「貴方、『守歌もりうたの竜』の伝承は知っているかしら?」

 それまで黙ってロンファの隣に立っていたライーシャだ。

「『守歌の竜』、ですか? そうですね、一般的な伝承程度でしたら存じ上げております、竜の君」

 アルビエントはやっとロンファの髪から手を離し、うやうやしく頭を垂れる。そんな彼に、楽にしていいわよ、と許しを与えると、ライーシャはうなずく。

「話が早くて助かるわ」

 この世界は神々によってつくられた。ほとんどの神々はもうすでに天上の世界へと去ってしまったが、彼らの恵みは今も地上に降り注いでいる。その恵みが四季を巡らせ、命を巡らせる。そして精霊も、竜も、同じ恵みの中から生まれてくる。

 幼子のような無垢な存在である精霊と違い、竜は生まれた瞬間から万物の理を知り、自分たちの使命を知る。彼らは天上の神々の意思の代弁者だ。そのため、神々は己の意思を伝える竜に、特別な加護と祝福を与える。

 大地の竜であるライーシャであれば、大地に属する男神女神からあまたのものを授かっているはずだ。

 しかし、「守歌の竜」と呼ばれる竜の生まれは、少し特殊だった。その竜は慈愛の女神の吐息から生まれ、加護も祝福も使命も彼女からのみ与えられた慈愛の女神の化身だった。

 飢え乾いた土地で一声鳴けば雨を呼び大地に作物を育み、病に苦しむ土地で風を呼べば病魔はたちどころに消え去った。そして、その竜の歌だけが他の竜たちの受けた傷や病、呪いすら癒すことができた。

 人や精霊や竜、この世に生きるものたちが、己の力で克服できぬことに手を差し伸べる竜。この世界の安寧を守るために歌う竜。

 ゆえに、その竜は「守歌の竜」と呼ばれる。

「この子はね、『守歌の竜』の娘なのよ」

 あっさりとライーシャによって明かされた秘密に、ロンファはアルビエントの顔をこっそり窺う。

 案の定アルビエントは穏やかな笑みを浮かべたまま固まっていた。

「……娘ということは、ロン嬢は今人の姿をとっていらっしゃる貴女さまのように、本来は竜、ということでしょうか」

 なんとか絞り出すように投げかけられた問いに、ライーシャはうなずく。

「半分はね」

 竜の形はとれないのよね、と確認され、ロンファはうなずく。

「父親が『守歌』、母親は魔術師よ。ちょっと母親の方も常識はずれな存在ではあるけど」

 ライーシャが伝えてくれたことは事実だ。

 ロンファは竜である父と、魔術師である母の間に生を受けた。基本的には人間と大差ない脆さの身体で、竜としての形はとれない。魔法が使えるのは人間と違うが、竜のような大規模魔法がぼかすか使えるわけでもない。

 幼い頃は人間の器に巡る竜の血のバランスが取れず寝ついてばかりだったため、ここからはるか東の地にある父の隠れ家で守られて暮らしていた。父と母は忙しい人だったため、高位精霊の養母にほぼ頼りきりの生活だった。

 やっと父の許可が出て、母の住む屋敷に養母と引っ越してきたのがつい先日の話だ。

「まあ、慈愛の女神の加護も祝福も使命も歌も、『守歌』自身と同じだけ引き継いだんだもの。私たちにとっては同族に等しいわ」

 そう言うと、ライーシャは気まずそうに顔をしかめた。

「……だからこそ、自由を封じられたときに頼ったのだし」

 父が言うには、他の竜たちにとって「守歌」を頼るのはあまり格好のつかないことらしい。竜ならば大概の病や怪我、それに呪いだって自分で対処できる。それでも頼らねばならない、ということは己の力不足を白状するようなものだから、と。

 それが僕らの役目だから恥ずかしがらなくていいのにね、と父は笑っていたけれど。

 ライーシャの声なき声がロンファの元へ届いたのは昨日の昼前だった。

『ヴィスカントへ迎えに来て』

 それだけの短い土の精霊の伝言に、緊急事態かととるものもとりあえず飛び出した。己の翼を持たなくとも、風の精霊の力を借りることはできる。空を飛んでヴィスカントまで来れば、ライーシャの輝かしい気配は簡単に捉えることができた。

