第3話 太古の息吹
屋久島空港から外に出た瞬間、鼻に届いた緑の濃い気配は
羽田空港から鹿児島空港まで飛行時間は約二時間。飛行機を乗り換えて、さらに三十分ほどのフライト。移動時間自体は大したことはないけれど、荷物を抱えての慣れない飛行機のトランジットはそれなりの疲れとストレスを彼に与えていた。この先に待ち構えている数時間の船旅を思うと、誘いを受けたのを少し後悔し始めてもいた。けれど、太古から息づく森の圧倒的な質感、島の中央に聳える山の威容はそんな弱気を吹き飛ばしてくれるようだった。
まるで日本じゃないみたいだな。
潮風に尖った葉を靡かせる
しかも、颯斗が目指す比彌島は、屋久島からさらに数十キロ、九州本土を離れたところに位置しているのだ。
前園という親戚には、電話で挨拶した際に屋久島に着いたら
空港から港まではバスで十五分程度だ。車窓から目にする海の色も透き通ってどこまでも青く、完全に南国のそれだった。そういえば、同じ飛行機の乗客たちの会話によると、屋久島の自然以外にも、釣りやスキューバダイビングを目的にしているグループもいたようだった。
標識によると、この方面にはあの縄文杉にも続く登山道の入り口もあるらしい。バスの乗客の中には、いかにもアウトドア向けのパーカーや靴で装備を固めた人たちもいた。縄文杉を見るには十時間はかかるトレッキングが必要というから、ついでにふらりと立ち寄ることはできないのが残念だが。帰りには、森の入り口だけでも、ちらりとでも見ることもできるだろうか。
安房港のバス停で降りたのは、颯斗の他には日に焼けた若者数人のグループだった。そのうちの一人が、ふと目が合った機会を捉えて、颯斗に近づいて話しかけてくる。
「釣りですか? 僕らもなんですけど」
颯斗が釣り人でないのは、彼らには一目瞭然だっただろう。若者たちの服は明らかに防水仕様だし、それぞれクーラーボックスや釣竿を携えている。バックパックを背負っただけの颯斗とは明らかに違う出で立ちだった。それでも声を掛けたのは、何も言わないのも感じが悪いとでも思っただけかもしれない。とはいえ、颯斗も一人旅に不安を覚え始めていたところだったから、喜んで会話に応じた。
「いえ、
「ヒミ島……?」
標準語での、それも同年代の相手との会話は、次は数日後になるかもしれないのだ。初対面の相手と話すことへの気後れも、できるだけなくしておきたかった。だから努めて明るく答えたつもりの颯斗に、けれど釣り人グループの若者たちは顔を見合わせて首を傾げた。
「えっと、トカラ列島の手前にぽつんとある島です。父がそこの出身で、祖父の墓参りに」
きょとんとした表情の若者たちを見て、しっとりと汗ばんでいた背にひんやりとした感覚が走る。とはいえ、比彌島が小さく人口も少なく、観光地でもないのは颯斗もよく知っている。名前を知らなくても仕方ないと自分に言い聞かせて、大雑把な説明を付け加えたのだが──
「へえ、そんな島があるんですか」
「漁船をチャーターしてトカラ列島を巡ったりは、するんですけどね」
「まあ、釣り場じゃないのかもしれないですしね」
「でも、ちょっと行ってみたいなあ」
若者たちは気さくで礼儀正しく、島の存在を知らなかったことに対するフォローを口々に述べてくれた。けれど、颯斗の胸に過ぎってしまった暗雲を完全に
前園は漁師をしている。比彌島で魚が獲れることは間違いないのだ。権利とか資格とかで、趣味で釣りをすることはできないとか、だろうか。だから、若者たちが島の存在を知らないことも、あるのかも、しれないけれど。
でも、いかに頭の中で理屈をつけようとしても、言いようのない嫌な感覚は消えてくれなかった。比彌島は確かに存在していて、祖父や父の故郷でもあって、颯斗の記憶にもはっきり焼き付いているのに。──どうして、この世にはない場所を訪ねようとしているような気がしてしまうのだろう。屋久島なら、確かに古代の神秘も色濃くて秘境の趣があるけれど、比彌島にはそんな大層な謂れもないだろうに。特に産業もない、過疎化が進んだ離島のはずだろうに。
いや──発端の電話で、母がぽつりと漏らしていたことが耳に蘇る。
『なんだかね、比彌島の風習ってちょっと特別? なんだって。だからどうしてもこの日じゃなきゃ、っていうのがあるみたいで……』
漠然と、墓参りをして読経にでも付き合うだけだと思っていた。前園も、具体的にどんな儀式だか何だかがあるかについては触れていなかった。でも、もしかしたら比彌島というのは、単に辺鄙なだけの島ではない……のだろうか。
「それじゃ、僕らこっちなんで」
「帰省、ゆっくりできると良いですね」
颯斗が口を噤んだ隙に、釣り人たちは手を振って去っていった。一人残された颯斗は、急に心細くなってぼんやりと海の方を見渡した。あまりにも青く澄んで、爽やかなはずなのに吸い込まれてしまいそうで少し怖い。夢で見る海に、近づいてきているからだろうか。
「──
と、不意に名前を呼ばれて颯斗は跳び上がった。声の主を求めて首を動かすと、ライフジャケットを着込んだ中年の男が手を振っていた。電話越しに話した声と同じかどうかは咄嗟に判断できなかったけれど、彼の名前を知っている以上は待ち合わせの相手で間違いないだろう。
「あっ、はい……坂元、颯斗です。あの、前園さん……?」
「そいじゃ。
初めて会った前園は、先ほどの釣り人たちよりも灼けた、浅黒い肌をしていた。太陽や潮風に長年晒された男の顔だろう。鹿児島弁と相まって、多少なりとも血が繋がっているという実感は湧きづらい。でも、この男の強引さが、颯斗を再び比彌島に導こうとしているのだ。
「いえ、両親が長いことご無沙汰して、すみませんでした。何もかも手配していただいて……」
用意していた挨拶を述べて、颯斗は深々と頭を下げた。嫌味めいたものを言われるのを覚悟して。だって、そもそもは祖父の墓を人任せにするなと、そういうことのはずだったから。
「うんにゃ、当然じゃっで気にすっな。
でも、前園は笑って首を振った。潮風で刻まれたであろう顔の皺は深く、細められた目は糸のようだ。長年の不義理をまったく気にしていないかのようにさえ見える。
前園は、挨拶もそこそこに船に向かおうとしているようだった。まあ、時刻は既に昼を回っている。明るいうちに比彌島に着いた方が良いだろうというのは何となく分かるから、急ぐのは当然なのだろう。性急に感じられるとしても、地元の人間の判断には従うべきだ。
前園を追って慌てて足を踏み出そうとする──と、相手は急に振り返った。颯斗の全身を眺めて、にんまりと細い目が笑う。
「背が高うて
「え……? はい、どうも……」
多分、褒められたのだと思って颯斗は曖昧に礼を述べた。彼の見た目は──まあ、普通だと思うのだけど。平均よりは高めの身長に、今日は新しい服をおろしたから、多少良い印象に見えているのかもしれない。
前園の視線がやけに熱が篭っていて、まるで品定めをしているようだ、などと──多分、自意識過剰でしかないはずだった。
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