息子の背中
早稲田暴力会
一
生徒指導室の扉を開けると見慣れた後ろ姿が目に入った。康樹の背中は扉の開く音に軽く揺れたが、私の方を振り返ろうとはしなかった。呼び出された父親の存在を、毅然とした態度で拒否しようとしているように、私には見えた。私と康樹の仲が悪いという訳ではない。手のかかる子供ではあるけれど、反抗期という訳でもまたない。ただ康樹は自分の行為で父親が呼び出されたというその事実を、あくまでも突っぱねようと踏ん張っているのかもしれなかった。
康樹が小学四年生に上がってから、呼び出されたのは初めてだった。一、二年生の頃には何度かあったが、それ以降は特に問題を起こしたりしていなかったので、悪い癖も収まったのかな、とのんきにも考えていた。幼稚園に通っている頃には、ほとんど手に負えないと先生から苦言を呈される程度に友達との喧嘩を繰り返していた子供だったから、年を追うごとに頻度が減って安心していたというのは事実だった。
最後に呼び出されたのは上級生との喧嘩の件だった。昼休みに体育館で遊んでいたところ、上級生のグループと揉めごとが起こって康樹の方から手を出した。とは言っても私も先生も現場を見ておらず、康樹は一切の説明を拒否していたから相手側からの証言である。康樹は上級生の一人に膝蹴りを食らわせて転ばせ、前歯を一本折り、代わりに右目に漫画のような青痣を与えられていた。どうやら数人の上級生相手に喧嘩をふっかけ、返り討ちにあったらしかった。前歯を折られた上級生の母親は激昂し、私はひたすらに頭を下げ、治療費を全額負担する話をまとめた。どういう教育をしているのか、野蛮な子供だ、恐ろしい、という言葉が下げた頭に突き刺さった。
母親ではなく父親が呼び出しに応じたということも、相手が私を責め立てる勢いに拍車をかけていたように思える。何かしら一般的な状況から外れた部分が相手にあると、世間一般を背負ったつもりで強く批判しやすくなる。そのようなことは何度だって経験していた。おおかた片親とでも思われているのだろう、と想像はついたが、事実は違う。我が家では仕事について自由の効く私の方がそのような場合に対応することになっているだけで、妻とは離婚も死別もしていない。妻はフルタイムで出勤しており、私の方は在宅でこなせる仕事を友人に回してもらっている。妻と結婚してから程なくして会社を辞め、友人の会社から業務委託を受けて多くはない稼ぎを得ている。仕事内容はWeb上に出す求人ページの作成代行で、業種を問わず大小様々な規模の求人を手助けしている。会社の理念はこうです、仕事内容はこうです、職場の雰囲気はこうです、こういう人材を探しています、一緒に働いてみませんか? 元々作家志望で文章を書くことだけが取り柄だった私にはうってつけの仕事だった。大した稼ぎにはならないが、その収入がなくなれば家計が回らなくなる程度の意味がある仕事ではある。
世間に対して恥ずかしいことは何もない。夫婦共に働いており、私の方が余裕があるから子供の世話を受け持っている。それが我が家の形だし、誰にも口出しはされたくない。けれども、他人はいつでも好き勝手に私たちをジャッジしたがる。授業参観やPTAの会合に父親が出席すると、それだけで奇怪の目を向けられる。家庭訪問などの担任の先生とのやり取りでも、どうしても男親が対応することに対する偏見を感じることがある。今の先生は理解があって助かるけれども、次のクラス替えが憂鬱ではないと言えば嘘になる。私はただ康樹の親で、親としての務めをはたしているだけなのだけれど、子供の世話は母親がするべきだという圧力は現代において無暗に強い。
今日は康樹がガラスを割った。教室と廊下の間の窓ガラスらしい。現場は見ていない。掃除の時間に何か事件が起こったらしい。私は康樹の右側のパイプ椅子に腰を下ろした。康樹は私を見ようとしない。私は彼の頭にポンと軽く手を置いてみる。必要以上の重圧や罪悪感が彼の小さな背中の上にのしかかるのを防ぎたくて、そうする。康樹は確かに悪いことをした。ガラスを割るのは褒められたことではない。しかし、そんなことは康樹にも分かっている。悪いことをして、親が学校に呼び出された。そのことを受け止めるために、彼は今小さな身体で必死に踏みとどまっているのだ。それ以上、私まで彼を責める側に回る必要はないし、回りたくもない。そのことを伝える手段を、私は他に持っていない。
