僕はブンゴウ
サライ
僕はブンゴウ
僕には文才がある。
いや、正確に言うと、僕はとても頭が悪いし文才などないのだが、周りは僕のことを、文才がある奴だと思っている。
学校のみんなが僕の事を「ブンゴウ」と陰で呼んでいるのを知っている。
最初は何を言われているのか分からなかったが、母さんに聞いてみて分かった。〈ブンゴウ〉とは〈文豪〉の事で、大作家の事を言うらしい。
中一から中三の現在に至るまで、ずっと「ブンゴウ」と呼ばれている。
でも僕には文才なんてない。
矛盾している様だが、矛盾していないのだ。
そもそも本を読むのは大嫌いだし、小学生の頃に読んだ〈泣いた赤おに〉が、まともに読書をした最後の記憶だ。それも結局最後まで、なぜ赤おにが泣いたのか分からず終いだった。
そうだ。文才云々の前に、読解力がないのだ。
それ以降は本などまともに読んでいない。国語の教科書で多くの物語を学んではいるが、大半は理解出来なかった。
国語の成績は、毎年最低評価だ。漢字くらいなら努力次第で多少カバー出来るが、読解力がないのだから最低評価は当然だ。いや、当然漢字も苦手だが。
なので、文才がある訳がない。
文章を理解出来ない人間が、素晴らしい文章を書ける訳がないのだ。
そんな僕が、なぜ〈ブンゴウ〉なのか。
単純な理由だ。中一の時、夏休みの課題の一環として提出した作文が、コンクールで大賞を受賞したからだ。僕の作文は地元の新聞に掲載され、学校の全体集会でも表彰された。その日から、何の取り柄もない僕は一躍〈ブンゴウ〉として学校内でちょっとした有名人になったのだ。
なぜ僕の作文が大賞を獲れたのか。
簡単な理由だ。
母さんが作文を書いたからだ。
母さんが全て書き、僕は清書をしただけだ。内容もよく覚えていない。難しい言葉が並んでいて、ほとんど理解出来なかったんだから。
新聞の講評には、
──中学生とは思えない感性と文章力がある。作文と言うより、繊細な文学作品を読んでいるようだ──とかなんとか、これまたよく理解出来ない褒め言葉が並んでいた。
当然中二、中三の夏休みも、母さんに作文を代筆してもらった。今度は大賞ではなかったが、二回とも優秀賞をもらった。三年連続で僕の作文が入賞した事により、僕の学校内での〈ブンゴウ〉としての立ち位置は、確かなものとなっていった。
母さんは専業主婦だが、結婚するまでは長い間出版社で編集者をしていたらしい。コンクールで賞を獲るにはコツがいるのよ、お母さんはそれを知っているのよ、と言いながら、むしろ進んで代筆をして、賞を獲っては子どものように喜んでいた。親としていかがなものかと思うのだが、僕はそれに甘える事にした。
国語の成績は、中三の現在もとびきり悪い。
でも別にそんな事構わないのだ。国語の成績と文才がイコールではない事を僕は知っている。
こんな話がある。母さんに聞いた。
誰だか忘れたが、有名な作家が、自分の書いた作品が使われている試験問題を解いたらしいが、ほとんど分からなかったと言う。解答の選択肢に、自分の思う解答が見当たらなかったそうだ。自分の書いた作品なのに。
文学に答えなんてないんだ。本物の文豪の答えは、文豪にしか分からない。
国語のテストの本当の解答なんて、文豪本人にしか分からないんだ。
母さんもテレビを見ながら、「作家って大体世間一般とは反対の意見を言うわよね」と、よく言っている。
なので、僕は自分が本物の文豪っぽく見えるように、いつでも反対意見を言うようにしている。
最近、夏目漱石の〈吾輩は猫である〉という有名な話を国語の授業で学んだ。
猫が自分の事を〈吾輩〉と呼び、失恋したりして、最後は死んでしまうというよく分からない話だ。
内容はよく理解出来なかったが、猫が自分の事を〈吾輩〉と呼びながら、ベラベラと喋る様子を想像すると、授業中笑いを堪えるのが大変だった。
先生が、クラスの優秀な、文芸部の中村という男子に、
「このお話はなぜ猫目線で書かれていると思いますか? 人間目線で書いては駄目なんでしょうか?」
と、難しい質問をした。中村は、
「この話は、人間の滑稽さを書いた物なので、人間をより客観的に見るには、人間目線よりも猫目線の方が適切だと作者は考えたのだと思います」
