比彌島の謎

第8話 陸の墓 海の死者

 颯斗はやとが八時前に目を覚ますと、前園まえぞのはむっつりとした顔で朝食を取っていた。目の下にくっきりと浮かんだくまからして、帰宅したのは深夜か早朝だったのだろうか。小さい島とはいえ、夜の闇の中では人探しにも苦労したのだろうか。


「おはようございます。昨日……大変だったみたいですね……?」

「ああ……」


 味噌汁を啜りながら、前園は不機嫌そうに頷いた。拓海たくみと言ったか、行方不明だという若者が見つかったのかどうか聞くことはできなかったし、この表情だと見つからなかったのではないかという気がしてならない。でも、夜中ならともかく日が昇って明るくなったのに見つからないということは──「連れていかれた」というのは一体どこに、なのだろう。


「颯斗さん、お茶のお代わりいる? 遠慮しないで言ってね」

「あ……ありがとう。寝汗かいちゃったみたいで」


 颯斗の前のコップが空いているのを目ざとく見つけて、志帆しほが麦茶を注ぎ直してくれた。それを即座に飲み干して、もう一度コップを満たしてもらう。空気にも潮の塩分が混ざっている、なんてことはないだろうが、今朝の喉の渇きは特に激しい。


「…………」


 口元を拭う颯斗を、食卓の向かいから前園がじっと眺めている。むっつりとした強面こわもての中年男に睨まれているのは居心地が悪い。遠慮なくお代わりをしているといっても麦茶なのだから、後ろめたさを感じる必要はないはずなのだけど。


「えっと……法事って、予定通り今日ですか? お疲れじゃ……?」

「ああ、それなんじゃが──」


 気まずさを払拭しようと、颯斗は前園に話しかけてみた。事実、気になっていたことでもある。颯斗と目が合って初めて、彼を見つめていたことに気付いたかのように前園は瞬き、そしてぎゅっと顔を顰めた。


「慌ただしゅうて、それどころじゃなか。そん辺で時間潰しちょってもれるか」

「はあ……」

「志帆に案内させっで。ほれ、陸の墓参りに行けば良か。じいさんばあさんも喜ぶじゃろ」

「はい、そうですね」


 陸の、とわざわざつけるのはやはり気になったが、前園宅にいてもやることがないのは確かだ。志帆と一緒なら大分気が楽だし。志帆の方にも視線を向けると、しっかりと頷いてくれた。


「じゃあ、花と線香を用意せないけんね」


 空いた食器を下げながら、前園の妻がやけに明るい声で笑った。夫のぶっきらぼうさを、補おうとするかのように。




 バケツに仏花の花束を入れて、颯斗は志帆と山道を歩いている。離島に来て森の中にいるのも不思議な気もするが、比彌島には小さいながら山があり、そこには木が生えていたり、牛が飼われていたりするのだ。「陸の」墓地も、その山中に位置しているのだとか。


「台風で波も風も来るからね、高台の森の中にお墓があるの。流されないようにね」


 志帆のサンダルが土を踏む音が響く。舗装されていない道は、朝露によってかわずかに湿り、暑さを和らげているようだ。場を繋ぐためなのか、島のことを教えてくれるのがありがたい。


「陸のお墓って言ってたのは? 海にもお墓があったりする?」

「うーんとね」


 隣に並ぶ颯斗をちらりと見上げて、志帆はほんの一瞬だけ言い淀む気配を見せた。


「……この島、水葬の風習があるの。昔は遺体をそのまま流しててね。今は、遺骨を撒くだけなんだけど。だから、陸のお墓は形だけで、本当のお墓参りは海にするの」

「水葬? それって良いんだっけ?」


 二人の他に辺りに人影はないが、志帆は内緒話のように声を潜めた。少し背伸びをした彼女に耳元で囁かれてどきりとしながら、颯斗も意味もなく声を落とす。水葬というか散骨というやつになるのだろうが、何か許可とかが必要そうな気がする。しかも、彼としてはそういうのは故人の主義とか思想とかによる希望を叶えるためにやるものだと何となく思っていた。島の風習で「そう」だというのは──やはり、本土を遠く離れた異文化が根付いているのだろうか。