無言のまま時間が過ぎる。何か言うべきとは思う。それでも私には何も言えない。言葉が上滑りする光景が見える。父親失格なのかもしれない。けれども十歳の康樹には十歳の事情があって、その場所に三十代を終えようとしている人間が踏み込めないことを、私は知ってしまっている。大人の言葉が全て遠く、自分とは関係のない論理の中で生み出されているのだという感覚を、私も痛いほど知っている。知っているというより、忘れられなかったのかもしれない。普通の人間が忘れることで大人になるというステップを、私は踏み損ねてしまった。私はきっと、大人になり損ねてしまったのだ。中身はまるっきり子供のまま、大人の振りをして生きている。だから気持ちは康樹の側にあるのだけれど、それでもやっぱり私は康樹の父親で、年齢は四十手前で、だからもう私の言葉は捩れることなく康樹に届くことはない。
やがて担任の高木先生がやってくる。おそらく私より少し年下の、女性の教員だ。長い髪の毛をひとつに束ね、軽く垂れた目尻が人の良さを思わせる。二年ごとに担任の変わる制度だから今年で二年目の付き合いになるが、人当たりの良さそうな外見通りに穏やかな性格の先生だった。お互い困りましたね、というような顔で私に事情を説明している。すみません、と謝る私もきっと似たような顔をしている。康樹の顔は、俯いていて私からは見えない。
「本人も、悪気はなかったと思うんです」
高木先生は言う。私はそれにゆっくりと頷く。
「軽いはずみで、ということはあると思いますから。でも、やってしまったことはやってしまったことなので、本人にはきちんと反省してもらって、同じことがないようには」
そうですね、と先生は頷く。でも、誰も怪我しませんでしたので。それは良かった、本当に。
心からそう思っていた。康樹が誰かに怪我をさせなくて本当に良かった。たかがガラスが割れただけで済んだから良かったのだ。誰かに怪我をさせて、頭を下げるのが嫌だという訳ではない。こんな頭ならいくらだって下げて構わない。ただ康樹本人が、自分自身を制御しきれず誰かを傷つけたということを、一人で背負い込むことが私には耐えられない。それがどれだけ苦しいことか、私は知っている。自分の中にいる獣が、もう一人の凶暴な自分が、抑えきれずに誰かを傷つけたときの恐ろしさを、私はよく知っている。そしてもしかしたらその獣は、康樹の中にいる暴力的なもう一人の自分というものは、他でもない私から彼に受け継がれたのかもしれないと思うと、私の胸は潰れそうになる。康樹が誰かを傷つける度に、私は私の血を呪う。私自身がその獣を、血の繋がった父親から受け継いでいるから。
夜眠るとき、今でもときどき声が聞こえる。聞こえるはずのない声。過去から響いてくる幻聴。男女が言い争っている。父親と母親が言い争っている。その声は唐突に聞こえ始める。それまで眠っていたのか、それとも起きていたけれど意識していなかったのか分からない。でも聞こえ始めた瞬間から、私の記憶は始まる。私の眠る部屋から障子を一枚隔てた先で、父親と母親がほとんど怒鳴り合うように言い争っている。内容まではよく聞き取れない。少しぼやけて、それでもそこに昂った感情が乗せられていることくらいは分かる程度の強さで、男と女の声が聞こえる。幼い私は布団の中で身体を丸める。まるで別の世界から響いてくるような声が、少しでも自分の布団を侵食して来ないように、出来る限り小さく身体を折りたたむ。女性の泣き声が聞こえてくる。現実感を伴わないただの音として、それは隣の部屋から押し寄せてくる。ただ一人世界から放り出されたような気持ちで、私は眠りの訪れを待つ。起きている人間がそこにいることを両親に気取られないように、静かに息を潜めて怯える。
翌朝の日常は怖い。何事もなかったかのように、前夜の叫び声が夢だったかのように、母は朝食を作って父はテレビを観ながらそれを食べている。おはよう、と母が私に微笑みかける。その微笑みが心底怖い。私は聞いている。前夜のあの叫び声。泣きながら叫んだ母親の声。障子一枚隔てたその響きの非現実感。しかし、非現実的なのはこの朝の風景なのではないかと、私は思う。あのときの身体が現実に収まらない感覚。そういうものが私にとっての幼少期の記憶だった。
