許されざる涙
早稲田暴力会
一
映画館に来るのは、実に三年ぶりだった。
指定していた席を見付けて腰かける。周りの席には心なしかカップルが多いようだった。どうやらこの映画は有名な監督が手掛けているもので、デートムービーとして一定の評判があるらしい。
テレビでもひっきりなしにこの映画のことが取り上げられている。その度に映画の登場人物が泣く場面と、「感動」の二文字が画面に映る。インターネットも似たようなものだった。どこの誰とも知れない人間の「この映画を観て泣いた」というレビューが、求めてもいないのに流れてくる。
「苦痛とは何か、知ってるつもりになっていないだろうか?」
俺の好きな小説の書き出しだ。読むたびにハッとさせられる。俺は本当の苦痛なんて知らない。これから俺の知らないそれを、この本が見せてくれるのだろう。俺を啓蒙し、期待を抱かせてくれる素敵な言葉だ。それに倣って言いたい。
「泣くとはどういうことか、知ってるつもりになっていないだろうか?」
「泣いてる」という奴は嘘つきだ。泣いている最中は咽んでいてそんな悠長な言葉を紡ぐ余裕なんて無いからだ。
「泣いた」という奴は嘘つきだ。あの屈辱的な体験は、なかなか人に話せるものではない。話せるようになってところで、そんな以前のじめじめした話は、人前ではしてはいけないとされている。
なのに巷には「泣いた」「泣いてる」という言葉が溢れかえっている。つまり嘘吐きが山ほどいるということなのだ。
「泣くとはどういうことか、知ってるつもりになっていないだろうか?」
つまり、本当に泣いたことのない人間が多いから、泣くということをよく知らないまま、「泣いた」「泣いてる」と嘘を吐く者が後を絶たないのだ。俺は本当の涙を知っている。だから、あいつらの言っていることが嘘だと分かる。俺は、そういう奴らに本当の涙を教えてやらなければならない。そのためには、たいそう強い痛みと屈辱を与えてやらなければならない。
つまりは暴力だ。
だが、すぐにそれを行使するほど俺は野蛮でもないし、暗愚な訳でもない。まずは自分を疑った。そう。間違っているのは俺で、本当に奴らは映画を観て泣いているのではないか? そう思ったのだった。ここに足を運んだのは他でもない。それを確かめるためだった。
三年前、同じ監督が手掛け、同じような触れ込みだった映画を見た。そして、俺は涙を一滴も流さなかった。
俺は憤った。やはり映画を観て涙するなど嘘なのだ。周りにいる客を殴り倒して、そのまま他のスクリーンまで走っていって、ポスターに「感動」と書かれているすべての映画をぶち壊してやろうかとさえ思った。しかし、俺の理性がそれを止めた。たった一度泣かなかっただけで断定してはいけない。他の映画を観れば泣くこともあるのかもしれない。それから「泣かせる」映画は幾度も放映されたが、俺は観に行かなかった。俺は元々、それほど映画に興味がある人間でもなかった。
しかし、この映画は別だった。普通に暮らしているだけでなだれ込んでくる「泣け」という同調圧力。それに耐えられなくなり、俺は映画館に足を運ばざるを得なかった。そして、これは二度目のチャンスでもあった。
本当の涙はここにあるのか、確かめるための。
ナレーションとともに、サイレンのような音が聞こえてくる。スクリーンには、カメラ頭の男とパトランプ頭の男が何やら騒がしくしていた。映画をあまり見ない俺でも知っている。これが始まったら、もうすぐ本編が始まるという合図だ。
携帯や音楽プレイヤーの電源がちゃんと切れているかもう一度確認し、俺は椅子に深く腰掛けて、これから始まる審判に備えた。
