第16話 セ
その場に集まった島民たちは、
「雄大、落ち着きやんせ」
「
前園の胸倉を掴む勢いの雄大は、年配の島民たちに肩を掴まれて押し戻されている。若くて体力もある、そして興奮しているらしい雄大は、数人がかりでやっと止められるかどうか、という風に見えた。
「
雄大の声は大きく激しく、前園を威嚇しようとしているようにさえ見えた。対する前園は、潮風によって刻まれた皺を一層深くし、顔を顰めて吐き捨てるだけだったけれど。
「落ち着いちょらん」
息を詰めて、距離を保って見つめる颯斗からは、前園たちの表情の細かなところまでは見えない。ただ──前園が今浮かべる表情は、彼も見たことがあるものなのではないか、という気がした。初めて会ったすぐ後、屋久島を出る時のことだ。海と、波について言及した時の前園は、何かに怯えたような気配を漂わせていた。
『
何が分からないのか、あの時以上の疑問と不審が颯斗の中で膨れ上がる。颯斗よりも雄大よりも、前園は何が起きているかを知っていて、その上で行動しているのではないのだろうか。
「落ち着いてなんかおらん。おらんが──じゃが、焦った
ほら、前園は雄大を叱りつけた。拙速な真似をしたら悪いことが起きる、というようなことを言ったのだろう、多分。だから──前園は、最悪の事態を知っているはずなのだ。雄大も、それが分かるのだろう。不満そうに地団太を踏む姿は、駄々を捏ねる子供のようだ。
「悪いことが起きないように、じゃないのかよ……! これ以上、悪いことなんて……!」
「セ、を取らるっ訳にはいかんのじゃ」
前園の声に、苛立ちや怯えだけではなく、言い聞かせるような調子が加わった。懇願するような、とも言えるかもしれない。
それに何より、今、何と言ったのだろう。セ──背、瀬、世? 他の音を聞き漏らした? 標準語にはない単語だろうか。でも、きっと颯斗に関係のある言葉だ。だって、須藤の家を訪ねる途上で行き会った老婆は言っていた。
『せっかっ来てくれたどん、取られたやたまらん』
「取られる」という発想は、島民の、少なくとも一部では共有されているのだ。一定の年代以上なら、なのか、島内での家柄のようなことが関係するのかは分からないけれど。取られる──海で死ぬ。それは誰であっても起きてはならないことだろうとは思う。でも、老婆の口ぶりは、颯斗「だから」取られたくくない、と言っていたようにも取れる。それは多分、颯斗が「セ」だから、なのか。それはつまり、裏を返せば──
「俺はどうでも良いのかよ……」
雄大が低く唸る声が颯斗の耳に届いた。そこに宿る怒りと憤りには、関係ないはずの彼でさえも怯まずにはいられない。雄大の声が震えているのは、自分自身のためだけではないだろうから。拓海という青年は、亡くなったのだ。前園の言葉は「セ」ではない拓海を軽んじているようにも聞こえてしまう。雄大は、亡くなった友人のためにこそ激昂しているのだ。
「こうなるって分かってたらこんな島帰ってねえよ! 騙しやがって、
雄大の、もはや悲鳴にも似た叫びは颯斗も責めているようだった。須藤が言うように彼が「そう」なのだとしたら、拓海の死は必要ではなかったのかもしれないから。
「あの──」
だから──つい、颯斗は声を上げてしまった。ふらりと、よろめくように、足が進み出る。前園たちには不意に現れた、と見えるだろう。島民たちの恐怖さえ混じった目が彼を貫いた。
「えっと、大変なことがあったみたいで……出歩いてて、すみませんでした」
口元がへらりと笑うのは、おかしいからではなく反射の現象に過ぎない。緊張で引き攣った筋肉が、たまたま笑顔の形を作っただけだ。颯斗の心臓は高鳴って、声は裏返ってしまっている。そんな場合ではないと、前園や雄大たちの表情や、いかにも揉めていたのが一目瞭然の立ち位置からも明らかなのに。間抜けにも、何も知らないかのように問いかけるしかないのだ。
「……何が、あったんですか?」
「あんた、
