笑えなかった私と笑ってばかりの先生

三日月紫乙

先生の笑顔について

 私は明日、卒業する。

 大学進学も決めて、数少ない友人たちとも卒業旅行へ行くことが決まって。

高校生活自体が、ついさっき終わってしまった。

 すっきりしているはずなのに、なぜだろう。

もやもやとした灰色の感情が胸の辺りに広がっていた。

 だから私は、本当なら真っ直ぐに帰らないと気が済まない帰り道に、寄り道をした。高校生活最初で最後の、ひとりぼっちの寄り道。高校から離れた場所にある、家からも決して近くない、河川敷までの、小さな旅だった。


 大きくて、広くて、人がたくさんいるような、河川敷。

 普段はこういうところに来るのも、通り過ぎることだって苦手だった。でも今日は、我慢してでも見たいものがあった。

 腕に付けた時計は、午後四時。時計を握りしめてしばらく歩き、顔を上げる。瞬間、ため息が漏れた。

 綺麗。

 美しいグラデーションを作り出す大空。もう夜が始まろうとしているところから、段々と明るくなって、まだ沈みたくない、眠りたくないとでも言うようにとどまり続ける太陽。オレンジと一言で区切りたくない、深い色。

 私の大好きな世界がそこにあった。

 写真には残せない。本音を言えば残したいけれど、この瞬間、この空気と色は、ちっぽけな写真の中に納まりきらないから、だめだ。

 すうっと空気を吸い込んだ。ゆっくりと五感を研ぎ澄ませる。

 野球をする者たちの掛け声。子供たちの走り回る足音。風の頼りない温もり。どこからか流れてきた、美味しそうな焼き魚のにおい。

 くう、小さくお腹が鳴った。つい、クスっと笑う。

 都会でも、やはりここは――。

「――あれ? 日永さん」

 ハッと目を見開いた。

 浸っていたかった気分はどこかへ飛び去り、次第にドロドロと何かが自分の中から競り上がってくる感覚を覚えた。

 しかし案外自分は人がいいらしい。その声を無視できず、視線を移した。

ぼさぼさの髪。謎の白衣の下に、灰色のパーカー。しわが無いだけましな黒のスラックス。

 案の定、杜多冬樹先生がいた。

「日永さんじゃあないかい? ……ああ、やっぱりそうだねえ。こんにちはあ。今の時間じゃ、こんばんはかなあ」

 気の抜けた声に、神経を逆撫でするような挨拶。

 ぎりっと唇を噛んだ。ピリッとした痛みが現実を突きつけてくる。

「……どうも」

 不愛想に返しながら、バッグの持ち手を肩にかけ直す。

先生は私のほうへとゆっくり近づいて、一メートル歩かないかの距離で止まった。

「寄り道かい?」

「まあ、はい」

「そっかあ。僕もね、気分転換に寄り道してるところなんだよ~。奇遇だねえ」

 彼が言うのだから、本当に奇遇なのかもしれない。

そう思ってしまいがちな自分が、嫌いだ。

 とはいえ、この先生は嘘を吐くことがあまりない。ほとんど素のまま、分け隔てなく接する姿は、まあ、悪くはないと思う。

 先生の目が空を仰いだ。目を細めて、いいねえ、と呟く。

「ああ、あのさあ。もしよかったら、このあと少しだけ、付き合ってくれないかい?」

「……はい?」

 付き合えって、どこに。

 素っ頓狂な声を上げて首をかしげる私に、先生はくへらり、と笑う。

「ちょっとだけ、僕のお話聞いてほしいんだよ。そこに座っていてくれるだけでいい。なんなら、相槌だっていらないよ。

……もちろん、嫌ならいいんだけどさあ」

 断る、と即答したかった。嫌いな先生の話など、聞くだけ無駄だ。

――そう思っていたのに。

 ふっと空を一度、仰ぎ睨んだ。最悪だ。まったく。

 目線の先にあるその空は、まるで同じように睨んできた。今日くらい、いいんじゃないと、背中を押すように。

 だからこれは、やけくそと、特別な日が生んだ、小さな気の迷いだ。

「…………日が暮れるまでなら」

 気づけば口が勝手に動いていた。

 私の葛藤を知らない先生は、驚いたように目を見開いた。だがすぐに「優しいね、日永さん。ありがとう」とまた、笑った。


「さて、と。せっかくだから、何か面白い話をしたいよねえ」