 いろいろと、父のようにスマートに助け出すことはできなかったけれど。

「この子、今いち危なっかしいから頼るの心配だったのだけど、貴方がついてきてくれて助かったわ」

 ライーシャの言葉に、ロンファはこくこくとうなずく。

 ロンファとそれほど歳も変わらないように見えるのに、アルビエントはいろんなことに手慣れている。もちろん、自分が世間知らずである自覚もあるのだが。

 本当にお世話になりました、と頭を下げようとして、ふと気づいたことに首をかしげる。

 なんだか、ずいぶんと、ライーシャとアルビエントとの距離が近い、ような。

 ライーシャは背伸びをしてアルビエントの首に両手を絡め、しなだれかかるようにしている。これは、普通の距離感なんだろうか。

「……竜の君、何か私に気にかかるところでもおありでしょうか?」

 どうやら違ったらしく、アルビエントがそっと丁寧な手つきで、しかし有無を言わさず絡みつくライーシャの手を外すと、すっと身を引く。ライーシャは不満そうにむくれた。

「貴方、とってもいい香りがするんだもの」

 今度は胴に抱きつくと、頬を擦りつける。

「はるか昔に飲ませてもらった貴き方々のお酒みたい。くらくらするわ」

 とろけるように笑うライーシャは、少女の姿だというのにやたらと色っぽい。これは人間の身には毒なのでは、とあわてふためくロンファだったが、ライーシャの続けた言葉に固まった。

「これは祝福、いえ、こんな濃さになればもはや呪いね? それも強くて、何重にも何重にも重ねがけしてある」

 興奮にかすれた声でささやかれた言葉は、甘い調子に反して不穏だった。

「少しずつ、少しずつ、貴方を人間じゃないものに変えていっている。人間の呪いじゃないわ。私たちの同族か、それとも貴きお方のうちの誰か?」

 竜が「貴きお方」と呼ぶのは神々だ。そんな存在が、呪い?

「貴方のことがよほど気に入ったのね。人として失われてしまうことを惜しんだのかしら」

 あわてて目を凝らして改めて見てみれば、確かにアルビエントの全身には細かな細工が施された華奢な鎖が幾重にも巻きつき、そこから大輪の紅薔薇が咲いては落ち、つぼみをつけては花開き――を繰り返している。

 ロンファがこれまで見た中で、もっとも美しく、そして執念を感じる呪いの姿だった。

 ぞっと背筋に寒気が走る。

 呪いの解呪を得意とするロンファでも、ロンファ以上の経験と知識をもつ父であっても、この呪いをすべて解くことはできないかもしれない。それほど強固で、重ね合わされた呪いだった。

「これほど愛されるなんて栄誉なことだと思うわよ」

「いえ――」

 くすくすと笑うライーシャを、アルビエントは再び丁寧に自分から引きはがした。

「私には過ぎた誉かと」

 笑顔で彼が言い放った言葉に、ロンファもライーシャも目を見開く。

 彼は自分が高位の存在に呪われていることを知っている。そして遠回しに、神からの寵愛であったとしてもいい迷惑だし、解呪をあきらめてはいない、と言っている。

 それは、どんなに無謀で、どんなに危険な願いだろう。

「ふっ、ふふふ」

 ライーシャが身を折って笑う。

「貴方おもしろいわね。ふふ、いいわ。すごくいい」

 気に入ったわ、と懲りずにまた抱きつこうとした彼女をさらりとかわし、アルビエントはロンファにほほえみかける。

「そんな顔をなさらないでください」

 ロン嬢はおやさしい、と目を細め、彼はそっとロンファの頬を片手で包んだ。

「この呪いが役に立つこともありますので」

 幼子を安心させるような口ぶりに、自分はどんな顔をしていたのかと情けなくなる。本当に苦しく不安なのはアルビエント自身だろうに、また気を遣わせてしまった。

 お世話になった上にこれでは――と思ったところで、ある考えがひらめいた。

「あ、あのっ」

 ロンファは衝動的に身を乗り出す。

「騎士さまのお仕事、私に手伝えることがあったら手伝います!」

 自分のせいで彼のやるべき仕事が後回しになっていたはずだ。これでも魔法も多少は使えますし、と勢い込んだところで、彼がぽんと手を打つ。

「ああ、そうでしたそうでした」

 まるですっかり忘れていた、とでも言わんばかりの口ぶりだ。

 くるりと振り返ると、混乱したままこちらを眺めて固まっている女性たちに声をかける。

「もしや、こちらにフィオナというお名前の方はいらっしゃいますか?」

 唐突な問いかけに、女性たちはふるふると首を横に振る。

「そうですか……」

 もしや先に連れ去られたという女性という可能性も、と考え込むようにつぶやいているアルビエントに、ロンファはおずおずと声をかけようとした。

「あの、その名前は――」

「フィオ!」

 だが、すべてを言い切るより先に、鋭く響いた声にさえぎられる。声をしたほうを向けば、アルビエントとよく似た制服をまとった一団が近づいてくるところだった。いちばん先頭に立つ人物の制服はアルビエントや他の人たちとは違って白ではなく黒が基調になっている。

