考えるよりも先に、身体が動いていた。目の前の扉に飛びついてノブを回してみたが、鍵がかかっているらしくガチャガチャと鳴るばかりで開かない。だったら体当たりしてでも、と身構えたところで、あわてたアルビエントに抱きとめられる。

「ロン嬢! 落ち着いてください」

「離してください!」

 もがいてみても、力の差は歴然としていて振りほどくこともできない。

「私が先に行きますから。先走って飛び込んでいくのはやめてください」

 お願いですから、と耳元でささやかれ、パニックで半泣きになっていたロンファは抵抗をやめると彼を見上げた。

「貴女が迎えに来た方の安全も大切ですが、私にとっては貴女の安全も同じように大切なんです」

 アルビエントの表情は真剣で、彼が真実そう思ってくれていることが伝わってくる。

「……はい」

 全身から力を抜くと、彼はほっとしたようにちいさく笑った。

「では、後ろへ」

 ロンファがおとなしく下がるのを確認すると、アルビエントは腰に差しているあの不思議な剣を抜いた。片手を刃にかざすと、静かな声で唱える。

「風の加護をここへ」

 唱え終わると同時に、剣の刀身にゆらゆらと陽炎のような空気の揺らめきが宿る。

 彼がその剣を振るうと、刀身自体は扉に触れていなかったのに、扉が鋭利なもので裂かれたようにバラバラになって吹っ飛んだ。

 魔術だ。

 ロンファは息を呑んだ。

 己が身に宿る精霊を使役する術――魔術はそれほど珍しいものではない。ちょっとしたもの――かまどへの火付けや、庭への水まき――程度ならばできる者はそこら中にいるし、護衛職には魔術を得意とするものが多い。

 それでも、騎士に叙せられた上、これほど実用に足る魔術を操る者は少ない。魔術と剣術を修め、その上騎士としての品格を認められたものは、魔術騎士と呼ばれ、通常の騎士よりもさらに上の地位を与えられるという。

「ロン嬢?」

 ぽけっとしていたロンファに、扉があった場所をくぐったアルビエントが声をかけてくる。

「あ、はいっ」

 あわてて彼の元に駆け寄ると、「足元、気を付けてください」と手を差し伸べてくれた。

「騎士さまは、すごい騎士さまだったんですねぇ」

 扉の破片が散った場所を手をとってもらって進みながら、しみじみとうなずくと、アルビエントは少しはにかむように笑う。

「私など、たいしたことはないのですけれど。そんなに手放しでほめられると、だいぶくすぐったいですね」

 出会ってからずっと落ち着いた雰囲気だった彼だが、そういう笑い方をすると親しみやすさと同時にかわいらしさもかもし出される。

 破壊力がすごい。と、何に対する破壊力かも判然としないものの思ってしまう。

 扉を壊した先にあったのは埃っぽい部屋だった。これといった商品もなく、ただ机と空っぽの棚だけが並んでいる。正面奥にある戸口から、さらに向こうへと部屋が続いているようだ。

 ばたばたとあわただしい足音と、「なんだ今の音」という野太い声が近づいてくる。さすがに扉を破った音はよく響いたらしい。

 どうしよう、と固まったロンファだったが、アルビエントは部屋へと飛び込んできたがたいのいい男性ふたりを剣も使わず一瞬で地面に沈めた。

「敵がいるかもしれない部屋にあんなに警戒心なく入ってくるなんて、まるで素人ですね」

 あきれたように言うと、こちらへ安心させるような笑みを向けてくる。ほっと息をつくと、ロンファは彼に倣って足音を殺しながら次の部屋へ進む。

 次の部屋も床は埃まみれだった。何が入っているのかよくわからない木箱が積みあがっている。木箱の陰にあったドアを薄く開いてその向こうを覗き込み、アルビエントは「少しだけここにいてください」とロンファに告げると、ドアの細い隙間から軽やかに駆け出していく。

 息を殺して待っていると、「うっ」と短いうめき声が聞こえ、静まり返った。それっきり、何の物音もしなくなる。

 いったい何が、もしやアルビエントに何かあったのだろうか、とドアに耳を押し当てていると、向こうから引き開けられて体勢が崩れた。よろけた身体を、危なげなくアルビエントに抱きとめられる。