 下にはサッカーのコートがあった。練習試合でもしているのだろう。学生たちがボールを追いかけるたびに影が揺らぎ、風が立って草が舞った。

それらを横目に頷く。

「時間は有限ですからね」

 先生は楽しそうに笑いながら「うん、うん。その通りだ。さすが日永さん」と言った。

 それに若干、苛立ちが芽生える。

「いちいち名前呼ぶの、やめてくれませんか」

「いいじゃないか。これから先、呼ぶ機会なんて、なくなってしまうんだから」

 ボールが飛んでくる。が、坂になっているここでは、先生の足元に届いたボールも、再び試合途中の彼らの方へと転がっていく。

「……そろそろ、本題に入ってくれませんか」

 じらしているわけではないだろう。だが、そう思ってしまう程度には、先生と私の時間がずれている。

 先生は少し息を吐いて、「ああ、うん。ごめんね。まとまらなくてさあ。うーん。そうだなあ。ねえ、日永さん。日永さんが聞きたい話、ない?」と聞き返してきた。

「私が、先生に、ですか?」

「そう、僕自身のことでも、過去のことでも、恋愛でも。先生たちとの関係とかでもいい。もう生徒と先生じゃなくなるからさ。僕が話せることなら、なんでもいいよ」

 なんでも、と言われた言葉の裏に、何かが揺らぐ。

「……言質、取りましたからね?」

 確認するように言えば、先生は口角を上げて、「おお? 何か聞きたいこと、あるんだ」と言った。その顔はオレンジ色に染まっていて、タイムリミットを告げている。

 夕日色に染まっていても、その変わらない、笑み。

「……先生の、笑顔について」

 ボソッと、つぶやいた。聞こえなかったらなかったことにしよう。そう思っていたのに。そういう時に限って先生は耳がいいのだ。

「ふむ、笑顔、ねえ」

 視線を前に向け、ふーむ、と唸る。答えあぐねているのか。

 催促するように私は言った。

「なんでいつも、へらへら笑ってるんですか」

「うわあ、キツイ質問だなあ。それ、尋問ってやつじゃあない?」

 先生が大げさに体を仰け反らせながら後頭部をかく。困ったようなしぐさをしているが、顔は変わらず笑っている。

「言質取りましたし。無礼講みたいなこと、言ったじゃないですか」

 言い返せば、彼は、ああ確かに、と納得した。続けて間延びした声が風に吹かれる。

「……うん。じゃあ、それについて話そうかあ」


「僕ね、もともと笑えない人間だったんだよ」

 いきなりの発言に、はあ? と口から言葉が飛び出た。が、慌てて口を抑え「……想像できませんよ」と言い直す。

 先生は気にした様子もなく続ける。

「そりゃあ、もうずいぶん前のことだしねえ。知ってる人も少ないさ。でも間違いなく僕は、笑えない人間だった。そうだなあ、四年前くらいまで」

 ピクッと口元がひきつる感覚がした。

「四年前……?」

「うん、覚えてる限り四年前。ちょうど教師になった直後だったなあ。なりたくてなったわけじゃないけど、他にやりたいこともなくってさあ。僕、無気力だったし、冴えないし。

 ああ、でも。その時はここじゃない。別の高校にいたんだ。

 ……僕はね、超が付くほど不真面目教師でさあ。今よりもずっと、ひどかったんだよ。不良寄りというか、根暗っていうか。

まあ、先生らしくないってだけで、割と人気はあったんだけどね。

 授業くらいちゃんとやっていればいいだろうってさ、諦めて生きてたんだ。毎日。

 だけどある日ね、一人の生徒が僕を呼び止めた。

『先生って、なんで笑わないんですか』」

 笑わない、先生。

「ずいぶん生意気な生徒だって、最初は思ったな。生徒会だからってせいもあったけど、真面目で努力家。自信家。その点は日永さんと少し、似ていたなあ。キツイ口調とか、とげとげしい雰囲気もあったから。

 違うといえば、その子はよく笑っているような生徒だった、ってくらいか。……顔も似ているしね」

 その言葉に、ドクン、と心臓が跳ねた。ひっくり返るような、嫌な跳ね方だ。

 先生は続ける。

「今更だけどねえ。その子、ほんと、すごくかっこよかったんだよ。まるでさあ、革命を起こしそうな空気を持つ生徒だった。ジャンヌダルクみたいな。もっと女性寄りにするなら、クレオパトラとか。