話は十数年前に遡るのだが、俺は母親に殴られてよく泣かされていた。今思えば虐待だし、証拠が残っていれば警察に突きだすこともできるのだろうが、そんなものはないし、生憎俺自身の記憶も曖昧だ。殴られた数が多すぎて、どういう理由で殴られたのかよく覚えていない。
そんな中でもよく覚えているエピソードがいくつかはある。
真っ先に思い浮かぶのは、小学生のときのバスケ教室の事件だ。
市民体育館を借りて教室が開かれていたのだが、所定の時間が終わった後も体育館で自由に練習をしてよいことになっていた。その場合、消灯や施錠は最後に出る生徒に任されていたのだった。
その日は俊、敏也、そして俺の三人が居残っていた。午後九時前になって、そろそろ親が迎えに来る頃だから着替えて外に出よう、ということになった。俺は真っ先に体育館から出て、更衣室で着替えていた。すると、体育館の方から何やら叫ぶ声が聞こえてきて、俊が更衣室に入って来た。
「おい、敏也は?」
俺は俊に聞いた。
「あ、忘れてた」
俊は表情を変えずにそう呟くと、体育館の方向へ戻っていった。
しばらくすると俊が再び更衣室に入ってきて、後からぐっちゃぐちゃの表情で目を腫らした敏也がついて来た。
「ひどいよ、俺がいるのに電気消すなよ……」
どうやら敏也がまだいることに気付かずに俊が消灯し、敏也が暗闇の中に取り残されてしまったようだった。
「災難だったな。俊もひどいことをするよな」
このときの俺は敏也の気持ちを想像できずに、適当に紋切り型の慰めの言葉を敏也に投げかけていた。この後敏也と同じ苦しみを味わうことになるとも知らずに。
当の俊はと言うと、悪びれる様子もなくてきぱきと着替えていた。
三人とも着替え終わって外に出ると、それぞれの母親が迎えに来ていた。敏也の母親は彼の異変にいち早く気付き、敏也はことの次第を母親に話した。
「誰がそんなことしたの?」
敏也の母親は問うた。至極真っ当な疑問だと思った。そして俺は漠然と、敏也と自分の母親両方にお叱りを食らって俊が落ち込む未来を想像していた。そのとき、俊がこう言った。
「僕は先に更衣室にいたんだけど、清一が電気を消したんだよ」
あまりの咄嗟のことで何も行動がとれなかった。俺がそんなことをしていないことは俺の中では自明のことで、それと真逆のことがいとも簡単に俊の口から発せられたことに驚愕していた。そしてそうやって空白を思考している時間はそう長くなかった。
髪の毛を鷲掴みにされ、首の骨が折れんばかりの勢いで頭を押し下げられた。
「清一、アンタ! なんてことやってんの、このバカタレ!」
俺の母親が声を荒げているのが聞こえたが、痛みでその問いに答える余裕はなく、俺はただ「痛い! 痛い!」と叫ぶだけだった。急に頭を動かされた勢いで俺は姿勢を崩し、転倒した。
「すみません、うちの子が……家に帰ったらこんなことは二度としない様によく言って聞かせますので……」
地に打ち捨てられた俺の上で、母親が頭を下げているようだった。
「いえ。あの。そこまでしなくても」
当時はそういう言葉は無かったと思うが、今思えば敏也の母親はドン引きしていたのだろう。
「こら! いつまで寝てんの。大袈裟な! さっさと行くぞ!」
母親は俺の腕を乱暴に引っ張ると車に押し込んだ。このあたりのことはよく覚えていないのだが、無言で母親が運転する車中は、処刑を待つ囚人のような心地でいたように記憶している。母親は俺の習い事の送り迎えの際に車中でよくユーミンとやらの曲を流していたのだが、その日の帰りはMDプレイヤーに何も差すことはなく、静寂を保ったまま時間が流れていた。
家に着くと母親による尋問が始まった。何故あんなことをしたのか。自分がどういうことをしたのか分かっているか。敏也に申し訳ないと思わないのか。その尽くに俺はこう返した。
「俺はやってない」
そして母親は最後に俺にこう問うてきた。