と、ハキハキとなにやら小難しい回答をしていたが、僕にはほとんど理解出来ない。
中村は文芸部だし優秀だから、恐らく正解の回答なんだろう。
先生がうんうん、と頷いてから、
「江原くん。江原くんはどう思う?」
と、僕に聞いた。
──中村くんと同じ考えです。
とは、僕は言わない。文豪たる者、迎合してはいけないのだ。では何と答えるのか。簡単だ。中村の回答と真逆を言えばいい。
「逆に……この話は、猫をより主観的に見るために、猫目線の方が適切だと作者は考えたのだと思います」
いつも言ってから気が付くのだが、僕の言っている事は意味不明だ。猫を主観的に見るためなら、猫目線であるのは当たり前だ。それくらい僕にだって分かる。
それでも、誰もが想像も付かない真逆の回答をすると、一度付いた〈文豪〉としてのイメージも相まって、物事は上手く転がるのだ。冒頭に「逆に……」を付けるのがポイントだ。
先生は少し考え込んでから
「なるほど……。このお話は、猫目線で人間を書いた作品の様に見えて、一周回って、猫という動物の物哀しさを書いた作品……という事かしら?」
と言って、僕の顔を覗き込む。この様に、適当に真逆の回答をする事で、周りが勝手に上手く解釈してくれる。
そして先生はいつも、「新しい考えだわ。斬新だわ」と、感嘆の声を上げるのだ。
文学に答えなどないのだ。国語の成績なんて悪くても、関係ない。「よく分からないけど、なんか凄い」と思わせればいいのだ。
成績なんて、悪くなればなるほど、僕の〈文豪〉としての立場が、現実味を帯びていくのだ。
クラスの皆からは「ブンゴウ」と陰で呼ばれるようになった僕だが、友達はいない。 元々、漫画を読むくらいしか趣味もなければ、スポーツも苦手で、気の利いた会話も出来ない訳だから当然だ。
漫画と言っても、中三にもなると周りはなんだか小難しい漫画を好むようになっているが、僕は小学生が読むような単純明快なギャグ漫画が好きだから、あまり話も合わない。
いまだに〈ウンコ〉というキーワードだけで腹を抱えて笑える、幼稚な人間なのだから。
だから休み時間なんかはいつも一人だった。別に構わない。文豪とは、孤独なものらしい。孤独であればある程、より文豪らしく見えるものだ。
一応、〈文豪〉としてのイメージを損なわない様に、母さんの本棚にある、難しそうな本を借りて、常に学校の机の上に置いている。さすがに本を読まない文豪なんてなかなかいないだろうから、これくらいの努力はしなければならない。
最近は、〈存在と時間〉という本だ。ハイデガーという外国人が書いた本のようだが、もちろん、1ページも読んでいないし、ハイデガーの事も知らない。
何となく、〈文豪〉っぽいタイトルだったし、作者も外国人というところが、僕を只者ではない感じに見せてくれそうだったので、コレを選んだ。当然、時折手に取って、読んでいるフリくらいはしている。もはや、自分の存在と、この時間が無駄である、と多少の虚しさは覚えるのだが。
ちなみに、友達のいない僕だが、一人だけ休み時間にたまに話しかけてくる物好きがいた。
文芸部の中村だ。成績は優秀で、背は高く男前、スポーツも得意だと言うのに、何故か文芸部の中村だ。いつも授業では聡明な意見を述べていて、ことごとく僕が意味不明な真逆の意見を言って邪魔してしまっているにも関わらず、話し掛けてくれる、要するに、とてもいい奴だ。
「ヨォ、江原。今日は何読んでるんだ?」
そう言えば、中村だけは何故か僕のことを「ブンゴウ」とは呼ばずに「江原」と、本名で呼ぶ。それが実は少し嬉しい。
「あぁ、小説だよ。存在と時間っていう小説」
僕はわざと忙しそうに、眉間に皺を無理矢理寄せて、読んでもいない本の、字面を追うフリをした。頭を動かさずに、眼球だけ上下に動かすのがコツだ。鏡を見ながら何度も練習した。
「存在と時間? それって小説じゃなくて、哲学書だろ? お前、やっぱすごいもの読むんだな」
中村が目を見開いて驚いている。
哲学書?そうなのか。コレは小説じゃなくて哲学書なのか。そもそも違いなど分からないが。