 白銀の長くまっすぐな髪をうなじでひとつに結い、アイスブルーの目でこちらを見つめながら足早に近づいてくるその黒い制服の人物は、怜悧な美貌の女性だった。もう若くはないが、衰えも感じさせない。背は女性にしては高く、全体的に細いが、全身に生命力が満ちて見える。

「フィオ、無事だったか」

 酷薄そうな見た目に反して、そう呼びかける声は慈しみに満ちている。

 隠すことない喜びを口元に浮かべて近づいてくるその人に、ロンファとアルビエントはそれぞれ呼びかけた。

「お母さん!」

「閣下?」

 隣で響いた互いの声に、ぱっと相手の顔を見て目を瞬かせる。

「閣下?」

「……お母さん?」

 これはどういうことなんだ、とふたりが固まっている間に、最後はなかば小走りになっていたリーヴィエががばりとロンファを抱きしめた。

「心配したんだぞ。あんな書き置きだけ残して出ていくなんて」

 お前の養母は涼しい顔して「何とかなりますよ」としか言わないし、とぼやきながらも、少しかがむと自分よりも背の低いロンファの頬に自分の頬を寄せた。

「ごめんなさい。どうしても行かなくてはいけなかったから」

 眉を八の字に下げたロンファの謝罪に、リーヴィエはちらっと冷たい視線で傍らのライーシャを一瞥した。が、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。

「まあ、無事だったならいいんだ。さ、疲れただろう。早く家に帰ろう」

 そんなリーヴィエの姿に、アルビエントやリーヴィエについてきた部下たちは絶句する。

 この人は誰だ。上司によく似た別人なのではないだろうか。

 こんなにやさしい顔をした上司など、五年の付き合いでこれまで見たこともない。

「……閣下、お嬢さまの名前は『フィオナ』だとうかがっていたのですが」

 問いかけに、リーヴィエはやっとそこにアルビエントがいたことに気づいたらしい。

「なんだ、アル。お前いたのか」

 すっと冷めた口調で吐き捨てられ、この人は間違いなく自分の上司だと確信する。

 そもそも竜と結婚する度胸のある「ちょっと常識はずれな存在」である魔術師など目の前の女性以外にいる気がしない。そして、彼女と子まで成す度量を持つ男性が竜だったと言われても納得感しかない。

「そうだ。娘のフィオナだ。かわいかろう」

 胸を張るリーヴィエの腕の中で、ロンファが「やめてください」と恥ずかしそうに身をよじっている。

「確かにおかわいらしい方ですけれど、彼女の名前は『ロンファ』ではないのですか?」

 少なくとも、本人はそう名乗った。

 それを聞いたリーヴィエの肩がびくりと跳ねた。

「フィオ、やっぱり……」

 心細げな、すがるような声色が上司の唇が漏れたことに驚愕する。対するロンファはせわしなく頭を横に振った。

「ち、違うんです、お母さん。フィオナの名前が気に入っていないわけではなくって、ただ、これまでほとんどロンファと呼ばれてきたので、つい、名乗るときに口にしてしまうと言いますか」

