誘われて

第2話 渡りに船

 カップ麺に湯を入れてから、三分間の時間潰しをしようと、スマホを取りにベッドに戻る──と、颯斗はやとは画面に着信の通知が表示されているのに気づいた。


「……お母さん?」


 母からだ。前期の成績は上々、帰省の日程も連絡済だ。米も送ってもらったばかりだし、用件に心当たりはない。あるとしたら、急な不幸とか、だろうか。祖父のことに思いを馳せたばかりなのもあって、颯斗の胸に、ふと不安の影がぎる。

 普段なら、親からの電話なんてしばらく放っておいたかもしれないけれど。今、この時に限っては、颯斗の指は滑らかに画面をタップして母に折り返しの電話をかけていた。呼び出し音が鳴ること数秒、もしもし、という聞きなれた声がスマホから聞こえてくる。


「──もしもし? 電話、何だったの?」

『あ、颯斗君? 起きてた?』

「起きてると思ったからかけて来たんじゃないの……?」


 カップ麺を気にしてキッチンへ移動しながら、颯斗は苦笑した。母は問いかけのおかしさには無頓着で、だって着信見たらかけ直してくれるでしょ、などと回線の向こうで言っている。この暢気な声からして、誰かに何かあった、ということではなさそうだった。


「今、カップ麺作っててさ。三分以内に終わる話?」

『あら、もっと落ち着いた時にかけてくれれば良かったのに!』

「だって、ちょっとドキっとするじゃん。急だから……お父さんでも倒れたんじゃ、って」

『お父さんは元気よ? まだまだ働いてもらわないと』


 母の話はとりとめがなく、放っておくといつまでも喋り続けそうだった。実家の周辺の近況に適当に相槌を打ちながら、颯斗は電話を切るタイミングを窺う。用があるなら後でメッセージ送って、と。そう言おうと息を吸った瞬間に、けれど母は本題に入った。


『颯斗君ね──比彌ひみ島って、覚えてる?』

「えっと……おじいちゃんの?」

『そう。何度か行ったけど、小さい頃だったからね、あんまりピンと来ないでしょうけど』


 どういう訳か抑えた声で母が告げた名は、颯斗の心臓を小さく跳ねさせた。比彌島。忘れるはずもない、決して聞き逃すことができない名だ。それは、祖父が住んでいた島。つまりは、颯斗を悩ませる夢の、まさに舞台になった海に抱かれる場所だ。


「その、比彌島が何か?」


 息子の声が上ずったことに、母は気付いていないようだった。彼女の方でも気に懸かることがあるかのように、どこか言い淀むような気配がある。その正体を聞き漏らすまいと、颯斗はスマホを握りしめて耳を澄ませた。


『それがねえ。突然で、おかしなことだとは思うんだけど──』


 母が躊躇いがちに語ったのは、次のようなことだった。


 祖父は、比彌島で生まれ比彌島で亡くなった人だった。もっと早くに亡くなったという祖母も同様だ。だから、当然のことながら墓は島内に建てられている。島を離れ、さらに遠い地で家庭を持った父にとっては、気軽に墓参りもできない場所だ。親不孝を承知で、父は島にいた遠縁に日頃の草むしりなどを依頼していた。もちろんお中元お歳暮の類も欠かさず、時に電話したり金券を送ったり、気を遣ってはいたというのだが──


『肉親がずっと来ないんじゃ、おじいちゃんおばあちゃんが気の毒だって……それはそうだし、申し訳ないとは思ってるんだけどねえ』


 母の声に困惑が滲んでいるのも無理はない。件の遠縁とやらは、だからたまには顔を見せろと主張しているらしいのだ。島に行くだけでも丸一日かかる距離で、父には簡単に休みを取ることもできないのを承知の上で。いや、年末年始などの長期休暇ならどうにか都合をつけることもできるのだろうが、遠縁の者は今すぐ来い、くらいの強い口調で迫っているのだとか。


「お盆休みは? ちょっとは休めるんじゃないの?」

『それが今年はちょうど海外に出張でね……それが終わったら、ってお伝えしたんだけど、飛行機のチケットも取ってあるから、って』

「外堀埋められてるんだ……」

『そうなの! なんだかね、比彌島の風習ってちょっと特別? なんだって。だからどうしてもこの日、っていうのがあるみたいで……お父さんもよく知らないそうなんだけど』


 両親にも甘えがあったのだろうし、今までの怠惰のツケが来ている面もあるとは思う。それでもなお、その遠縁の人物のやり方は性急に聞こえた。そして、母の架電の理由も見えて来る。


『颯斗君……夏休みだから暇じゃない? バイトとか入れちゃってる?』

「バイト……入ってるけど。休もうと思えば、休めると思う、けど……」

『でも、嫌だよねえ。知らない人だし。お母さんが行くのも変だし、近いうちに必ずって、今回はお断りするしかないかな……』


 母は、颯斗が比彌島行きを嫌がるものと決めてかかっているようだった。遠縁の者に対するアリバイ作りのようなことなのだろう。息子にも聞いてみたけどダメだった、という。でも、颯斗にとっては渡りに船だ。どういう訳か夢に出る場所を、また訪ねることができる。あの海であの時何を見たのか、確かめることができるかもしれない。


 声が弾みそうになるのを抑えて、颯斗はできるだけさらりと告げた。


「俺、行くよ? 交通費あっち持ちってことでしょ?」

『颯斗君。でも──』

「どうせ暇だし。墓参りもしたいし。海を眺めてゆっくり、とか良いじゃん」

『本当? 行ってくれるの?』

「良いってば。そのつもりで電話したんでしょ?」

『……前園まえぞのさんのお家は民宿やってるから、そこに泊まれるって。だから、ホテル代もほとんど要らないくらいだと思うけど……』

「じゃあ助かる。タダで旅行できるなんて最高じゃん」


 くだんの遠縁の名前は前園というらしい。世話になるであろう相手の名前を心に留めながら、颯斗はわざとらしいほど明るい声を出した。心臓が高鳴り、脈も速くなっている。頬には熱も感じている。でも、電話なら母に気付かれることはないだろう。


『じゃあ、チケット送るね? 飛行機の……。あと前園さんの電話番号も送るから。お父さんとお母さんからもご挨拶はしておくけど、颯斗君からも──』

「大丈夫。そろそろ就活なんだから。言葉遣いとか、マナーとか? ちゃんとできるって」

『そう……』

「じゃあ、準備、始めとくから。チケットよろしく」


 安堵と不安と怪訝さと。母の声にはそれらの感情が複雑に混ざり合っていた。やはり成人したばかりの息子には任せられない、などと考え始める前に、颯斗は急いで会話を打ち切った。母が頷く声もまともに聞かず、通話終了のアイコンをタッチする。スマホが熱く感じるのは、体温だけが理由ではないだろう。あまりにも都合が良い話がタイミング良く振って湧いた、その幸運──なのかどうか分からないけど──が、颯斗を高ぶらせているのだ。


「ほんと、だよな……?」


 呟いてみた声は、我ながら滑稽なほど震えていた。どうしてこれほど焦がれるような、駆り立てられるような思いさえ湧き上がるのか、颯斗自身にも訳が分からない。

 ただ──これは確かな現実だ。夢じゃない。またあの比彌島の土を踏むことができるのだ。


 カップ麺の存在を思い出した時には、中身は既に伸び切ってスープはほとんど麺に吸い取られていた。だが、その惨憺たる味と食感でさえも、颯斗の興奮を損なうことはなかった。

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