「アンタ、なんでそんな嘘吐くの」
俺は答えなかった。答える必要はないと感じたし、答える余裕がなかった。俺が敏也に何の迷惑をかけていないことも、嘘を吐いていないことも自明のことであったし、それを何故母親が頑なに否定してくるのか理解に苦しんでいた。
母親は溜め息を吐くとこう言った。
「お母さんは嘘吐きが一番嫌いです」
そして俺の腕を掴み、俺を引きずった。俺はもちろん抵抗したが、母親は柔道の有段者でべらぼうに力が強く、そんな人間に小学生が敵うはずもなかった。母親が階段を上ると、段差の一つ一つが頭に当たって俺は悲鳴を上げた。その先に辿り着いたのは、この家で唯一の、外から鍵のかかる部屋だった。
「嘘吐きは一生ここに居なさい」
親は俺を部屋の中に放り投げ、戸を閉めた。
途端に、暗闇に包まれて何も見えなくなった。
これまで体験していた暗闇は、目を閉じることによって訪れるものだった。しかしこの、真の暗闇は目を開けていようが閉じていようが常に俺の前にあった。次第に俺は、自分が目を開けているのか閉じているのか分からなくなってきた。それだけじゃない。自分が手足をどのように動かしているのか、自分の輪郭、自己と外部の境目がどのようであったかまで思い出せなくなり、そしてとうとう自分という存在が本当にあるのかさえ曖昧になってきた。
狂気という言葉を知らなかった俺だが、そのとき上がって来たのは確実に狂気だった。
この部屋は父親の部屋で、部屋のおおざっぱな構造は外から見て分かっていた。手探りで窓のあるところまで辿り着き、鍵に手を掛けた。しかし、いくら手を尽くしても鍵は開かなかった。後から知ったのだが、この家の鍵は子供が簡単に開けられないように二段ロックになっており、それに気付かない俺が開けられるはずもなかった。
だというのに、俺は別のことに気が付いた。この部屋の中は余りにも暗すぎる。普通なら月明かりとか、街灯の光とか、そういったもので照らされてもう少し部屋の中は明るくなっているはずだった。そうなっていないということは、雨戸が閉まっているということだった。そして俺は雨戸の開け方を知らなかった。
詰んでいた。俺はこの部屋から出られない。
「一生ここに居なさい」
母親の言葉を思い出した。「一生」なんて、普通は実現しないことだ。しかし母親はこうも言った。
「嘘つきが一番嫌いです」
この言葉が正しければ、母親は嘘を吐かないということだ。つまり俺は一生この暗闇の中で、自分の存在も確信できないまま過ごさなければならないことになる!
「出して、お母さん! ここから出して!」
俺は吠えた。そして泣いていた。本当に正しいことさえ嘘と断じてくる得体の知れない人間に生殺与奪を握られることは恐ろしかったが、それ以上にこの暗闇と迫り来る狂気に俺は恐怖していた。叫ぶ声はやがて言葉を紡がなくなり、嗚咽だけが暗闇に響いた。
こうして俺は、決して嘘を吐いてはいけないと身を以て知った。
何が嘘かなんて、ちっとも分からないけれど。
俺は昔から注意が散漫で、子供の頃はよく食べ物を床にこぼしていた。
その度に母親に怒鳴られ、殴られていた。そしてその都度痛みに泣いていた。
毎日の夕食のバックグラウンドミュージックは、バラエティ番組ではなく俺の泣き声だった。うちでは食事中にテレビを見ることは厳禁だったからだ。
ある日、いつものように俺が泣いていると、母親がこう言った。
「うるさい。男なら泣くな!」
うるさいという本人が一番うるさかった。耳をつんざくような高く大きい声だった。その声とともに拳が飛んできて、俺の頭に衝撃が走った。
嵩増しされた痛みに俺は更に涙を流した。
あまりに涙が出てくるものだから、喉が苦しくなってくる。自分でも気付かないうちに、俺はえずいていた。すると、また母親が金切り声を上げた。