「さあ……良くないから山にもお墓作ってるのかも。カモフラージュってことで。でも、小さな島だし人も少ないし……」


 だからこれくら良いじゃないか、と。肩を竦める志帆は言外に言っているようだった。そしてそう言われると、颯斗には何も言えなくなってしまう。そもそも彼が疑義を呈したところで島の習慣が変わる訳でもないし。他所の習慣に口を出すことはできないだろう、と思う。


 それに──むしろ良いじゃないか、と思えた。墓石の下、土の中に眠るのは、暗くて湿っぽくて少し不気味なイメージが付き纏う。一方で、比彌島の海の、底抜けの青に包まれるのはもっと明るくて安心できるような気がする。


 口の中に潮の味が蘇るのを感じながら、颯斗は言った。目が覚めているのに、あの夢の海が彼の周囲に迫ってきているかのようだった。


「海に還る、ってことだよね。イメージは綺麗かも」

「そう? 私は本土みたいに普通にお墓に入れてもらう方が良いけど! ──すぐそこだよ」


 志帆の苦笑が、颯斗を我に返らせた。それに、彼女が足を早めたことで彼の足をくすぐる、シャンプーだか石鹸だかの良い香りが。志帆が指さす前方を見れば、木々が拓けた隙間から海が見える。比彌島の墓地は、陸の方も思いのほか爽やかで開放的な情景を誇るようだった。




 墓地に並ぶ墓石は、苔むしたものが多かった。比彌島の島民にとって、法事とは本当に海でやるものらしい。それか、記念碑的な意味があるのだろうか。墓石に刻まれた名前や生没年を眺めて、颯斗は島の歴史を思う。角が取れた墓石の、ほとんど消えた文字の中には知らない元号もある。この島はいつから、そしてどうやって独特の文化を持つに至ったのだろう。


「坂元さんのお墓は、こっち」

「あ、ありがとう」


 志帆が示した石には、確かに颯斗の苗字が刻まれていた。墓地の中では、歴史を感じるほどに古くはないが真新しいというほどでもない。祖父の前の代の、颯斗が名前も聞いたことがない先祖も眠っているのだろうか。

 持ってきていた雑巾などで墓を軽く掃除し、仏花を活け終えると、颯斗は軽く伸びをした。運動というほどの運動ではなくても、南国の太陽は力強い。首周りに巻いたタオルは、汗を吸ってすっかり湿ってしまっている。


「花、置きっぱじゃ良くないよね? 明日とかまた来る?」

「いいよ、私が回収するから。普段から掃除とかしてるし」

「そうなんだ? 偉いね」


 颯斗と同じく汗を拭う志帆に、けれど暑苦しさなど全く感じられない。颯斗は爽やかな汗というものが実在することに、それに、彼女がさらりと述べたことに驚いて目を瞠った。家事手伝いのような立場だと言っていたけれど、彼女の職分は家内のことに留まっていないらしい。


「ううん。前園ってそういう家だから。お父さんも颯斗さんを迎えに行ってたでしょ」

「うん、お世話になっちゃって。おじいちゃんのことも……」


 そういう家、とはいったいどういうことなのか。島の住民は、颯斗が知らないことを当然のように語るから困る。そういえば、そもそも祖父の墓を前園が手入れしてくれていたということだった。もしかしたら、前園家はこの島で葬祭的なことをつかさどるような家、ということなのかもしれない。こんな離島では、お寺やお坊さんもいるかどうか分からないし。だからこそ独特の埋葬方法になった、ということもあるのかもしれない。


 ぼんやりと考えたことを、颯斗は言葉で志帆に確かめようとした。けれど、できなかった。


「──志帆ちゃん! 今日も頑張ってるね」


 第三の声が青空の下に響き、彼の舌を凍らせたのだ。溌溂とした男の声──そして、鹿児島弁では、ない。


 声がした方に目を向けると、三十過ぎくらいの男がいた。青年とは呼びづらい年だけど、ポロシャツにジーンズのラフな格好は学生っぽい気配もあって気さくな雰囲気を漂わせている。にこにこと笑って志帆に手を振る様子からも、そんな印象が裏付けられていた。


須藤すどうさん……」


 なのに、その男のものらしい名を呟いた時、志帆は嫌そうに眉を顰めていた。

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