第7話 潮騒
連れていかれた、と。不穏な表現の意味を尋ねる隙は、
「
「拓海も知っちょったはずじゃろう」
「雄大、
雄大は、島の若者なのだろうか。鹿児島弁で責めるように問い詰められるのは、颯斗には怖いことのように見えてしまう。ハラハラしながら見守っていると、雄大は苛立ったように顔を顰めた。年長者たちの叱責が理不尽だとでもいうかのように、スニーカーの底が地面を蹴る。
「俺だってもう危ないって分かってたよ! だから迎えに行ったのに……!」
「窓か玄関は開いちょったか」
「この島、鍵閉めないでしょ。声掛けてかららドア開けたけど」
「そうじゃなか! 開いちょったかち聞いちょっど」
「ええ……?」
眉を顰めた雄大に、颯斗も全く同感だった。男たちが何に慌てて、何を咎めているのか分からないのだ。というか、雄大は確かに危ないと口走った。颯斗の脳裏に、島に着いた時に目にした鯨幕が翻る。黒と白の幕、葬儀の色。最近亡くなったらしい島民。──何か、この島には危険なことがあるというのか。颯斗を招いておいて、しかも、何も説明していないのに?
「──おい、坂元の
耳を澄まそうと身じろぎした颯斗が目についてしまったのかもしれない。食卓から立って、庭に降りていた
「あの……何かあったんですか?」
「
おずおずと尋ねた颯斗に対する前園の答えは、木で鼻を括ったようなそっけないものだった。それだけでは颯斗が納得していないのが明らかだったのだろう、名前を憶えていない──失礼ながら──島民の一人が、取りなすような笑みを浮かべた。
「帰省した若かとが、夜遊びをしちょっらしい。暗うて
「探してやらんなならんで、お開きちゅうこっで──な、前園さん」
もう一人、別の島民も口添えして、前園に笑いかける。取り繕うように、決まった台本があるかのようにちょうど良いタイミングだ。筋書きがあるとしたら、一瞬で、視線のやり取りだけで台詞を伝えなければならないのだろうけど。颯斗の目には、男たちはごく素早く意思疎通を行ったように見えた。
「ああ……そげんこっじゃっで、ゆっくり休んじょってくれ。おっかん、家んこつは頼んだぞ」
そう言うと、前園は、雄大や他の島民たちと出かけてしまった。前園の妻が宴席の片づけをする中で、颯斗はもそもそと食事を終えた。閑散とした食卓では、海の幸を味わうどころではない。行方不明だとかいう人を探そうというのか。手に手に懐中電灯を持った人が闇に消えていく様は、不穏な蛍が飛び交うようだった。
食事を終えた後、食器洗いの手伝いだけでも、と申し出てみたが、客は大人しく座っていろと返されてしまった。母と娘が立ち働くのを気まずく手持ち無沙汰に眺めることしばし、やっと仕事が一段落したのか、
「お疲れ様。えっと、何もしなくて、ごめん」
「ううん。おじさんたちはあんなだし慌ただしいし、こっちこそごめんね」
桜色の湯飲みに自ら茶を淹れた志帆は、湯気が立つそれに口をつけると深々と息を吐いた。単に片付けの量が普段より多いからだけではなさそうな、重い、いかにも憂鬱そうな溜息。話しかけられたくないのかな、と恐れながら、颯斗は努めて明るくさりげなく切り出した。
「さっきの人って……? もう一人、いなくなっちゃったっていうのは?」
前園よりも、先ほどまで来ていた男たちよりも、志帆の方がまだ話しやすい。歳も近いし、文字通り言葉が通じるし。だから、何気ない会話をしていたかった。比彌島の夜は、こうなってしまうとあまりにも静かだったから。前園の妻がまだ片づけをしているのだろう、台所から聞こえる水が流れる音や食器が擦れる音も、夜と海に吸い込まれていくようで。何か奇妙なことが起きているらしいのにその実体が分からない不安が増幅してしまうのだ。
「ゆう君とたっくん──本土の大学に行ってるの。帰省って言ってたでしょ」
志帆も、少々強張ってはいたものの、笑顔を作って返してくれる。彼女の方でも、当たり障りのない会話を求めていたのかもしれない。