「オエッって……あんた、そんなに私のごはんが不味いって言いたいわけ! そこまでしなくて良いじゃない!」
今度は腹に蹴りが飛んできた。あまりの苦痛にとうとう涙と咳が止まらなくなった。
過呼吸による貧血と二カ所から来る甚大な痛みの中、俺はぼんやりと考えていた。
泣き続ければ追撃が来ることは分かり切っていたのだ。止められるものならば、流れる涙を止めていた。しかしそうはいかない。涙もえずきも、意志とは関係ないものなのだ。意図して泣くことはできないし、泣くのを止めることもできない。ただ、気付いたら泣いているだけだ。
そして母親が言うに、泣くことは悪いことらしかった。悪いことをすると殴られる。だから俺は、決して泣かないようにしようと、いつしか心に決めていた。それが不可能なことであると、強く実感していたとしても。
いつだったか。道を歩いていると、一人の男がキックボードでこちらに走ってきた。ちょうど彼の進行方向に俺がおり、俺か彼かのどちらかが避ける必要があった。俺は右に避けた。すると、男も同じ方向に動いた。互いを避けようとして、たまたま同じ方向に動いてしまったのだった。俺は男がそのまま進むだろうと考えて、俺は左に歩いた。そうすると、再び男も同じ方向に動いた。その後、さらにそれをもうワンセット繰り返してしまった。どうすれば良いのか分からず立ち往生していると、横にいた母親に腕を強く引っ張られた。そして、男は走り去っていった。
「あんた、わざとあの人の行く手を塞いだでしょ」
母親が険しい顔でそう言った。
俺が首を横に振ったが、母親は俺を殴った。俺は大声を上げて泣いた。道ゆく人が俺たちを見ていた。見ていたが、それだけだった。誰も俺を助けてはくれなかった。
そのとき、俺は腹を括った。誰も助けてくれないなら自分で自分を助けるしかなかった。涙に濡れた目で母親を睨み付け、母親の腹に拳を叩きつける。
しかし、その拳が母親に届くことはなかった。俺の小さな拳は五十キロの握力を持つ母親の拳に受け止められ、軋んでいた。
「調子に乗るなよ、子供のくせに」
頭に激痛が走り、視界が揺らいだ。俺はまた母親に殴られ、尻餅をついた。
母親はいつも、俺が何を言おうと信じなかった。俺のことを殴りたいと思ったら殴り、そこに真実や善悪は関係なかった。抵抗することは許されなかった。俺が殴り返そうとしたもの、後にも先にもこの一回だけだった。
俺は自分のために、母親の言うことを厳粛に守らなければならない。飼育員に逆らわぬ象のように。教義を頑なに守る信徒にように。だから人は決して嘘は吐いてはいけないし、人前で涙を流してもいけないのだ。それは罰せられるべき罪だから。
映画は佳境に入っていた。登場人物が無意識に涙を流し、それに気が付くというシーンだった。もしかしたら、登場人物に共感させて観客を泣かせることを狙ったシーンかもしれなかった。
しかし、館内には誰も泣いている人間はいなかった。周りの状況を確認するまでもなくそれが分かったのは、映画を観るのに支障がない程度には観客が静かだったからだ。泣いていれば自然とそれ相応の音が出るはずだ。それは自分の意志ではどうにもならないものだ。そもそも泣くという行為は、例えば親に殴られるといったような、強い痛みや屈辱によるものだ。それがこういった映画によって引き起こされるということは、やはり信じがたいことだった。もし苦痛や屈辱が無いのに涙が流れるとすれば、それは「泣く」とは言わないはずなのだ。例えばあくびをしたときに涙を流すことを泣くとは言わないように。
到底許せないことだがやはり、「映画を観て泣いた」と嘘を吐いている輩がいるだろう。映画に限った話ではなく、巷には嘘泣きが溢れているのだ。このような考えになったのは、おそらく俺が中学生の頃だ。