 そうそう、妙に惹かれるような魅力を持ち合わせていた。よく覚えているよ。他のね、教師たちですら、彼女に一目置いていたんだから」

 震える手を隠すようにぎゅっと握りしめて、私は口を開いた。「……その人、名前は?」と、判決が下される、死刑囚の気持ちは、きっとこんなものかもしれない。

 あるいは、逆の立場か。

 先生は、言ってなかったか、とちょっと苦笑してにっこりと笑いながら言った。

「――冠城。冠城愛理っていう名前だったよ。今思えばすごい名前だよなあ」

 何気ない感想に、私は一つ頷くこともできないまま、ただ彼を見つめた。

 先生は、気づかず続ける。

「僕、教師だけど、彼女のことが好きだったよ。間違いなくねえ。

 彼女、何かと突っかかってきたんだけどさあ。なんだかんだ優しくて。気遣いできるいい子だった。彼女が、僕の世界を美しいものに変えてくれた」

 でも、と言いかけたところで、ピー、と笛の音が響いた。遅れて先生の目の前にボールが飛んでくる。隣で見ても、すでに輪郭がぼやけていた。

 先生がつかんだボールを見つめて言った。

「――そうだ。そうそう。あの日も、こんな綺麗な空を見たんだ」

「……先生?」

「ずいぶん遅くまで教室に残っているあの子を見かけた。最初は勉強熱心だな、って一度引き返して。でもしばらくして、声をかけに行ったんだ。そしたら――」

「先生!」

 気づけば叫んでいた。

 道行く人が一瞬こちらを振り返る。その遠慮のない視線にグッと心臓が掴まれるような心地になっても、私は見なかった。

「……彼女がいなくなったあの日から、僕は……」

 笑みを消した先生は、まるで別人のようだった。揺らぐ瞳は私を見ていない。

 とっくに手放したボールの影を見るように、彼は手元に視線を落としていた。先生らしくない姿に焦りが芽生える。

 だけど、かけるべき言葉が思い浮かばなかった。

「愛理は、ここにはいませんよ」

 ようやく絞り出すも、安っぽい。

 だが、先生も少しは冷静になっていたのかもしれない。

「……わかってるよ~」

 呟いた声に力が入っていなかった。

 しばしの沈黙。

 気づけばもう、日は暮れかけだ。あんなにも走り回っていた学生たちは、影もない。

「ねえ、日永さん」

 再び先生が呟いた。いつも見たく間延びした声じゃない。私はただ、先生に目をやる。

 先生はすうっと視線をこちらに向けた。

「笑ってくれは、しないかい?」

 すがるように言った。

 私は何も言えず、先生を見返したまま固まる。先生は一泊おいて続けた。

「知ってるんだ。君が、彼女の妹だっていうのはさ。

 彼女がね、聞いてもないのに自慢してきたことがあったから。

 ……確か、ある小説の準大賞に選ばれたんだっけ。まだ幼いのにすごいねって言ったんだ。

 彼女は自慢げにさ、『でしょ?』ってあんまり可愛く笑ってたんだ。

 僕だけに見せてくれた、優しい笑顔だった」

 言うつもりなんてなかったんだけど。

 付け加えるように言って、へらり、と笑った。

「だからって、なんで私に笑えって言うんですか」

 そんなの、拷問だ。

 先生だってわかっているはずなのに。

「……もう一度、もう一度だけ。僕に、笑いかけてほしいんだよ。彼女に」

 普通の、仮面みたいな笑顔じゃなくて。屈託のない、心の底からの笑みが見たい。

 ぎりっと唇を噛んだ。鉄の味がにじむ。

 先生を照らす光が、もう風前の灯火になっていた。

「……時間切れです」

 隣に置いていたバッグを肩にかけ直して立ち上がる。

ふわり、とスカートが揺れて、草が舞う。

「日は暮れましたので、私は帰ります。では」

「は~い。話聞いてくれて、ありがとねえ。気を付けて」

 先生はただ、笑って私を見上げてそう言った。

 私は、先生からも、大好きな世界からも目をそらして、足早に河川敷を去った。

 ――サヨナラは、告げなかった。


 あれから、数年が経った。

 私は念願の職について今日、職場への道を歩いている。だけど少し、寄り道をした。

 まだ朝早いその時間に訪れたのは、河川敷。

 そこに一人の男性が立っている。

 適当にまとめたぼさぼさ髪。白衣を上着代わりにし、灰色のパーカー。しわのない黒のスラックス。立ち姿は、昔と変わらない。

 ああでも、と立ち止まる。昔より猫背が増したかもしれない。

 その後ろ姿に、叫んだ。

「杜多先生!」

 あの日できなかった“笑顔”を浮かべて。

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