第4話 出港

 港に係留されていた前園まえぞのの船は、全長十五メートルほどの大きさだろうか。船腹には大きく福栄丸、と書いてある。漁船として大きいのか小さいのか、何の魚を狙ってどんな漁をするための船なのか颯斗はやとには分からない。ただ、ちゃんと屋根のついた船室キャビンがあるから、潮風や波しぶきを浴び続けなければならないということはなさそうだった。


「決まりじゃっでつけてくれ。窮屈じゃっどん」

「あ、はい。ありがとうございます」


 前園に差し出されたライフジャケットを、颯斗は見よう見真似で身に着けた。初めて会う年上の男、話す言葉もともすると通じにくい相手が、ごく常識的なことを言ってくれたことに安心しながら。日常から離れた、外国のような空気の只中に来たからといって、ここが現代の日本であることには変わりない。何も未開の地に攫われるのではない──祖父や父の故郷である島に招待されただけ、前園は船を出してくれた親切な親戚なのだ。


「フェリーもあるんですよね。わざわざ迎えに来ていただいて、ありがとうございました」


 さっき、釣り人グループと話していた時の不安を思い出して、颯斗は意識して頬を笑ませた。目的の比彌島はこの世の場所ではないんじゃないか、なんて。たまたまあの若者たちが知らなかっただけで、思い返せば鹿児島本港と島を結ぶ定期フェリーはちゃんと就航しているのだ。世間的な知名度はないにしても、比彌島が日本の一部として実在するという証拠を、颯斗はインターネットを通じてとっくに知っていたはずだったのだ。

 当然、屋久島経由で飛行機を乗り継ぐよりも、フェリーを使った方が費用は安い。飛行機代を負担しただけでなく船を出す手間をかけてくれた前園は、それだけ颯斗を気遣ってくれているのだ。強引に外堀を埋めてまで祖父母の墓参をさせようという腹積もりだとしても。


 精一杯の気遣いとしてまた頭を下げた颯斗に対し、前園の態度は淡々としたものだった。


「フェリーは日が決まっちょっで、船出した方が早か。ま、どっちにしてん……波んご機嫌次第で駄目やっせんどん」

「海が荒れるってことですか……? こっちは台風も大変そうですよね」


 前園の言葉は鹿児島弁がきつい上にどうも省略が多いようだった。文脈から汲まなければならない部分も多々あって颯斗は笑顔を保つのに少し苦労する。多分、週に一度だったかしか便がないフェリーを待っていられない、それでも天気次第で船を出せないのだが、というようなことだろう。リスニング力に自信が持てない颯斗は、念押しのような相槌を打ったのだが──


「海……海な。そうじゃ、おいには分からんのじゃ」


 前園は奇妙な表情で颯斗をまじまじと見つめてきた。奇妙な──驚いたような顔、なのだろうか。それとも……怯えている? 荒れた海は、漁師にとっても怖いのだろうか。あるいは、漁師だからこそ海の怖さを知っているのか。大して勉強もしていない大学生には、気の利いた言葉で会話を繋ぐことも難しい。


「海の天気は急に変わるって言いますもんね。あれ、山でしたっけ」


 照れ隠しのように笑っても返事はなく、颯斗はどこか気まずい思いで福栄丸に乗り込むことになった。港は平穏に見えるのに、船上の人になってみると波の動きが伝わって足元が不安定に揺れた。比彌島までは、どれくらいの時間がかかるのだろう。その間は何もない海の上で前園と二人きり、小さな船に命を託すことになるのだ。




 福栄丸は青い海を滑らかに走っている。屋久島に降り立った瞬間にも感じた通り、ここはもう亜熱帯に近い南国なのだ。吸い込まれそうな透明な青は、颯斗が夢で見る色とよく似ている。


「落ちんじゃなかぞ。中に入っちょけ、邪魔じゃっで」

「あ……すみません」


 前園に声を掛けられて初めて、颯斗は船べりから身を乗り出すようにして海を覗き込んでいたことに気付いた。もしも前園が目を離した隙に海に落ちたら、気付かれないまま船はずっと進んでいるかもしれないのだ。