母はいつの間にか消えていた。消えては帰って来ていた母が、あるときから帰ってこなかった。私がちょうど、今の康樹くらいの年齢のときだ。またいつものように、数日後には帰ってくるものだと思っていた。でもその数日後は来なかった。私は父と二人で暮らした。大学に入って家を出るまで、二人の暮らしは続いた。
父の仕事が私にはよく分からなかった。不動産関係、と聞いた気がした。けれども具体的なことは知らなかったし、何より不規則な時間に仕事に出ている印象が強かった。派手なスーツやシャツを着て、金色の時計をはめていた父の姿を覚えている。堅気ではなかったのだろう、と今では思う。だから何も教えてはもらえなかった。父からはどこか血の匂いがしていた気がする。いつもどこかギラギラした瞳で、獲物を探していたような気がする。身体の中を血液の代わりに暴力が流れていたような気がする。そしてその血が、私の中にもまた流れている。
自覚したのは小学校低学年の頃だった。康樹がしたのと同じように、私もまた喧嘩で他人に怪我をさせた。そのときのことで覚えていることがふたつある。ひとつは相手の母親に頭を下げる母の姿。親になった私もちょうど彼女のように、相手の親に頭を下げた。もしかしたらあのことが、父と同時に幼い私も捨てていった原因になったのかもしれない。
もうひとつが、人間を殴るときの感触。それは、思ったよりも固かった。漫画やアニメのように小気味いい効果音が似合う感触なんかではなかった。ゴツン、と拳が固い肉にめり込んで、右手が痺れた。相手の頬に触れた拳だけでなく、手首、肘、二の腕の辺りまで、肉の塊を殴り飛ばした感触が伝わって来た。とても重たく、鈍い感触がそこにあった。そしてそれは、気持ちの良い感触だった。私は一瞬、何か素晴らしいものに触れたかのように昂揚した。今まで知らなかった、人を殴り飛ばすということはこんなにも気持ち良い行為なのかと。しかし、その先にあったのは酷い光景だった。殴り飛ばされた相手は地面に倒れ、顔を上げると鼻を押さえた両手から血液がしたたっていた。盛大に噴出した鼻血が彼の両手と、両頬をまだら模様に染めていた。ああ、ああ、と声にならない声を漏らしながら、彼は泣きじゃくっていた。私の腕にはまだ痺れが残っていた。腕の痺れの心地よさと、血まみれで嗚咽を漏らす人間の姿が、私の頭を交互に殴りつけるようだった。
おそらくその頃から、私は私自身の中に二人の人間がいるのだと思うようになっていった。獣の自分と、そんな自分を恐れる自分だ。獣の自分を抑えなければならない。誰にも見抜かれたりしてはいけない。そんな風に考えるようになっていった。だからいつの頃からか、自分の内部を他者から隔離するようになった。厳重に管理して、内側にあるものが他人に開かれないよう努めた。他人を遠ざけ、内なる獣を檻へと入れた。内向的に、できるだけ静かに、若者たちの賑やかさや無邪気さからは距離を取った。だからこそ、私には分かる。康樹のあの背中の怯え。一人で抱えて隠し通そうという決意。彼は自分を恐れている。誰にも、父親である私にも見透かされまいと努力している。その気持ちが痛いほど分かる。分かるからこそ、分かっているとは口にはできない。今の私にできるのは学校の呼び出しに応じることと、必要以上に本人を責めたりしないことくらいなのだ。無責任なのかもしれない。親失格なのかもしれない。それでも私にそれ以上をどうか求めないで欲しい。何よりそんな康樹の抱えた苦悩の半分は、私が彼に押し付けているものなのだ。それはきっと私の血なのだ。
家を出たのは父親が嫌いだったからだけではない。あの人から離れることが、自分の中の獣の力を削ぐために重要なのだと考えていたからだった。あの人の近くにいて、あの人の庇護下にいる限り、私の中に眠った獣があの人の血の匂いと共鳴して、日に日に力を増していくような気がしていた。私は月々に渡される食費を出来る限り切り詰めて貯蓄し、それに加えてバイトも続けた。学校の勉強も疎かにしないようにした。青春の思い出みたいなものは何もない。私にとって高校時代などあの人の下から抜け出すための準備期間に過ぎないのだと、割り切って生きていた。父親譲りの大柄で筋肉質の身体は刃物のように鋭くなり、顔からは無邪気さが立ち去り、歳不相応な落ち着きと貫禄が宿っていた。鏡で自分の顔を見るたび、そこに浮かぶ追い詰められた顔の男に怯え、生え始めた髭を剃るにも鏡から目を逸らし続けた。追い詰められた男の顔は頬がこけ、死刑を宣告されたかのように絶望的な表情でありながら、その目の奥にはギラギラとした獣じみた光が見える気がした。