 母に向かってわたわたと弁明してから、アルビエントにも事情を説明する。

「あのっ、ロンファは父に付けてもらった名前で、フィオナは母に付けてもらった名前なんです」

 父や父に忠誠を誓う養母、それに竜たちはロンファ、と呼ぶし、母や数少ないとはいえ人間の知り合いはフィオナと呼ぶ。

「えっと、いまさらですけど、フィオナ・リィン・ロンファ=ヴィル=エッダ、です」

 正式な名乗りは今が初めてだ。よろしくお願いします、とお辞儀をしようとしたら、リーヴィエにぎゅうぎゅうと覆いかぶさるように抱きしめられた。

「よろしくしなくていいよ。むしろこんな見た目だけはいいけど腹の内で何考えてるかわかんないようなやつ、フィオに近づけたくなかった」

 最終的には娘の捜索を任せたくせに好き勝手なことを言う。

「お母さん。騎士さま――アルビエントさまは私の恩人です。そのような言い方、やめてください」

 いつもの上司らしい物言いにため息をこぼしたアルビエントだったが、なんとロンファが強い口調で抗議した。愛娘につんとそっぽを向かれて、リーヴィエはたじたじとなる。

「フィオ~~」

 半泣きになってロンファにすがりつく姿に内心留飲を下げてから、アルビエントは意識を仕事へと切り替えた。

「ところで閣下はどうしてこちらへ」

 隣国使節団は来たばかりで、まだ警護の任は解かれていないはずだ。

「ば……っ――竜が出たと言われれば、来ないわけにはいかないだろうが。半数はあちらに残してきてある」

 馬鹿が、とあいさつのように口にしようとして、ロンファの視線に口をつぐんだらしい。

 確かに、国王警護の任も大切だが、こちらの状況に対処できるのはリーヴィエと彼女が率いる隊だけだ。

 国王直下第一魔術騎士隊。その隊長であるリーヴィエ・ルオー=ヴィル=エッダは、不世出の魔術師であり剣の鬼と呼ばれる魔術騎士だ。

「まあ、暴れるつもりもなく姿を隠したようだから、あとは事後処理だけだろう」

 またしても意味ありげにライーシャの変化した姿を一瞥しているから、彼女が竜であることには気づいているのだろうが、それを指摘するつもりはなさそうだ。ライーシャはライーシャであざけるように鼻を鳴らす。

 もともと神の御使いたる竜に人間ができることなどない。神の怒りに触れた街が滅ぼされようと、神域に踏み込んだ罰として森を燃やし尽くされようと大津波を起こされて港が呑み込まれようと、人にできるのは逃げ惑うことだけだ。魔術騎士隊にできることは、ひとりでも多くの人々を守り、生き延びさせることだけ。

 もしかしたらリーヴィエにならば竜と互角に戦う力くらいはあるのかもしれないが、彼女がそう明言したこともない。

 ちいさな火花がリーヴィエとライーシャの間で散った気もしたが、リーヴィエはつまらなさそうに視線を逸らすと半ば崩れた倉庫の壁際に固まって震えている女性たちを見つめた。

「……あっちは、地元のやつらの仕事だな」

 おーおーずいぶんと羽振りよくやってるじゃないか、と屋根崩壊のあおりをくって地面に散らばった宝飾品をつま先でつついて笑う。

「人身売買に盗品売買。あと奥の箱に入ってるのは武器に違法薬物ってところか?」

 こりゃ金と権力のある後ろ盾がいそうだな、とほぼ全身を岩で覆われた男たちを眺めて顔をゆがめて吐き捨てた。

 実行犯だった男たちの身なりは悪くなかったし、練度は低かったが得物である剣も粗悪品ではなかった。そもそも違法な品を流せるルートはそう簡単に確保できるものでもない。後ろ盾がいるのは確実だ――とそこまで考えたところでアルビエントはあることを思い出した。

「そうでした。つい先ほど、囚われていた女性がひとり連れ出されたと――」

「あれなら気にしなくていいわ」

 驚きの連続で頭から抜け落ちていたことを反省しながら、今ならまだ売買の現場を押さえられるのではないか、と思ったのだが、至極不機嫌そうなライーシャの声にさえぎられた。

「連れていかれたの、うまく化けてたけど、同族よ。私のこと、封じたのもあいつだもの」

 いまいましげに舌打ちして続ける。

「私のねぐらに人間の姿で来て不意打ちで封じたと思ったら、今度はあっさり人間に捕まったのよ。おかげで私は宝石と間違えられて売り払われそうになるし」

 何考えてるんだか意味わからない、と地団太を踏んでいる。

「思い返したら腹が立ってきた。まだそこらへんにいるんだったら一発お見舞いしてやるわ」

 そう言うが早く、ライーシャが駆け出す。その後ろ姿に、あわてたようにロンファが声をかけた。

「ライーシャさま! 暴れるなら街を出てからにしてくださいね!」

「わかってるわよ!」

 それだけ言い残すと、ふっとオパール色の髪の少女は姿を消した。おそらく空間を跳んだのだろう。

 竜にもいろいろあるらしい、としみじみとしていたら、目の前の上司がひらひら手を振った。

「あー、とりあえず私はフィオを連れて帰るから。後のことは頼んだ」

 細かいことが不得手な上司は地元警邏や騎士団への申し送りから逃げたいのだろう。できないわけではないとは知っているが、アルビエントとしてもそんなことよりさっさと王都の王の警護に戻したい。