「お待たせしました」

 そう言いながら、ロンファを立たせてくれる彼には怪我はなさそうだ。と、胸をなでおろしたところで、ドアを出た廊下に転がる男性を認め、先ほどのうめき声の主はその人物だったのだな、と納得した。おそらくその場に残っていた見張りだろう。

「騎士さまは、隠密活動もお得意なんですか?」

 純粋に鮮やかな手並みに感動してそう言ったのだが、アルビエントは苦笑した。

「誉め言葉として受け取っておきます」

 何か間違ったのだろうか、と首をかしげたロンファだったが、出た先の廊下に二階へ上がる階段と、奥に続くドアを見つける。

「どちらへ行くべきでしょうか」

 同じようにドアと階段を見ているアルビエントの腕を軽くつかんで引っ張る。

「あちらです」

 迷いなくドアの方を指さしたロンファに目を瞬かせてから、彼は「わかりました」とうなずく。

 どくん、どくん、と心の臓が大きく脈打つ。全身の血が、探していたものはすぐそこにあるとざわめく。

 先に立ってドアの向こうを覗き込んだアルビエントの身体が、ぴくり、と硬直した。

「これは、見てしまったら頭を突っ込まざるを得ませんね」

 苦笑まじりのつぶやきの後に、彼はドアを大きく押し開けた。その向こうに広がる光景に、ロンファも目を見開く。

 ドアの向こうは倉庫のようで、窓のない空間が広がっている。部屋を照らすのは天井から吊り下げられた火焔石のカンテラだ。部屋の中のものには明暗がくっきりとついている。奥の方には、前の部屋同様何が入っているかもわからない箱が積み上げられて闇に沈み、それよりも手前にある机に並べられた宝飾品や骨董品は光を反射して輝いている。そして、入口に近いスペースでは若い女性たちが身を寄せ合っていた。数えてみれば八人もいる。

 商家の娘らしく整った格好の娘もいれば、つぎの当たった服を着た庶民の娘もいる。年の頃は十四から二十二くらいまでで、全員美しい容姿をしていることが共通点と言えるだろう。

 彼女たちはドアの向こうから現れたロンファたちを警戒と怯え、それから驚愕の入り混じった目で見つめている。驚愕、は人並み外れて麗しいアルビエントに動揺してのことだろう。