青春の思い出など何もないとは言っても、本当に何もなかった訳ではなかったかもしれない。私も高校生になれば、恋のひとつくらいはした。それを恋と呼ぶのかは分からない。私から能動的に誰かを好きになったという訳ではなかった。ただある日、クラスメイトの一人から、同じクラスの女子の一人が私のことを好きらしいという噂がもたらされた。彼女は名前を水原早苗といった。別に目立つ生徒ではなかった。クラス内にいくつかあるらしい女子たちのグループの中でも派手ではなく、地味すぎもしない平均的なグループに彼女は属していた。妙な噂を聞かされるまでは取り立てて気に留めるようなこともない、そういう目立たない少女だった。それでもいざそんな話を聞かされると、度々彼女を目にするたびに意識するようにはなってしまった。いつもしっかりと結ばれた黒髪や、テニス部の活動で健康的に焼け、引き締まった肢体、少し吊り目がちな一重と不釣り合いに高い鼻。気づけばそういう一つ一つが私の意識を妙に惹きつけていた。あの頃、自分を内側に囲い込んでいた私にとって、外に向けて開かれた意識などはほとんど水原早苗に対するものだけだったように思える。授業中に彼女が指名されるたび、教室や廊下ですれ違うたび、私は彼女の存在を意識して固まった。彼女の私に向ける視線の中に、一かけらでも好意の証を見出せればと、半ば祈るようにさえなっていた。
やがて高校最後の体育祭がやって来た。私の高校の体育際には変わった風習があり、三年生の行うフォークダンスの最初のペアを、生徒が自ら決定することができた。思い思いの相手とペアを組み、手を繋いで入場するのだ。生徒たちは誰が誰と組むのだという話で色めき立ち、人気の生徒には申し込みが相次いだりもした。私はもちろん密かに期待していた。水原早苗が私のところに申し込みに来るのではないかと。自分の方からそうしようとは全く思わなかったけれど、待っていれば彼女の方からやってくるような気がしていた。
しかし、結局彼女は来なかった。私は内心で落胆しながら、そういうものだ、と割り切っていた。何せ私たちはまともに会話をする機会すらほとんど持っていなかったのだ。彼女が私に思いを寄せているなんて噂も信憑性など持ってはいない。もし本当のことだったとしても、既に他の魅力的な誰かに恋をしているのかもしれない。どこか情けない気持ちになりながら、私はフォークダンスの列に並んだ。
オクラホマミキサーの気の抜けた音楽に合わせて、私たちは踊った。体育の授業で練習させられた通りに、事務的に、定められた行程でダンスを行っては次の相手と入れ替わった。二人目、三人目と相手が変わり、これはいつ終わるのだろうと思っていたときに、次の相手が水原早苗だと気がついた。心臓が跳ねるのを感じた。私は私がそれほどに水原早苗を待ち侘びていたことに自分で驚いてさえもいた。彼女と共に踊りたかった。彼女の手を取る瞬間を待ち侘び、右手は汗ばんだ。前の相手にお辞儀をして、皆が順番を入れ替えた。水原早苗が私を見た。私も水原早苗を見た。その瞬間、私は逃れられないと思った。私は彼女の中にいた。その場を支配しているのは彼女だった。ゆっくりと私たちは場所を入れ替え、手を取った。しっとりとした細い指先が、私の手の中にあった。水原早苗が瞬きをした。少しだけ口角を持ち上げ、ぎこちない微笑みを向けて、彼女は軽く小首をかしげた。よろしく、と言われた気がした。私は思わず目を逸らしそうになりながら、それを押しとどめ、彼女の目を見てオクラホマミキサーに合わせて踊った。