「わかりました」

 うなずいてみせると、リーヴィエはさっさと空間転移の術式を展開し始める。王都からここまで来るのにも部下を連れて跳んできたのだろうに、こんな短時間の間に複雑で大型の魔術を疲れもせず連発できる術者などめったにいない。

「あ、それから――」

 ぎろりとこちらをにらんでくる。

「いろいろ落ち着いたら、覚えとけよ」

 そっと動かされたリーヴィエの指先が娘の髪と首をなでるのを見て、アルビエントは目を伏せる。

「はい」

 守れると思ったし、そう誓った。それなのに、自分はその誓いを守れなかった。

 弁明のしようもない己の失態だ。おとなしく頭を垂れたアルビエントに、リーヴィエは鼻を鳴らした。

 そんなふたりの様子を、ロンファは唇を引き結んで見つめていた。

「じゃあ、フィオ、行くよ」

「あ、ちょっと待ってください」

 あとは発動させるだけ、という段になって、ロンファはもぞもぞと母の腕の中から抜け出した。

 目を伏せたままのアルビエントの目の前まで行くと、下から顔を覗き込んでまっすぐ見上げる。

「今回は本当にありがとうございました」

 きっと自分だけではここまでたどり着けなかった。

 自分にできるのは、ほんの少しの魔術と、父や他の竜たちには遠く及ばぬ魔法と、それから歌だけ。

 それ以外はただの世間知らずの娘だ。

「アルビエントさまがいてくれたから、私、おつとめを果たすことができました」

 そう伝えると、彼は顔を上げてそっともう見慣れてしまった穏やかな表情を浮かべる。

「いいえ。お役に立てたのでしたら、それは私にとってこの上ない喜びです」

 すっと片膝をつき、こちらを見上げてくる本物の騎士さまの鮮やかな青の目を見つめ、彼の全身にまとわりつく過剰なまでの呪いを思う。

 あの呪いを、今のロンファが解くことはできない。でも――。

 すっと吸い込んだ空気を、竜の声として吐き出す。

 幾重にも重なる音にはひとつひとつ意味があって、それが大気に溶けて神の息吹に宿る力を呼び覚ます。

『祝福を、貴方に』

 この言葉は、アルビエントにはただの音の重なりにしか聞こえないだろう。

 そっと手を伸ばして、前髪を避けると、手早く彼の秀でた額に文様を記す。

 この者は、私の加護を受けたものである、と。

 それがどれだけ呪いをかけた者への牽制になるかはわからないけれど。

「困ったら、いつでも頼ってください」

 私でお力になれることは少ないとは思いますけれど、とほほ笑みかけると、アルビエントは驚いたように目を見開いた。それもすぐに消え、花咲くような笑みが麗しい顔に浮かぶ。

「貴女も、何かお困りごとがあったらお呼びください。すぐに馳せ参じますから」

 目の前の神々しいまでに美しい笑顔に見惚れていると、伸ばしたままだった指が彼の手袋に包まれた手に捕らえられた。そのまま口元へと運ばれ、触れるだけの口づけが指先に落とされる。

「へ」

 思考停止して固まっていると、彼はいたずらっぽく唇をつり上げた。

 だめだ、これは刺激が強すぎる、とふらついた身体は背後に立った母にがっしり抱き留められた。

「アル、お前、帰ってきたらほんとに覚悟しとけ」

 地を這うような声でうなり、アルビエントを殺しそうな目をしているリーヴィエを、あわてて「お母さんっ」とたしなめる。

 ふっと視界が淡い緑の光に包まれる。何度か体験したことがある、転移魔術の発動だ。

 光の向こうでは余裕のある笑みを浮かべ、膝をついたままの姿勢でアルビエントがまっすぐロンファのことを見つめていた。

 ふと、彼の唇が動いて何かと告げた――と思うと同時にその姿はかき消え、次の瞬間にはやっと最近見慣れてきた母の屋敷の玄関ホールが目に映る。

「くっそ、だからあいつを行かせるのはいやだったんだ」

 ぼやくリーヴィエの傍らで、ロンファはアルビエントの唇の動きを反芻する。

『またお会いしましょう、我が姫君』

 そう、読めた気がするのだが。

 まさか。まさかね。と首をふるふると振って、ロンファは口づけられた指先を握りしめる。

 彼女が「千呪せんじゅの騎士」と名乗るようになったアルビエントと再会するのは、もう少し後のことである。

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守り歌の娘と千呪の騎士 なっぱ @goronbonbon

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