「若い人もいた方が、颯斗さんは良かったんだろうけど……」
確かに、それならサークルの飲み会に幾らか雰囲気も近づいたかもしれない。初対面でも同じ年頃だし、大学生活の話で間を持たせることもできたかもしれない。そうだ、それに──
「大学生なら、俺とタメくらいかな。昔、海で遊んだ人たちかも」
「ここの海に入ったことあるの……!?」
ふと思い出して呟くと、志帆は大きく目を瞠った。どうして驚くのだろう、と不思議にもいながら、颯斗は夢で何度も見た光景を思い浮かべる。
「うん。十年くらい前……小学生の頃だったと思うけど。おじいちゃんちに遊びに来てて、島の子と遊んだんだ」
先に飛び込んで、海にぷかぷかと浮かんでいた少年たち。彼を見上げて囃し立てていた島の子たち。その中の誰かが雄大だったのか──一人一人の顔までは、さすがにぼんやりしていた。
「崖から飛び込みしたんだよ。島の子は慣れてるんだろうけど、俺はびびっちゃってさ。悔しいから、思い切ってジャンプしたの」
明るい話、楽しい話をしなければ、と。志帆の相槌を待たずに語るうちに、颯斗の舌先にはまた潮の味が蘇っていた。人が去り、話し声もなくなったことで、会話や台所の音の合間に潮騒が聞こえてくるからでもあるのだろう。彼は今、あの海の本当にすぐ傍にまで来ているのだ。
不安と一抹の恐怖を、訳の分からない衝動が上回った。毎朝、起き抜けに水を飲み干して、それでも満たされない乾きと同じ種類の、渇望。あの海が、颯斗を呼んでいるかのような。
「……懐かしいな。明日とか明後日とか、その崖に行けないかな。子供の遊び場なら、志帆……ちゃんも、知ってるんじゃない?」
相手をちゃん付けいて良いものかどうか、少し躊躇いつつ。それでも図々しく
「うーん……男の子の遊び場は、分からないかも」
「そっかあ、そうだよね」
あからさまに落胆しているとは聞こえないように、颯斗は頷いた。この島に子供や若者は一体何人いるんだろう、志帆には同じ年頃の友人はいるのだろうかと考えながら。きっといるとしてもごく少ないのだろう。寂しいんじゃないか──なんて、きっと勝手な感慨だろうけど。
しん、とした沈黙が降りてしまった。これでは、雄大や前園の言動について志帆に問い質すこともし辛い。何か話題を、と考えるうち──志帆は、椅子を引いて席を立った。
「……やることなくて暇だよね。疲れてるだろうし、お風呂入って寝たら? すぐ入れるから」
「……うん、ありがとう」
お互いに、声を出す前に奇妙な一拍が入ってしまうのがほんの少しだけおかしかった。どうして探り合いのようになってしまっているのだろう、と思えて。
探り合いというのもおかしな表現なのだろうけど。それではまるで、志帆の方も颯斗に聞きたいことがあるとか、逆に聞かれたくないことがあるかのようだから。
風呂から上がって髪を乾かしても、前園が帰ってくる気配はなかった。それでも時刻は、十時前だ。疲れによる眠気と不穏な事態による緊張と、どちらが勝つかは颯斗自身にも分からなかった。それでもとりあえず電気を消して横になろう、とだけは決める。その方が、前園一家はやりやすいだろうから。
「窓、開けない方が良いって言ってたな……」
波の音がうるさいからと、志帆が。夜になってみると十分涼しいし、その方が例の夢も見ないだろう。波の音に潮の香りも加わったら、目が覚める前に夢の中で溺れてしまいそうだ。
扇風機のタイマーをセットすると、颯斗は布団に入った。扇風機の羽が回る音を聞きながら今日の記憶を反芻する。空港、フライト、屋久島の緑。釣り人グループ。海の青。吸い込まれそうな。志帆のはにかんだような微笑。
次第に記憶は溶け合って、彼の意識は眠りに落ち──そして、いつもの夢を見た。
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