第5話 鯨幕はためく島

 颯斗はやとは海に包まれている気がした。潮の香り、潮の味。あの夢と現実が混然となって、あの日のあの海に吸い込まれていくような。飛び込んだ海には底がなくて、青く煌めく水面に泡が上っていくのを見ながら、どこまでも沈んでいくのだ。あの時と違ってそれは決して恐ろしい感覚ではなく、むしろふわふわとした浮遊感が心地よくて──


「起きちょっか。そろそろ着っど」

「あ……」


 前園まえぞのに肩を揺さぶられて、眠り込んでいたことに気付く。波の揺れと相まって、いつもの夢がより鮮明に、迫って感じられたらしい。慌てて顔を拭って立ち上がりながら頭を下げる。船を出してもらった身で、結構な失礼を働いてしまった。


「すみません、寝ちゃってて、何もしないで……」

「素人にしきることはなか。吐っくれなら寝ちょって良かった」

「えっと……荒れてたんですか……?」


 前園の言葉もそこに潜む感情も、例によって颯斗には掴みづらかった。淡々とした表情で首を振っているように見える──けれど、本当にそうなのだろうか。どうも、思っていたよりも手厚く扱われているようで、それはそれで居心地が悪かった。


「やっぱい今は機嫌が悪か。慣れちょらんと大変やったじゃろ。──ほれ、比彌ひみ島じゃ」

「ああ……」


 言葉を交わしながら二人で甲板に出ると、辺りには夕暮れの気配が漂っていた。太陽の位置はいつの間にかかなり低くなっていて、空と海を茜色に染めている。

 前園が指さした方を見ると、水平線に浮かぶ緑と黒の塊がぐいぐいと近づいているところだった。いや、海上に比較対象がないからそう見えるだけで、実際には颯斗たちが乗った福栄丸が島を目指している構図なのだが。


 あれが、比彌島。文字通り、夢にまで見た島。


 海岸線や島影に見覚えがないかと、颯斗は潮風を頬に受けながら比彌島の姿に目を凝らした。千メートル級以上の山を擁する屋久島を発った時の情景を思い出すと、こちらはかなり小さいと感じる。もちろん、そもそもの島の大きさ自体が違うのだろうが。空港もある観光地の屋久島と比べれば、遠目に見える住宅の数は明らかにまばらで、離島に来たのだと改めて思う。

 それでも、港には何隻かの船が係留されていた。福栄丸と同じくらいの大きさの、漁船なのだろう。比彌島の産業と言えば漁業の他には細々とした畜産と農業くらいだと、父や前園の言葉の端々から何となく聞いていた。


 何しろほぼ十年ぶりだから、島の方にも変化はあって当然だ。多分、もっぱら過疎化する方に、なのかもしれないが。感慨深く、夢の世界が目の前に現れたのを眺めるうち──颯斗は、眉を寄せた。船が近づくにつれて、港の様子もよりはっきりと見えるようになってきた。魚の干物を作っているらしいところとか、一日の作業を終えてか行き来している人影も何人か。そんな漁港の背景は──白と黒。二色の太い縞模様に染められた布がはためいている。葬儀の際に使う鯨幕、というやつだ。


「お葬式……? 誰か亡くなったんですか……?」

「波ん荒れちょってちょっじゃろう。危なかで、勝手に海に入っなじゃ」


 颯斗としては、大変な時期に世話になって良いのか、祖父の法事はできるのか、というようなことを聞こうとしていたつもりだった。でも、前園の声が初めて尖り、叱りつけるような調子になったことで、何も言えなくなってしまう。

 この島の規模なら、亡くなった人も当然前園の友人とか世話になった人とか──少なくとも、見知った人には違いないのだろう。それも、この口ぶりからして病死や老衰ではなくて、海での事故死らしい。それなら、安易に聞かれて前園が不快に思っても当然かもしれない。


 前園は何も言わず、颯斗は何も言えない──気まずい沈黙のまま、福栄丸は入港した。




 比彌島の土を踏んだ瞬間、足元がぐらりと揺れるような感覚があった。船上の揺れに慣れた身体が、逆に大地の確かさに戸惑っているようだった。

 荷物を抱えた颯斗がよろめくうちに、彼と前園は数人の島民に囲まれていた。いずれも年配の男性で、前園と同じく日に灼けた顔をしている。港にいるということは、漁師なのだろうか。見慣れない余所者が物珍しいのか、彼らは颯斗の顔をしげしげと覗き込んでくる。


「前園さん、そのお兄さんあんにょが、あのあん……?」

「そうじゃ。うちに泊まっで、見ちょったらよろしゅう」

「東京からじゃね? 一日がかりやったじゃろう」

お疲れ様おやっとさぁやったねえ」

「いえ、とんでもないです。あの……お世話になります」


 初めて会った島民たちも、前園と一緒だった。つまり、戸惑うほどににこやかでフレンドリーで。颯斗自身にも訳が分からないほど歓迎されている、ような気がする。一応は事前に話もしていて、多少なりとも血縁がある前園と彼らとでは、話が違うだろうに。


ないもなかところだじゃっどん、いおは美味かで」

「気に入ってくるっと良か」

「はい、何日かはいるつもりで……ゆっくりできると良いです。えっと、やることもないので……お手伝いとか、できると良いんですけど」


 完全には聞き取れない、理解しづらい言葉を立て続けに浴びせられて、軽くパニックになって。颯斗は恐らく言わなくても良いことを口走っていた。海で遊んでみたいです、と言いかけて、急遽、軌道修正をしようとしたのも理由だった。前園に禁じられたばかりのことをわざわざ口にする訳にはいかないだろうから。


「今夜は、酒も出すで。二十歳は過ぎちょっな?」

「あ、成人済です。あの、ありがとうございます」


 颯斗の肩を叩いたのは、前園ではない男だった。ということは、今夜は前園家にこの男たちも来る、ということなのだろうか。こういう離島だと、島を上げて客をもてなすものだとか、そんな風習もあるのだろうか。まさか、彼がそこまで待ち望まれていたというはずもないだろうし……。訳が分からないことばかりで、あ、とか、あの、とか。一々間抜けな間投詞をつけないと何も言えないのか、と自分が情けなくなる。


 と、男たちのややしゃがれた声の間を縫うように、高い声が響いた。


「もう、お父さんたちってば。いきなり囲んじゃびっくりするでしょ!」


 女性の声──それも、今の颯斗にはひどく懐かしいような気さえする、標準語だ。その声の主を求めて視線をさまよわせると、颯斗と同じくらいの年齢の女性というか少女が腰に手を当てて立っていた。小麦色の肌が健康的で、Tシャツから覗く二の腕や、デニムのクロップドパンツから見えるくるぶしの線もしなやかだ。アウトドア的な、というか。青い空の下、広い海の世界で生きている子なのだろうな、という感じがする。


志帆しほ。迎えに来たんか」

「うん。そろそろかな、って。おじさんたちに捕まったら時間が掛かっちゃいそうだと思ってたら、やっぱりね」


 その女の子は、すたすたと前園に歩み寄ると、軽く睨みつけた。次いで、颯斗に向き直るとぺこりと頭を下げた。そうすると、肩につくくらいの長さの髪がさらりと揺れて、颯斗の鼻にシャンプーの香りを届ける。


「始めまして。前園、志帆といいます。こんな田舎まで、よく来てくれました」

「あっ、坂元颯斗です。よろしくお願いします……」


 物怖じせずに彼を見上げる志帆の目が、あまりにも曇りなく真っ直ぐで──颯斗は、またも余計かつ間抜けな間投詞を漏らしてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る