僕は一言、「まあな」と呟いてから、またその哲学書とやらの字面を追うフリをしたが、中村はお構いなしに話し掛けてくる。
「ついこの前までダザイ読んでただろ? もう読み終わったのか?」
「ダザイ?」
一瞬間を空けてしまってから、ダザイが太宰治の事であると気付いた。そうだ。存在と時間の前は、確か太宰治の本を読むフリしてたっけ。タイトルは忘れてしまった。
「あぁ、太宰だろ。アレはもう読み終わったよ」
「さすが。早いな。この前読んでたのって、シャヨウだろ?」
シャヨウ? ああそうか。この前読んだフリをしていた本は斜陽だった。アレはシャヨウと読むのか。今知った。斜陽ってなんだ? 大抵の本は、タイトルから内容を予想することが出来るのだが、まるで分からない。
「あぁ、斜陽だ。斜陽。斜陽はなかなか良かったな」
とりあえず無難な返答をしておく。
「だよな。俺も太宰の中で一番斜陽が好きなんだ。江原は太宰作品で何が一番好きなんだ?」
マズイ。中村の奴、難しい質問をしてくる。なんせ、僕は太宰治の作品など、他に何も知らないのだ。斜陽がシャヨウであると、たった今知ったくらいなのだから。
苦し紛れだが、いつもの逆に作戦を使おう。
「逆に……
僕は太宰より、夏目が好きだな」
答えになっていないような妙な返答をしてしまった。しかし、他に上手い返答が見付からないのだから仕方ない。なんとなく誤魔化せただろう。夏目漱石は先日の国語の授業で覚えたてだ。改めて夏目に感謝したい。
「夏目? あぁ、漱石かぁ。漱石は俺も好きだけど、あまり沢山は読んでないんだよなぁ。今度お勧めあったら教えてくれよ」
中村が白い歯を見せて爽やかに笑った。本当に良い奴だ。今度お勧めを教えてやろう。まあ、吾輩は猫であるしか知らないのだが。
昼休み終了のチャイムが鳴ったところで、中村は爽やかに、「また話そうぜ!」と言って去って行った。去り際に、「今度俺もお勧めの太宰作品持ってくるわ」と言われた時、僕は唐突に思い出した。
太宰治の作品なら、中二の国語の授業で、〈走れメロス〉をやったじゃないか。
確か、メロスという青年がひたすら走る話だった。メロスという名前がメロンみたいで可笑しくて、詳しくは記憶にないが、恐らく努力の大切さなんかを書いた作品だろう。
先程の中村の質問に、〈走れメロス〉と答えなかった事を、少々後悔したが、まぁいい。
中村は飽きもせずにしょっ中僕に話し掛けてくれた。帰宅部の僕に、「江原も文芸部に入れよ」と親切に勧誘してくれたが、僕は断った。文豪たる者、孤独でなければならないし、何よりボロが出てしまっては数年の努力が無駄になる。
〈存在と時間〉を読み終えて、いや、正確には1ページも読んでないが、その日は新しく〈罪と罰〉というドストエフスキーの本を読むフリに勤しんでいた。
この本のタイトルも作者も聞いた事がある。もちろん、1ページも読んでいないが、何となく外国人作家は、より自分を文豪っぽく見せてくれる気がするから、最近のマイブームだ。
内容はよく分からないが、恐らく罪を犯した愚かな人間が罰を受けるような話だろう。タイトルから内容が簡単に想像付く。
もし中村に話し掛けられたとしても、「逆に……罰は罪には必要だと思う」とか何とか言ってやろう、と身構えていた。
案の定、昼休みになると中村が話し掛けてきた。いつもの爽やかな笑顔で。
「おおー! すげえな江原! 今日はドストエフスキーかよ! 俺も読んだけど、かなり難しくて読むの大変だったぞ!」
そうか。中村でも理解出来ない難解な小説なのか。これならどんな質問をされても対応出来るぞ。僕は「逆に、難しいから面白いんだぞ」とだけ呟いた。
「ほんとにすげえな江原は」
感心したように中村が言うので、僕は本当に自分がすごい奴になったような錯覚を覚える。
「あらゆる人間が、凡人か非凡人に分けられる、だよな」
中村が遠くを見るような目をして言う。
何の話をしているのか分からないので、とりあえず「おぉ」と一言だけ呟いておく。
「罪と罰読んだ時、このフレーズが心にズシッときたんだよな」
なるほど。罪と罰の話か。凡人とか非凡人の話なのか。罪と罰じゃないのか? そうであればタイトルを〈凡人と非凡人〉にしといてくれ、ドストエフスキーよ。