中学の頃も俺はバスケをしていて、夏休みは毎日部活に勤しんでいた。しかしそのせいもあってか、夏休みの宿題を終わらせるのに大変苦労した。特に数学は大の苦手で、問題集は一通り解いてあったものの、間違った問題のやり直しまではできていなかった。それでもそのまま提出すればよかったのだが、そのときの俺はどうしたことか、やり直しまでやってから提出しないといけないという強迫観念にとりつかれていた。
俺は図書室で、宿題を完成させるために模範解答を写していた。提出期限は今日の四限目で、既に遅れてはいたのだが、午後の五時までには模範解答を写しきって提出できるはずだった。
しかし運悪くその日、数学の教師が図書館に来ていたのだった。
「おい、お前何やってんだ」
突如後ろから首を掴まれ、俺は驚いて返答ができなかった。そもそも返答しても無駄だとどこかで思っていた。今の「何やってんだ」は本当に何をしているのか問うているのではなく、人を咎めるときの決まり文句だ。俺が何をしていたのか、数学教師は分かっているはずだった。
「お前それ、全部もっかい自分で解いて提出しろ」
「はい。すみません……」
後から知ったのだが、このとき数学教師は俺が全く宿題をやっていない状態から解答を写していたのだと勘違いしていたらしい。そして当然のことながら、本来は問題集の内容を一度解いて提出すれば良いだけなのだ。したがって、このとき俺の取るべき行動は「俺は一度自分の力で問題を解いているのだ」と弁明することだった。しかしそのときの俺にはそんな発想はなく、ただ「見つかってしまった自分が悪い」と内省するだけだった。
「分かってるんだろうな。提出するまで部活になんて出るんじゃないぞ」
俺は悲鳴を上げそうになった。
夏休みの間膨大な時間を費やしてやっと処理できるような分量だった。それを学校に通いながら、部活を休んでも支障が出ない程度の期間で終わらせるのは不可能な話だった。最低でも一ヶ月はかかるだろう。
バスケ部ではちょうど夏休みの間に上の代が引退し、次のスタメンは誰になるか、普段の練習を見ながら顧問が吟味する時期だった。その時期に一ヶ月も部活を休むのは致命的だった。俺は小学生の頃からスタメンになったことがなく、練習試合にたまに出してもらえる程度だった。部活には俺より上手い奴がたくさんいる。それでも俺は努力を積み重ねて、なんとかスタメン候補に入る程度にはなっていた。ここでその機会を逃したら、これまでの努力がオジャンだ。そして鈍くさい俺には、これを逃せば次の機会は回ってこないだろう。
「それだけは勘弁してください」
頭を下げた。俺の目からは涙が滴り、次第に呼吸が苦しくなってきたので鼻をすすった。静かな図書館に、鼻水としゃっくりの音が響き渡っていた。これほど恥ずかしいことはなかった。しかしこの数学教師はバスケ部の顧問でもあり、その顧問から「部活に出るな」と言われた以上は、ここでどうしても撤回してもらわねばならなかった。しばらくして、数学教師がこう言った。
「お前さ、泣けば許されると思ってるの?」
そう言われた途端、胃の辺りが急激に冷えた。その感覚は段々と腸の方へと下りていった。様々な感情が俺の中で渦巻き、思考を攫っていった。
「ええ、そんな……そんなつもりは」
俺の言葉としゃっくりが重なった。
「ああ、ああ。わざとらしい。俺嫌いなんだよな、そういうの。とにかくそういうことだから。分かったな」
そう言うと、教師は図書館から立ち去った。
俺はしばらく茫然としていた。起こったことや、言われたことに対する理解が追い付いていなかった。
一体誰が、許されると思ってわざと泣くんだろうか!