迎えに出したはずの志帆がいないのに気づいたのだろう、前園は眉を寄せて颯斗の後ろに目を凝らすそぶりを見せた。志帆は、まだ追いついていないようだった。
「あんた……」
雄大は、握りしめた拳を振り上げたところだった。前園の頑なな態度と拓海の死と──怒りと悲しみと混乱が、青年を激高させたのだろう。前園に代わって、颯斗がその拳を受けることになるのか、と一瞬は身構えたけれど──雄大は、ゆっくりと肩の力を抜いた。風船が萎むところを見るようだった。別に、雄大の怒りが収まった訳ではないのだろうけど。とにかくも、颯斗は隙を突くことに成功したのかもしれない。
颯斗が足を踏み出すと、島民たちが彼に道を開けた。彼らの顔が強張っているのが不思議で、そして不本意だった。彼らが颯斗を恐れる理由なんて何もないだろうに、どうして怯えたような顔をされなければならないのだろう。彼らだけが知る颯斗の──「何か」があるのか。颯斗にそれを知られることが、怖いのか。
考えながら颯斗は足を進め、雄大の前に辿り着いた。初めて明るいところで、そして間近に見た青年は、真面目そうだな、という印象だった。髪を染めている訳でもピアスをしている訳でもなくて、どちらかというと爽やかな。多分、普段だったら年配の人に怒鳴ったり手を挙げたりはしないのだろう。そんな好青年がこうも動揺しているのは、やはり友人の死が原因なのだろうか。……それだけではない気がしてならないのだけど。
颯斗へ、前園へ、島民たちへ。きょろきょろと視線を彷徨わせる雄大に、颯斗は少し頭を下げた。口元が、また引き攣って少しだけ笑う。
「あの、坂元、颯斗です。初めまして……というか、前に遊んだことがあるかもだけど……。雄大……君、だよね」
「ああ……どうも……」
雄大も、頬を
颯斗につられるように、雄大も曖昧な笑みに似た表情を浮かべ──そして、眉を寄せた。
「何も知らないのか? ……教えてないのか?」
雄大の呟きの前半は颯斗に、後半は前園に向けられていた。彼の怪訝そうな表情は、つまり颯斗には当然知らされるべき事柄がある、ということだろうか。しかも、それを知ったら呑気に挨拶してなんかいられないような?
「ああ──」
相槌のように呻いた前園を、颯斗は注視した。彼と雄大との間でしきりに彷徨う視線から、何かを汲み取ろうと。今度こそ、事情を問い質す切っ掛けが見出せるのではないかと期待して。
「前園さん……」
島民の誰かが、不安げに呟いたけれど。止めさせない、と颯斗は決意していた。何も分からないままは、嫌だ。祖父の墓参りが口実に過ぎないなら、彼は騙されて連れてこられたようなものなのだから。必ず、何かしらを聞き出さなくては。雄大もきっと彼に加勢してくれる。
「前園さん」
島民とは全く違う調子で、前園の口を開かせるために、促すために颯斗は呼びかけた。彼が呼ばれた理由を教えてくれと、はっきり言ってやるつもりだった。
「私から、言うよ」
背後から聞こえた声に、颯斗は文字通り飛び上がった。慌てて振り向くと、さっきの彼をなぞったかのように、物陰から志帆がこちらを窺っていた。颯斗に置き去りにされて、彼女も走ったのだろうか。髪は乱れ、肩が上下して息も乱れている。ジーンズが砂埃に塗れているのは、もしかしたら転んだからかもしれない。
「志帆、ちゃん……?」
颯斗は、急に走り出してしまったことに対して志帆に謝るべきなのだろう。でも、彼女の名を呼んだきり、颯斗は彼女に近づくことも次の言葉を紡ぐこともできなかった。
「その方が良いでしょ、お父さん」
いつの間にか夕方の気配が忍び寄って、影はすっかり長くなっている。でも、影にいるからというだけでなく、志帆の表情は暗かった。父親に向けた眼差しも、有無を言わせない響きがあって──凄むようなぴりぴりとした気配に、とても近づくことができなかったのだ。
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