだ。


「私は、ずっと覚悟してた! たっくんかゆう君ならまだ良かったけど! 違ったし! 坂元さんのお孫さんがそうじゃないか、ってなって、だから、私、そのつもりで……っ」


 志帆の頬に涙が伝ったのを見て胸を痛めながら、颯斗はそっと彼女の身体の下から抜け出した。家に入る前の雄大や前園の顔色の意味が、やっと分かった気がした。気遣うような、腫れ物に触るような──志帆に課せられた務めが「これ」だというなら、無理もない。


「その……島のことは、よく分からなくて、悪いんだけど──」


 颯斗は、おずおずと志帆に触れ、そっとその身体を腕に収めた。やましい気持ちはないと自分に言い聞かせながら、驚くほど滑らかな髪を撫でる。高鳴る心臓の音がうるさいほどだけど、きっと緊張のためのはずだ。


「やっぱり、良くないよ……。お互いに、好きじゃない……でしょ? 昔の幽霊とか、身代わりとか──そういうので、こんなのは……」

「颯斗さん……!」


 志帆の指が、颯斗のシャツの胸元を掴んだ。彼を戸惑わせる艶めかしさはなく、ただ、縋りつくような必死さでもって。俯いて肩を震わせる彼女の背を軽く叩いて宥めながら、颯斗は深く息を吸って、吐く。彼の身体は、密着した異性の柔らかさに危うく反応しそうだったから。


 でも、彼の心の方は完全に落ち着いていた。少なくとも、志帆に対してどうこう、という気は全く起きない。彼女は──「違う」のだ。前園が、雄大や亡くなったという拓海に対して一種冷淡な態度を見せたように、颯斗にとって大事なのは海から誘う何者かだけだ。たとえ据え膳のような状況になったとしても、代わりに飛びつこうという気にはならないのだ。


 白波とかいう女の霊がいるとしたら、彼と同じではないのだろうか。身代わりを手に入れることに成功したとしても、決して満足しないのではないだろうか。

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