夢のような時間だった。そんな幸福が私の人生に訪れるとは予想もしていなかった。水原早苗が私を誘うのではないかと考えていたとき、その先について思いを巡らせていなかったことが信じられなかった。もしそうなれば、私は誰より先に彼女と踊る栄誉にありつけたのだ。その可能性を、なぜ考えることがなかったのか。私の中で様々な感情が巡り、触れた指先は痺れ、汗ばんだ彼女の首筋が目に焼き付き、やがて私たちは曲に合わせて離れていった。無慈悲なまでに単調な音楽が私たちを引き裂いた気がした。最後に手が離れるとき、大切な何かを失うという感触があった。私はそのとき確信していた。私は水原早苗を愛している。彼女が私を愛しているのかどうかは分からない。でも、その逆は分かる。水原早苗の中には私に必要な何かがある。私が心の奥底から求めている、それでもその正体を知り損ねている何かを、彼女はきっと持っている。だから私はそれほどに彼女に惹きつけられてしまうのだ。それは天啓と呼ぶに相応しい感覚だった。私は内心で決めていた。今すぐではないかもしれない、でもいずれ、彼女に思いを告げなければならない。彼女と恋人にならなければならない。私はそのために生まれて来たのだと、本気でそう思ったのだった。
夢を見たのはその夜だった。私は水原早苗と二人で踊っていた。夜の校庭には私と彼女以外誰もおらず、踊る私たちの隣ではキャンプファイヤーが燃えていた。校庭のスピーカーからはオクラホマミキサーが流れていた。誰に見せる訳でもないフォークダンスを、私たちは二人で踊っていた。誰と交代する必要もなく、私たちは踊り続けることが出来た。
やがて彼女は私の手をしっかりと握り、行こう、とそう言った。どこに行くのかは分からなかった。しかし私は行くべきなのだと知っていた。うん、と頷いて彼女について校庭を出た。オクラホマミキサーが背後で小さくなっていった。
行き先は彼女の家だった。もちろん彼女の家なんて私は知らない。でも夢の中では知っていた。そこは彼女の家で、彼女はそこから毎日高校に通っていた。玄関の鍵は開いていて、中に入るとすぐに彼女の部屋だった。水原早苗はいつの間にか体操服を着ていなかった。彼女は何も着ていなかった。がらんとした部屋に唯一置かれたベッドの上で、私たちはキスをした。知るはずのない口づけの感触がいやにリアルに感じられた。水原早苗の細い指が私の裸の肌を這い、内腿を擦った。私は固く勃起していた。私は彼女の引き締まった身体を撫ぜ、乳房に触れた。彼女の乳房は羽毛のように柔らかく私の指を受け止めていた。
私は彼女をベッドへと押し倒した。彼女が私のペニスに触れた。私の指は彼女の陰部が既に湿っていることを確かめていた。私が彼女に入ろうとすると、彼女は身を捩ってかわした。ねえ、ちょっと、と彼女は言った。何か戸惑っているようだった。それでも私は止まらなかった。身を捩る彼女を押さえ、無理やりに足の間に身を割り込ませ、彼女の中に入ろうとした。ねえ、ちょっと、と彼女は首を振っていた。それでも私は止まらなかった。
私は彼女の中に入った。彼女の悲鳴が部屋に響いた。その悲鳴に、私の背筋はぞくりと震えた。やめて、と彼女は叫んだ。私はやめようとは思わなかった。むしろ逆の衝動が私の背中を蹴飛ばしていた。やめて、と彼女が泣きわめけば泣きわめくほど、私の勃起は恐ろしいほどに固くなった。逃れようとする水原早苗を押さえつけ、股関節を痛めるほどに両足を押し広げ、私は彼女を犯した。腰を振るたびに快楽が全身を駆け抜けた。身体の奥で熱い衝動が跳ねまわり、内側から私を犯しているようだった。獣のような唸り声が喉の奥から漏れ出て来た。それすらも心地よかった。水原早苗は両手で顔を覆い、すすり泣いた。醜く歪められた薄い唇に口づけをして、私は射精した。
目を覚ましたとき、下着は精液で汚れていた。陰部に気だるさが残っていた。私は一瞬寝ぼけた頭で何が起こったか理解できず、それからようやく夢の内容を思い出した。寒気がした。私の中の獣のおぞましさに恐怖した。そんなものを私は内側に飼っているのだ。愛した女を組み伏せ、無理やりに犯すことを至上の喜びとする獣が、私の中に巣食っているのだ。
いや、本当にそうだろうか。私は無垢な恋する十代の少年で、私の中の獣というものが悪さをしているだけなのだと、そんなムシのいい話があるのだろうか。現に私は犯したではないか。水原早苗を愛していると思いながら、愛しいと感じながら、無理やりに犯すことに快感を得ていたではないか。そのどこに境界線などがあった? どこにもう一人の自分なんてものがいた? 水原早苗を愛しいと思ったのも、乱暴に犯したいと思ったのも、どちらも同じお前自身ではなかったのか?
そうして私の恋は終わった。私は水原早苗を見るたび、自分自身の中の獣を強く感じた。私に恋などする資格はないと思った。そんな強い感情に身を任せれば、すぐさま私は本性をむき出しにする。私は暴力が好きなのだ。暴力を振るうのが気持ち良くて仕方ないのだ。そんな自分から目を逸らし続けているうちは、獣の自分を引き受けられないような子供のままでは、私に恋などすることは不可能なのだと、そう思った。
私は成長したのだろうか。獣の自分と折り合いをつけ、そうではない生き方をできるくらいには。私には分からない。ただ、妻には一度も手を上げたことなどはない。誓って一度もない。康樹にもそうだ。キーレスで開けた車の助手席に憮然として乗り込む康樹を見て、殴ろうとなんてこれっぽっちも思えない。少なくとも、今のところは……。
スマホを見ると、妻から「手が空いたら電話ください」とメッセージが入っていた。私は康樹に少し待っているように言い、車から少し離れて電話をかけた。妻はすぐに出た。
「今から康樹を乗せて帰るよ」
「ありがとうね、いつもあなたばっかりで悪いけど」
「いや、良いんだ」
「それで、詳しい話は聞けた?」
「うん、康樹は相変わらずだけど、先生から。どうやら掃除の時間に遊んでいる生徒がいて、康樹が注意したらしい。それで揉めたって」
「そんなところだろうとは思ってたわ」
彼女の口ぶりは少し安心したようでも、同時に溜息をつくようでもあった。
「正義感が強い子だから。悪気があった訳じゃない」
「でも、結果的にガラスを割ったのは康樹でしょう」
参ったな、と私は思う。彼女にはそういうところがある。厳しく、鋭く、ときに容赦ない。どちらかと言えば私は色々なことを曖昧にとどめておくようなタイプだから、彼女の糾弾に晒されることも少なくない。ときに息苦しくなることもある。けれど、彼女にそういうバッサリと切っていくところがなければ、私は仕事を辞めることも、もしかすると彼女と結婚したり、付き合ったりすることすら出来なかったのかもしれない。上手い具合に噛み合っているのだ、きっと。
「早く帰って詳しく話を聞きたいけれど、ごめんなさい、こんな日に限ってちょっと遅くなりそうなのよ。そこまで遅くはならないと思うけど……」
「分かったよ」
「今、康樹どうしてる?」
「いつもの調子だよ。黙って俯いてる。本人なりに色々考えてるんじゃないかな」
「まったく、昔のあなたみたい」
「え?」
戸惑って聞き返すと、彼女は軽く笑いながら言った。
「出会った頃のあなたにそっくりよ、あの子。何か良くないことをしたり、どうして良いか分からなかったりするとすぐ、ムスっとしてちょっと下見て。そういうの可愛いかもって思ってたけど、プロポーズのときには流石に参ったわ」
「やめてくれよ」
「ごめんなさい。それより、そろそろ戻らなきゃ。康樹のことよろしくね」
相槌を打って電話を切り、窓ガラス越しに康樹を見た。似ている、と心の中で言ってみる。そう言われて嬉しいと思う自分が、確かにいる。
行こうか、という私の言葉に、康樹は僅かに頷いたように見えた。でもはっきりは分からなかった。運転をしながら、黙り込んだ康樹をちらりと見る。反省しているようにも見える。でも、疲れ切っているようにも見える。手に負えない自分自身に、ほとほと嫌気がさしているように。
私は康樹を愛おしく思っている。この世にたった一人の私の子どもだ。康樹は優しい。妻によく似たのだろう、私が何か思い悩んだり、落ち込んだりしていると不思議と彼にもそれが分かるらしい。根っからの暴力少年なんかではない。ガキ大将のように、暴力的に振る舞っている訳ではない。温厚で、ヒーローごっこなんかよりも積み木遊びが好きな子供で、動物の名前や生態には私以上に詳しいような、そんな子供だ。けれどもときどき、何かの拍子に歯止めが効かなくなってしまうのだ。悪い子じゃない。康樹は良い子だ。
それじゃあ、と私は思う。もしも康樹がそういう衝動を内側に抱えていなかったら、友達と喧嘩をしたり、ガラスを割ったりして、その事実を無力な背中で受け止めようとしていなかったら、私はこれほどに康樹を愛していたのだろうか。妻は私に、康樹に甘すぎるといつも言う。今日だって、多分康樹は母親からこってり絞られることになるだろう。そのこと自体を止めようとは私は思わない。彼女は彼女なりに、母親の努めをしっかりと果たそうとしているのだから。だけど私は加担できない。妻が康樹を叱っているとき、どうしていいのかは自分でも分からない。でも、叱り終えた後にどうするのかは、とても簡単に想像がつく。あそこまで怒らなくても良いじゃんね、康樹も反省してるじゃんね、と、私は言うだろう。そして康樹は曖昧に笑う。いや、お母さんが正しいんだよ、と思いながら悲しく笑う。その気持ちが私には分かっている。私が分かっていることを、康樹はまだ分かっていない。多分。
子供を持つようになってから、親父のことを考えることが増えた気がする。大学進学で家を飛び出し、それから無理してなんとか自活し、一切の連絡を断った父親のことを。自分が親になってみると、親から子に向ける視線というのは想像していたものと随分違う。想像していた? いや、していなかったのだろうと思う。私にとっての父親は、ただそこにあるものだった。逃れなければならないものだった。私は全力を傾けてそこから離れる必要があった。実際、ろくでなしだったと思う。家の中で居丈高に振る舞い、理不尽に母を怒鳴りつけ、女癖が原因で諍いが起きたことも、子供ながらに分かっていた。そんな父親のことを疎ましく思い、そうはなりたくないと思い、それ以上に私は何を思っていたか。父が私に向ける視線について、その思いについて、考えたことなどなかった気がする。親だから世話してやんないと、というような彼の態度を、私は随分真に受けて生きてきたような気がする。
私が家を出て、自活して大学に行くと言ったとき、あの人はどんな反応をしただろうか。それならやってみろ、としぶしぶ認めた記憶はある。けれどもそのことに安心して、それ以上の情報はそっくり消えてしまっている。もしかすると、あの人もそれなりに寂しかったのかもしれない。妻に逃げられ、残されたたった一人の息子がそうして自分から離れていくことが。そういうことを、私はあまり考えて来なかったのかもしれない。でも親父は、そんなことなど全く考えない人だったのかもしれない。考えてみたところで何も分からない。けれども、何も分からないということに気が付けない程度には、父親から自分への気持ちというものを、私は考えて来なかった。
それで良いのかもしれない、と私は思う。私はもしかしたら、康樹にそういう態度を望んでいるのかもしれない。私がどういう気持ちで康樹を迎えに行ったのか、どういう気持ちで妻ほど厳しく叱らないのか、そんなことを康樹には考えて欲しくない。気づいて欲しくて色々と思いを巡らせている訳ではないのだ。私はただ、康樹のことを考えている。
飯、食って帰るか、と私は言う。康樹は曖昧に、でも今度はきちんと伝わる程度に頷く。ほんの数分で着く家ではなく、バイパスの方にハンドルを切る。康樹と飯食ってくる。と信号待ちで妻にメッセージを送る。不足があるな、と思って付け足す。男と男の話があるから、と。それでも彼女は不満には思うだろう。後でフォローも必要だ。だけど私には、どうしても必要な時間だと思う。
何を話せば良いのかは分かっていない。でも話しながら、それを探さなければならない。とりあえずは、康樹の好きなハンバーグを食べに行こう。ハンバーグの美味い店がバイパス沿いにあったはずだ。康樹が今でもハンバーグが好きなのかは分からない。本人の口から好きだと聞いたのは、もう何年前のことだっただろうか。五年も前ならもう康樹はそれから倍の年齢になっている。だけどとりあえず、ハンバーグを食べさせよう、と私は思う。学校に呼び出された帰りにハンバーグを食べさせる親があるか、と妻が言うのが目に浮かぶ。
息子の背中 早稲田暴力会 @wasebou
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