そもそもそんなこと不可能だ。泣こうと思って泣くことはできない。そして湧き上がってくる涙を止めようとしても、泣いている自分を自覚して余計に惨めになって、また泣いてしまうだけだ。今俺がこうして、泣き止むことができないように。
なぜそんな簡単なことを、あの教師は理解していないのだろうか。ドラマか何かの見過ぎで、定型句を俺にぶつけただけなのだろうか。いくら考えても答えは出なかった。
俺は結局スタメンにはなれず、当然ながら高校でもそういった機会は訪れなかった。おかけで生まれてこの方、誰かに選ばれるという体験をしたことが一度もない。
教師にかけられた言葉の謎が解けたのは、少し後になってからだった。
中学の頃、敏也の家に遊びに行く機会があった。リビングで据え置きのゲーム機をしていると、敏也の母親が帰ってきた。
「ただいま。……あんたまたゲームしてるの。一応ここで勉強するって名目で清一くん呼んだんだから、少しは勉強したら?」
「うっせえな、ババア! 後でするから良いんだよ」
敏也の言葉を聞き、俺の心臓が縮こまった。それは絶対に言ってはいけない言葉だ! 今に敏也の母親が怒りに目を見開き敏也を害そうと駆け寄ってくるだろう。この様子を見るに反抗期真っ盛りの敏也も黙ってやられてはいないはずだ。すぐに殴り合いが始まるに違いなかった。俺はその光景を思い浮かべて目を瞑った。
「ああ、もう。はいはい」
しかし、俺の想像していたことは起こらなかった。敏也の母親は特に表情も変えずに台所に入っていった。
我が家でも客人が来ていたときに俺が口を滑らせて、母親がそれを気にもとめない風を装うということは今まで何回かあった。だがその後は決まって暴力の嵐が降り注いだ。時間をあけた分、より激しくなっている節さえあった。
だが敏也の母親からは、そのように平静を装っている雰囲気は一切感じ取らなかった。いつものことだからと、敏也の暴言を自然体で受け入れているようだった。
「敏也、敏也」
俺は声を潜め、彼の袖を引きながら言った。
「お前、あんなこと言ってこの後大丈夫なのかよ。殴られたり蹴られたりしないのか」
敏也の母親の態度を見てなお、どこかでそれを信じられなかった。
「え、誰が?」
「いや、だから母親がだよ。お前のことをぶったりさ」
「何言ってんの? 母親が子供のことをぶつわけないじゃん」
脳の中で血流が澱んでいた。体が左斜めに回転し、落下していく感覚があった。目の前の景色が俺の目に入っている。けれど俺はそれらを見ていない。モザイクのかかったスクリーンのようだった。
しばらくして、俺は心の中で敏也の言葉を反芻した。敏也の胸倉を掴んで立ち上がった。敏也も釣られて立たされる形になった。
「何するんだよ」
「おい、嘘を吐くなよ」
「は? いつ俺が嘘を吐いたよ」
「母親って生き物が、子供を殴らない訳ないだろうが!」
そう言って俺は、敏也の頬を殴りつけた。大きな音と共に敏也はゲーム機の上に倒れ込んだ。そこに馬乗りになって、俺は顔に打撃を入れ続ける。
「お前なぁ! 嘘を吐くのはいけないことなんだよ。学校で習わなかったか? お前、俺と小学校同じだったろ。知ってるはずだよな! おい、答えろよ。どうしてそんな嘘吐いたんだよ!」
そう言い終わるや否や、金属音と共に後頭部に激痛が発生した。振り返ると、敏也の母親がフライパンを持って立っていた。
「あんた、うちの子に何してるのよ!」
俺は返答するための言葉を持ち合わせていなかった。何をしているのか、と問われれば……俺は、何をしていたのだろう? 当然のことなのだ、俺がしていたことは。嘘を吐いた奴は悪い奴だ。だから敏也は殴られて然るべきだ。しかし、俺は敏也の母親に殴られた。俺と一緒になって敏也を殴るのではなくて。理解できないことだった。
敏也の母親に殴られた俺は、痛みによって涙を流していた。でも、敏也も同様に泣いていた。俺が泣かせた。俺は母親と同じことをしていたのかもしれなかった。
「敏也が言ったことは嘘でもホラでもありません。アタシは誓って、この子のことを殴ったことはない。アンタの家庭がどうかは知らないけど、そっちの事情を押し付けないで。今すぐ出ていって」
呆気に取られつつも、俺は言われた通りに敏也の家を後にした。
あの様子を見るに、本当に敏也の母親は彼を殴ったりしないのだろう。