 一体、どうしてぼんやりしてたんだろう。


 何をやっているんだ、と言いたげに顔を顰めている前園に頭を下げながら、颯斗の背には冷や汗が伝っていた。海の夢だけでも、普通ではないと薄々思っていたのだけど。命の危険も顧みずに海に飛び込みたくなるなんて、我ながらどうかしているとしか思えなかった。


 前園に言われるがまま、船室に入った颯斗はスマホを取り出した。幸い、電波は入っているしネットにも繋がる。颯斗はゲームもしないし動画をスマホで見ることもないから、最低限、電話とメッセージ機能が使えれば不自由しないだろう。

 颯斗はメッセージアプリを操作すると、瑛太えいたに屋久島の画像を送った。空港から降りて、縄文杉を擁する深緑の山を撮った画像だ。そして、立て続けにメッセージを送る。


 ──今船に乗ったとこ。

 ──鹿児島弁全然わからん。

 ──屋久島でしゃべった人、ひみ島知らないって。

 ──ちょっと怖くなってきたw


 瑛太は、アルバイト先のファストフード店の同僚だ。通う大学こそ違うが同い年でそれなりに仲が良い。今回も、比彌島行きにあたってシフトを代わってもらった借りがある。


 瑛太あいつなら、この状況でも不安になるどころかワクワクしてるんだろうな。


 オカルト趣味というか、学術的興味なのか。歴史だか民俗学だかを専攻しているという瑛太は、颯斗が祖父の墓参で離島に、と切り出した時、目を輝かせていたものだ。


『離島の変わった法事? すげえ面白そう! ちょっと<リゾートバイト>みたいじゃん?』

『いや、全然リゾートじゃないんだけど……』

『じゃなくて、そういう怪談? があるのよ。匿名掲示板発祥で──って、今言うと怖がらせるかもだけど』


 相手の顔色を見ずに言いたいことを捲し立てる瑛太には、オタク気質があるのだった。あの時も、颯斗は結局ひとしきり怪談と民俗学の講義めいたことを聞かされて休憩時間を浪費したのだ。怪談で怖がるような年でもないし、それなりに興味深くもあったから良いのだが。


『屋久島はもちろんだけど、トカラ列島も行ってみたいよなあ。ほら、日本──っていうかいわゆる大和やまと琉球りゅうきゅうの間にある孤島群! 文化とか風習とか、独自のが残ってるらしいからさあ』


 颯斗が釣り人グループに比彌島の場所を伝えることができたのも、瑛太と話していたからだ。彼の地理感覚では、鹿児島の南の方、としか認識できなかっただろうから。屋久島に上陸して感慨に耽ることができたのも、瑛太の講義があってこそ、だった。


『なんか変わったこと見聞きしたら、教えてよ。土産なんて良いからさ』


 満面の笑みで好奇心を表明していた瑛太の姿は、颯斗には眩しかった。少々怪しげな方向だとしても、夢中になれるものがあるのは羨ましい。颯斗には、そんなものはないから。

 大学の学部は、何となくのイメージで経済学部を選んだ。特に学びたいことがある訳でもないから院に進むなど思いもよらないし、かといって具体的な就職先の志望もない。友人はいるし、サークル活動やアルバイトもしているけど、打ち込んでいるというほどでもない。趣味も同様だ。映画、読書、マンガ、ゲーム。軽く身体を動かしたり、流行りの食べ物に並んでみたり。どれも、颯斗にとって寝食を忘れてのめり込むようなことではないのだ。


 颯斗は、自分のことを薄っぺらな人間だと思っている。外面だけ整えて、大した中身が入っていない、と。今時の若者とは、その程度のものだと思いたいけれど。彼に何かあるとしたら──やはり、あの夢だ。時と距離を越えて追いかけて来るあの海の記憶と感覚。潮の味と香りに焦がれるような奇妙な感覚だけが、颯斗の中で「本物」のような気がしているのだ。あるいは、そう思いたいだけなのか──間もなく、確かめることができるだろうか。

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