「先ほどの悲鳴は、何があったんですか?」

 穏やかに問いかけたアルビエントに、全員がわずかに肩から力を抜く。

「……貴方たち、あいつらの一味ではないのね?」

 年長で、気の強そうな顔つきの美女が窺うように口を開いた。思い切り平手打ちされたのか、頬が赤くはれている。

「あいつら、というのがこのドアに見張りを置いていた人たちのことであれば、仲間ではありません」

 むしろ一戦交えた後です、とアルビエントは答えて安心させるようにほほえむ。

 女性たちの唇から、ちいさく、息がこぼれる。安堵と疲弊と虚脱の入り混じった響きを帯びたそれを聞けば、彼女たちがいかに緊張状態を強いられていたのかがわかった。

 だが、空気がゆるんだのも一瞬のことだった。

「助けて! さっきまでいっしょにいた子がひとり、連れていかれたの」

 先ほどの美女がすがるように叫んだ。

「抵抗したんだけど、だめで……」

 そのほかの者も口々に訴える。

「きっとどこかに売り払われてしまうのだわ」

「あの子、いちばんおとなしい子だったから……」

 先ほどロンファたちの耳に届いた悲鳴は、彼女を行かせまいと彼女たちが騒いだ時のものだったらしい。

「それはまずいですね」

 険しい表情を浮かべたアルビエントが、こちらに向き直って何か言おうとして表情を強ばらせた。

「ロン嬢」

 伸ばされた彼の手がロンファの腕をつかむより早く、ロンファは死角から伸びてきた手に髪の毛をわしづかみにされて乱暴に引きずられた。

「っつ」

 よろめきつつも何とか倒れることなくこらえたものの、背後に立った男に喉元へナイフを突きつけられる。事態に気づいた女性たちが押し殺した悲鳴を上げた。

 これは、油断した挙句のピンチというやつか。どうやらここにはまだ一味の仲間がいたらしい。

 叫ぶことも身じろぐこともできないロンファは、とりあえず頭の中で己の失態を反省した。

 背後のドアが開く音にちっとも気づけなかった。

「ずいぶんと毛並みのいいネズミが入り込んだものだな」

 野太い声が嘲笑を含んで耳元で響く。

「おっと、おきれいな面に反してかなりの使い手らしいが、さすがに俺が嬢ちゃんの首を掻っ切るほうが早いと思うぞ」

 そうでなくとも手元が狂えばかわいい顔に傷がつくだろうな、と牽制され、剣の柄に手をかけていたアルビエントは苦々しい表情になる。

「剣を鞘ごと地面に置きな」

 唇を噛み締めつつも言われたとおりに剣を置いた彼を見て、残党の男はロンファには見えないドアのほうに向かって声をかける。

「おら。さっさとふんじばっちまえ」

 足音がして、新たに二人の男が視界に入ってきた。ひとりはアルビエントの剣を取り上げ、もうひとりは彼を後ろ手に縛りあげる。どちらも腰にナイフや短刀を差していた。

「お、すっげー値の張りそうな品じゃねぇか」

 剣をためつすがめつ見た男が歓声を上げる。

「こいつら自身もいい商品になりそうだしよ」

 不法侵入の慰謝料には十分だな、と笑いあう男たちを眺め、眉をひそめているアルビエントの状況を確認し、ロンファは目を伏せる。

 ロンファが人質になっている限り、おそらくアルビエントは動けない。動けたとしても手を封じられた上で最低三人を相手取るなど無茶だ。

「にいさんはどこぞの金と暇を持て余した貴婦人にでもかわいがってもらえるだろうし、嬢ちゃんは――」

 わしづかみにされていた髪をさらに引っ張られ、反射的にうめく。自然とのけぞったおかげで、やっと自分にナイフを突きつけている男の顔が見えた。

 四十手前ぐらいの、体格がいい以外これといって特徴のない男だ。普段だったらすれ違っても何の印象も残らないような。

 本当に、悪い人がわかりやすく悪い顔をしているとは限らない。

「珍しい髪と目の色だし、顔もいい。変わったもんを手元に置きたいって金持ちは多いんだ。愛玩動物としても慰み者としても引く手あまたになりそうだな」

 うれしくもないことを保証され、ロンファは思い切り顔をしかめた。見ればアルビエントも同じような顔をしている。

 自分さえいなければ、彼はこの程度の相手に後れをとることなどないのだろうし、そもそもここに来ることもなかった。彼の厚意に甘えて、こんな目にあわせてしまったことを後悔する。

 その時、だった。

『何おとなしくつかまっているの?』

 声なき声がロンファの耳を震わせた。

『貴女、私を迎えに来たのでしょう?』

 若い女声――まだどこか幼さの残る、それなのに気高さと甘さをたたえた声。

『さっさと役目を果たしてちょうだい。そうしたら――』

 声にちらりと獰猛な、舌なめずりする獣のような気配が混じる。

『こんな連中、私が蹴散らしてあげるから』

 それは、と言い返しそうになって、言葉を呑み込む。

 声の言うことはもっともだった。今のロンファでは女性たちを守りつつアルビエントを助けることはできない。

 だから――。

「こんな鮮やかな紅の髪、初めて見たぜ。いったいどこの出身なんだ?」

 表情を失ったロンファに気づくことなく男が楽しげに笑う。

「ここよりずっとずっと東ですよ」

 答える義理はないけれど、知りたいのならば教えてやろう。

「人には持てぬ色です」

 そう告げると同時に、思い切り身をよじる。首の皮が薄く切れたが、商品を傷つけまいと男が手を引いてくれたおかげで血しぶきを上げる惨事とはならなかった。

「こら、おとなしくしろ」

 がっ、と今まで以上に強くつかまれた髪の痛みに顔をゆがめつつ、ロンファは声を放つ。

 それは、言葉にならない、幾重にも高低の音を重ねたような、不可思議な声だった。

「いてぇ!」

 ひゅっ、と風がうなり、ロンファの髪が散る。髪をつかんでいた男の指を傷つけ、そこに絡みついていた長い髪を切り落とし、風の刃が吹き抜けた。

 どん、と自分を拘束していた相手を突き飛ばし、目を丸くしているアルビエントを横目に部屋を奥へと駆ける。

 ごめんなさい、と心の中でここまでいっしょに来てくれた騎士に謝る。

 自分は確かに世間知らずで簡単に騙されてしまうけれど、身を守るすべを持たないわけではない。彼にかしずいてもらえるような「淑女」ではないのだ。

 まるで普通の女の子のように接してもらえることがうれしくて、つい、口をつぐんでしまった。

 走りながら、普通の人間には発することのできない声で歌う。低く、高く、大気を震わせる。

 これは、呼び招くための歌。

 そして、呼び覚ますための歌。

 部屋の空気がぐっと重くなる。濃く、濃く、満ちていく。

 あきらかに変わった周囲の雰囲気に、その場の誰もが落ち着かなさそうにあたりを見回している。

 魔術を使えようと、使えまいと、すべての者の身には精霊が宿っている。その身の精霊がざわめくのに無頓着でいられる者などいない。

 ロンファが呼び招いているのは、かの者の眷属たる精霊。

 これから呼び覚ますのは、精霊たちの王のひとり。

 宝飾品や骨董品が乱雑に並ぶ机まで駆け寄ると、そこに置かれていた子どものこぶしほどもある大きさのオパールを取り上げる。床に膝をつくと、両手の上に載せたそれを頭上に掲げた。

「御身の名を」

『ライーシャ』

 掲げた手はそのままに、深々と首を垂れる。

「大地の竜ライーシャ。その姿をここに現したまえ」

 そう告げ、歌の最後の音を響かせる。

 一瞬大気が凪いで、次の瞬間ロンファの手の上のオパールを中心に目に見えぬ力が荒れ狂う。

 七色に光るオパールが輝きを強め、ふわりと大気に溶けるようにその光が膨張していく。実体をともなったそれは、ばりばりと音を立てて倉庫の天井を突き破り、さらに屋根を突き破った。少し傾き始めた午後の光が、火焔石のカンテラの光しかなかった倉庫にやわらかく差し込む。

 それの全身を包んでいたまばゆい光がおさまったとき、そこに立っていたものの姿にロンファ以外の誰もが呆然とした。

 姿は、二足で立つ蜥蜴、と呼ぶのがいちばん近いが、それを言えば瞬時に消し炭にされるだろう。

 虹色に輝く幾千もの鱗。黄金色の目。同じく黄金色の、鳥のような羽毛の生えた翼。鋭い真珠色の爪と牙、そして額の角。

 精霊の王にして、神の御使いたる自然の息吹の化身。魔術ではなく魔法と呼ばれる奇跡の行使者――竜だ。文献には記されているが、滅多に人とは交わらない高位種族がそこにはいた。

『ああもう。閉じ込められるなんて最悪』

 竜の言葉は、先ほどのロンファの歌声同様、幾重にも重なった音として大気を震わせるばかりで、ただの人間の耳には意味ある言葉としては伝わらない。

『さて、約束だものね』

 ちらり、と眼下を睥睨すると、竜――ライーシャはばさり、と翼を羽ばたかせた。それだけで崩れかけていた建物がさらに崩壊していく。

「きゃあ」

 か細い悲鳴に、ここには守るべき人々がいることを思い出す。ロンファはあわてて自分の周囲の風の精霊に願って、女性たちとアルビエントの周囲に空気の盾をつくってもらう。

「誰も殺さないでくださいね」

 頭上のライーシャに呼びかけると、彼女はちいさく嘆息をもらした。息にちりちりと火の粉が散って見えるのはご愛敬だ。

『面倒ね』

 心底そう思っているように口にしたが、それでもロンファの願いは聞き入れられた。

 ライーシャが一声鳴くと、地面がうごめき、呆然と立ち尽くしていた男たちの首から下までを岩が覆いつくす。一瞬のことだった。彼らがいくらもがこうが、叫ぼうがびくともしない。

『これでいい? あら、ちょっとうるさいわね。口も塞いでおくわ』

 彼女がそう言うが早く、まるで液体のように岩が動くと男たちの口元まで覆ってまた固まる。

「ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げたロンファに、ライーシャは顔をしかめる。

『軽々しく頭を下げないでちょうだい。貴女だって――』

 そこまで口にして、目を細める。

『いやだわ。うるさくなりそう』

 建物の屋根がいきなり吹き飛び、そこからにょっきり竜が顔を出したのだ。それはそれは目を引いたことだろう。おそらくそれほど経たずにヴィスカントの警邏隊や騎士団、駐在魔術師がすっ飛んでくるはずだ。

『なんで人間って私たちが姿を見せるだけで大騒ぎするのかしら』

 そりゃあ羽虫を殺すのと同じお手軽さで人間を殺すことができる存在が姿を見せたなら警戒くらいはするだろう。そうは思ったものの、ロンファは賢明にも口をつぐんでおいた。

『まあいいわ』

 肩をすくめると、ライーシャは口の中で何ごとかをちいさく唱えた。

 再び彼女の姿が光に包まれ、どんどん縮んでいく。今回はロンファよりも一回りほどちいさいくらいで止まる。

 光がおさまると、今度は十四、五歳の少女がそこには立っていた。

 遊色効果のあるオパール色の髪はゆるく波打って足首まで覆い、シンプルな白のワンピースからは華奢な四肢が伸びる。繊細で美しい美貌はまだ幼さが残っているのに、ぞっとするほどに色っぽい。黄金色の目で見つめられれば、魂ごと隷属を誓いたくなるほどだ。

「これなら人間にまぎれられるでしょ」

 完璧な擬態、とでも言いたそうに胸を張るライーシャだが、普通の人間とはあからさまに違う存在感を放っている。まあこの場にはもうひとり人間離れした美貌の存在がいるから――と思い至ったところで、ロンファはぱっと周囲を見回した。

 目的の人物はすぐに見つかる。ロンファと目が合うと、おびえて縮こまった女性たちの安全を確認していたアルビエントは優雅な足取りでこちらへと向かってきた。先ほど取り上げられてしまっていた剣が彼の腰に戻っていることに安心する。

「ロン嬢」

 呼びかけられ、自然と身体が強張る。自分は彼に隠しごとをしていた。責められるのも、問いただされるのも仕方がない。答えられる限りのことは答えるつもりだ。それなのに――。

「お怪我はありませんか?」

 いちばんにアルビエントがしたのは、ロンファの怪我の心配だった。

「平気、です」

 そう答えると、彼はほっとしたような、いらだっているような、何とも言いがたい表情を浮かべる。

「無茶をしましたね」

 目の前に立つと、そっとロンファの喉元に触れる。手袋ごしの彼の指になでられ、そこからぴりりと痛みが伝わった。

 思えば薄く切ったのだった。今さっきのことだというのにすっかり忘れていた。

「貴女を守ると大口をたたいておいて、逆に助けていただくとは」

 口惜しげに頭を振るアルビエントに、ロンファもぶんぶん首を振る。

「いいえいいえ。私こそ、騎士さまを危険に巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした」

 そんなロンファの様子に、彼はますます顔をゆがめる。首に触れていた手が、今度は不揃いになってしまった髪をなでた。

「お美しい髪ですのに、もったいないことをさせてしまいました」

 そっと繰り返し髪をすく指先に頬が熱くなる。

 まるで何もなかったかのように、先ほどと変わらず自分の心配をしてくれる彼の態度に居心地の悪さと心地よさを同時に感じてしまう。

「へ、平気ですよ」

 ちゃんと切り整えれば目立たなくなるはずですから、と口早に言うと、そっと上目遣いに彼を見た。

「……私のこと、聞かない、ん、ですね」

「もちろん気にはなっていますけれど――」

 髪をもてあそぶ指を止めることなくアルビエントが苦笑する。

「貴女が、ずいぶんと言いにくそうになさっているので」

 切り出してくださるのを待っていたんです、と告げられ、ロンファはしゅんと身を縮めた。

「……すみません」

 そんな気遣いまでさせてしまうとは。

 話すにしてもどこから話したら、と悩んでいるうちに、思いもしなかったところから助け船が出された。

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