もしや他の家庭でも、母親に殴られることなく、すなわち泣くことなく子供が育つことがあるのだろうか? そうなると、泣くことを知らないまま育つ人もいることになる。
そこまで考えて、少し前に投げかけられた言葉が頭の中に浮かんできた。
「泣けば許されると思ってるの?」
これだ! まるで天啓が降りてきたようだった。きっと世の中には、苦痛にも屈辱にもまみれることなく、泣くということがどういうことかを知らない人間がごまんと居るのだ。そしてそういう人間が、許されたいときに涙を流す。あくびをするのでも目薬をさすのでも何でも良い。とにかく泣くことなく涙を流すのだ。そしてそれを見た人間も泣いたことがないから、信じてしまうのだ。許しを請うときに、人は泣くができるのだと。
ならばこの世の中、嘘吐きだらけなのだ。嘘は絶対に吐いてはいけないものなのに。そして俺はそういった嘘吐きどものせいであんな酷い言葉をかけられたのだ。
絶対に許すわけにはいかない。
泣いて許しを請うても許さない。なぜなら、その涙は偽りなのだから。
映画が終わった。傑作だった。この出来ならば力を入れて広告するもの納得がいくし、大ヒットして当然だろう。
だが泣くような映画ではなかった。映画の中にあった美麗な風景も、ドラマティックな展開も、俺の涙を誘うものではなかった。だがそれはあくまで俺の話だ。他の人にとっては、この映画は真の涙を催すものなのかもしれなかった。
俺は耳を澄ました。余韻に浸っているのか、退場していく人々は意外にも一言も発さなかった。いくつもの足音の中に、鼻をすする音やえずく声は交じっていなかった。
俺は出口へと歩いていく人々を眺めていた。そうしているうちに、部屋の中には、俺と一組のカップルだけとなった。もうこの映画館に用はなかった。世間には嘘吐きだらけだと証明された。俺はこれから「泣いてる」「泣いた」なんて言う奴らに本物の涙を教えなければならない。そう思うと自分でも驚くほど冷静になっていた。一人でも多くの人間に苦痛と屈辱を与えなければならない。そのためには計画が必要だ。
俺が劇場から出ようとすると、残っていたカップルも同じく出るところだった。
前を歩くカップルの男が言う。
「いやー、この映画マジ泣けたわー」
女の方が「えー、嘘ー」と笑いながら返す。そう。こいつの言っていることは嘘だ。俺は全身が一気に強張るのを感じた。そして思考する間もなく、衝動のままに男の背中を蹴り飛ばしてしまっていた。男が頭から地面に倒れ伏し、女が悲鳴を上げる。
次の瞬間俺の脳裡に浮かんだのは、幼い頃の光景だった。母親に拳を振りかざし、そして受け止められ、反撃されたときの。
自分のやったことに気が付き、恐怖が首をもたげた。このままでは男に仕返しをされてしまう。それはご免だった。幸いにして、男は頭を打った直後で怯んでいるようだった。
「一体何を……」
男が言い終わらないうちに、俺は彼に跨る。そして顔面を殴った。まだだ。まだ彼は気を失っていない。殴り返される可能性がある。俺は続け様に何発も拳を入れた。何発も何発も。すると、男の目に涙が浮かび始めた。それを見て、次第に興奮してくる。
「思い知ったか! これが本当に泣くってことだ。この大嘘吐きめ! これから絶対に嘘を吐くな。人は敬虔に生きなきゃいけないんだよ!」
そう叫ぶ俺の声は震えていた。一度大声を出したおかげか、少し落ち着いてくる。男の様子を確認する。彼は鼻血と鼻水と涙にまみれて歪んだ顔を晒していた。その目から戦意はとっくに消え失せていた。もう俺が怯える必要はどこにもなかった。
そう思ったとき、誰かが啜り泣く音が聞こえた。カップルの女の方だった。
不思議なことだ。殴られているのは男の方だ。だから彼女は苦痛も屈辱も感じていないはずだ。しかし俺には分かった。あいつが流しているのは本物の涙だった。つまり俺に許しを請うて涙を流しているのでもない。
俺は何か、重大な間違いを犯しているのかもしれなかった。
「あっちです! あっちで人が殴られていて……」
その声とともに、二人の警官が走ってきた。いつ間にか他の奴に見られていて、通報されたらしかった。
警官が俺の両腕をそれぞれ抱え込んだ。俺は抵抗しなかった。警官が歩くのに合わせて、俺も足を進める。
真実も善悪も、未だ遠いところにあると悟った。
許されざる涙 早稲田暴力会 @wasebou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます