第11話 切っ掛け

 スマホと財布をポケットに、タオルを首にかけただけの格好で颯斗はやと前園前園家を出た。ちょっとその辺を見て回るだけ、という体は、出がけに声を掛けた志帆しほにも怪しまれなかっただろう。


「場所、分かるかな……」


 須藤すどうから送られた地図と、前園家の周囲の家並みを見比べながら、呟く。港近くの集落には区画というほどのものもなく、単に家々が肩を寄せ合うようにして並んでいるというだけだ。ただ、だからといって道に迷う恐れがないかというと決してそんなことはなく、集落を抜けた先に続く道の「何もなさ」は、一応は都会の若者である颯斗を少々怯ませた。

 何しろ、標識や信号はもちろん、ランドマークとなるべき建物や看板などが極端に少ないのだ。表示された道筋自体は簡単なものでも、距離感が本当に合っているのか、どれだけ歩けば目的地に着くのか、自信を持って進むことは難しかった。


 そして、難しいというなら、人に見られるなという須藤の忠告を守ることも、だった。


「あらぁ──」


 海を離れて、内陸へと向かう道を辿ろうとした颯斗は、行き会った老婆に微笑みかけられた。


「坂元さんどんちのちん子じゃね? 一人と? 志帆ちゃんなどげんしたと?」


 背の高い草には埋もれてしまいそうな小柄な老婆は、深い皺に細めた目を埋もれさせるようにして笑っていた。前園と同じように、歳月と潮風に曝されていぶされた顔だ。


「あ……志帆ちゃんは、家事があるので。手伝いはいいって言われちゃったので、散歩に」


 老婆は、当然のように彼の身元を、そして前園家に世話になっていることを知っているらしい。志帆の名を出したのは、午前中の墓参りまで知っているのか、それとも単に歳が近いから一緒にいるものだろうと思われたのか。


「これからは男ん子も家事をせんなだめじゃ。嫌われてまうじゃ」

「そうですね……帰ったら、やることがないか聞いてみます」

「そいが良か、仲良うせんな」

「はは……」


 にこにこと笑う老婆に合わせて、颯斗も笑おうとした。果たして成功したかどうかは分からないけど。志帆は昨日会ったばかりの子で、比彌島を出たら二度と会わないかもしれない相手だ。可愛らしいとは思っても、恋愛の対象として見るにはお互いを知らなさ過ぎる。それを、恋人か夫婦のように語る老婆は不躾で、悪気がないにしても──多分──少々不快だった。志帆だって、この場に居合わせたら困惑して気分を害すのではないだろうか。


「すみません、もう行きますね。久しぶりだから、色々見て回りたくて」

「ああ、ごめんねえ、つい嬉しゅうて」


 軽く頭を下げて、颯斗が足を踏み出そうとすると、老婆は大げさなくらいに手を振った。若者か他所の人間と話すのが楽しかったのだろう、だから多少口を滑らせることもあるのだろうと、辛うじて納得できそうな無邪気な笑顔と仕草だった。

 少しは気分も持ち直して、愛想良くしなければと颯斗は手を上げかけ──そして、止まった。


「海には行ってはいけんよ、危なかでね。せっかっ来てくれたどん、取られたやたまらん」

「……はい。前園さんにも志帆ちゃんにも言われたので……それで、山の方に」

「そうすっと良か、ないにもなかどんゆっくりしていきやんせ」


 老婆はあくまでもにこやかだった。颯斗が歩き始めるために背を向けた、その瞬間まで。いや、きっと背を向けた後も、変わらぬ笑顔でじっと彼を見つめているのではないかという気がした。颯斗の素性も、滞在先も。知らない人間にまで知れ渡っているのがこの島なのだ。彼がどこに行こうとしているのかも、老婆は察しているのではないだろうか。それに、また海だ。この島の住人は、海に囲まれている癖に海を恐れている。その理由は──須藤が、教えてくれるだろうか。




 老婆と別れた後も、颯斗はしばらく歩き続けた。地図アプリは正確で、実際の道の曲がり方を反映していたから、ランドマークがなくても辛うじて正しいルートを歩めていると信じられた。衛星からの画像なのか、実際に測量した誰かがいるのか──いずれにしても、この島だって現代の科学技術が及ぶ範囲にあると実感することが、颯斗には何よりの支えだった。


 しばらくすると、颯斗はさびれた集落に辿り着いた。港にあったよりもさらに小さな、家が何軒か固まって建っている、というだけの場所。須藤の住まいがそのうちのどれかは、考えなくても分かった。窓が割れたりドアが外れたりして人の気配がない家の中、一軒だけ洗濯物を干している家があったのだ。

 颯斗の足音が聞こえたのか、時間の見当をつけて待っていたのか。颯斗がチャイムを探すまでもなく、家のドアが開いた。さっきと同じ服装、同じ笑顔で、須藤が出迎えてくれたのだ。


「坂元君。迷わなかった? 呼び出してすまなかったね」

「いえ……大丈夫でした」


 須藤がドアを大きく開け、家の中に招き入れる姿勢なのを見て、颯斗は慎重に答えた。女の子ではあるまいし、上がり込んでも危険なことはないだろう。彼の方が須藤より背は高いくらいだし。それでも──何となく、嫌だった。訳が分からないことが続いているから、訳もなく身構えてしまうのだ。島のことが聞きたくてやってきたのに勝手なことだとは思うけど。


「暑かったでしょ。お茶が冷えてるよ。ペットボトルだけど。あと、もらいもののゼリーとか」

「ありがとうございます……お邪魔、します」


 須藤は未開封のものを供するのだと強調したのだろうか。訝しみながら、颯斗は腹を括った。ここまで来て、尻込みしても仕方ない。前園や志帆に気付かれる前に、できるだけ多くの情報を得てさっさと帰る──それが、最良なのだろう。




 家の外見はいかにも古民家という雰囲気だったが、中に入ってみると真新しいフローリングに足を乗せることになった。須藤が移住するにあたってリフォームでもしたのだろうか。


「補助金が出るんだよね。人が住まないと荒れる一方、って言うでしょ」


 真新しい白い壁に颯斗が瞬きしているのに気づいたのか、須藤が注釈を入れてくれた。颯斗が通されたリビングと思しき一室には、ローテーブルにソファが据えられている。テーブルの上にはノートパソコンがあるのは、仕事用なのか颯斗に何か見せてくれるためだろうか。部屋の隅には本や雑誌や紙の束が積まれているのが、家の主の職業を窺わせた。


「一人で住んでるんですか」

「そう、あいにく独身で……こんなとこまで訪ねて来る人もほとんどいないんだけど、まあ収納が多いと思えば良い、かな。この島には単身者向けアパートとかないしねえ」

「ああ……そうですよね……」


 独り暮らしには広すぎる家ではないか、と思って呟くと、須藤は苦笑しながら答えてくれた。言われてみればその通りだった。単身赴任者がいるような企業はこの島にはなく、空き家を借りるなり購入するなりするとしたら、家族向けの物件しかないのだろう。


「でも、住めば良いところだよ。物価は、運輸の手間があるから低いとは言えないけど。バイトというか、畑でも漁でもお手伝いすれば現物でお礼がもらえることもあるしね。僕だったら、それで記事が書けるわけだし」

「はあ……」


 台所に引っ込んだ須藤の声を聞いて、颯斗は少し引っかかるものを感じていた。彼の話だけを聞けば、須藤と島民たちは良い関係を築いているように聞こえる。でも、昨日の宴会に須藤が来ていなかったのも、墓地で会った時に志帆が顰めていたのも事実だ。証拠がないのは、須藤の発言の方ではあるけれど──でも、須藤だってすぐにバレる嘘を吐くことはないだろうが。


「基本的に、若い移住者は歓迎されるんだよ。志帆ちゃんには、さっき逃げられちゃったけどね。でも、あの子もちょっと前までは色々答えてくれたんだけどね……」


 盆の上に、麦茶のペットボトルとコップ、宝石のようにきらめくゼリーと皿を乗せた須藤が現れた。颯斗の目の前でコップに茶を注ぎ、皿にゼリーを開けてくれる。グレープフルーツの酸味のある香りが颯斗の鼻に届いた。


「ちょっと前まで……?」


 それも、証拠があることではない。でも、前園が颯斗の父を呼ぼうとしたのもちょっと前、かもしれない。島で「何か」があったから、変化が起こった? ならば、それは──


「切っ掛けは──まあ、僕も結局部外者だからね、断定はできないんだけど。多分、『あれ』からだよね、っていうのがあってね……」


 今までのにこやかさは鳴りを潜めた神妙な顔で、須藤は颯斗の前に麦茶とゼリーを並べた。スプーンも添えて──でも、颯斗は手を付ける気にはなれなかった。

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