とりあえず逆に作戦で乗り切ろう。
「あぁ、逆に……非凡人も凡人だと思うぞ」
「うん。そうだな江原。確かに主人公は非凡人と思っていた様で、凡人なんだよな。俺もそう解釈したよ」
「そうだな」
どうやら逆に作戦が的を得た返答だった様だ。成功した。
「でも俺は凡人だ。作文コンクールで入賞した事もないしな。江原は非凡人だぜ。羨ましいよ」
中村がそう呟いてからフフと笑った。
僕は、急に、何となく今まで感じた事のない感情に襲われて、何も言えなくなった。
この気持ちは何だろう。
罪悪感というやつかもしれない。
その日は自宅に帰ると、母さんの部屋に忍び込んで、新しい本を探した。
夏目漱石の名前が目に入る。
中村が、お勧めの夏目の本を教えてくれと言っていたはずだ。
母さんの本棚に夏目漱石の本は沢山あった。
〈坊ちゃん〉? 子どもが主人公の小説か? 内容がまるで想像出来ない。
〈草枕〉? 草で作った枕で寝る話か? 枕を草で作るなんて、恐らく貧乏人の苦労話か何かだろう。中村にお勧めするにはちょっと違う気がする。
沢山並ぶ夏目作品のタイトルを見ながら、僕は時間を掛けて、その中から〈こころ〉という本を選んだ。
タイトルがシンプルだし、恐らく内容もシンプルなんだろう。心温まる内容であると容易に想像出来たので、僕は迷いなく〈こころ〉を手に取った。
明日、中村に貸してやろう。
そんな事を考えると、なんだか僕は中村と本当の友達になれた気がして、少し心が温かくなった気がした。
罪悪感も薄まった気がする。
翌日、僕は〈こころ〉を持って、初めて中村に、自分から話しかけてみる事にした。
中村は自分の席で、何か分厚い紙の束のような物を眺めている。
「中村」
背後から僕が声を掛けると、中村が驚いたようにこちらを振り返った。
「おぉ、江原! 丁度良かった! 今お前のところに行こうと思ってたとこなんだよ」
「そうか。なんだか、気が合うな」
そんな事を言ってしまってから、急に自分が恥ずかしくなったので、僕はポリポリと頭を掻いた。
「俺さ、今度中学生小説コンクールに作品を出そうと思ってさ。丁度書き終えたとこだから、江原に読んでみてもらいたいんだ」
中村が机の上の紙の束を手に取り、僕の胸元に差し出した。
どうやら自作の小説のようだ。なんとも分厚い、A4原稿用紙の束だ。
表紙には、恐らくタイトルだろう、綺麗な手書きの文字で、〈緘黙の檸檬〉と書いてある。
〈の〉しか、読めない。〈檸檬〉はなんだか見た事ある漢字のような気もするが、やっぱり読めない。
「読んでくれよ、江原。俺さ、本気で賞を狙いたいんだ。文芸部の奴らにも読んでもらったんだけどさ、やっぱり実際に賞を獲ってる奴に読んでもらいたいんだよ」
中村が、男前をさらに男前にする真剣な顔つきで僕に言う。
本音では読みたくない。タイトルすら読めないんだから、僕には無理だ。でも中村はいい奴だ。これを断れば、僕は本当に孤独な人間になってしまうかもしれない。いや、それを望んでいた訳だが。文豪だから。
「分かったよ」
僕は上から目線で、首を縦に振ってしまった。
「ありがとう! 原稿用紙30枚の短編だからさ、一瞬で読み終わるぜ! 恥ずかしいからさ、誰にも言わないでくれよ!」
中村は満足そうな笑顔を浮かべた。
また、僕の心の中に、罪悪感の様な感情が湧き上がり、胸が痛んだ気がした。
原稿用紙30枚か……。小説界では、この枚数が短編だとは。軽はずみに引き受けてしまった事を少々後悔したが、中村が僕を信頼して託してくれたんだ。
まずは、このタイトルの読み方を調べなくてはならない。
僕は〈緘黙の檸檬〉を丁寧にクリアファイルに入れてから、そっと自分のリュックにしまい込んだ。
自宅に帰って風呂と夕飯を済ますと、部屋に篭り、まずは埃まみれの漢字辞典を引っ張り出した。スマホも持っているが、読み方すら分からない漢字を調べようもない。母さんに聞けば早いのだが、中村は誰にも言わないでくれ、と確かに言っていた。約束は守らなくてはならない。僕は文豪だ。
漢字辞典というやつは実に扱いにくい。檸檬の様な画数の多い漢字は特に大変だ。
クソ、面倒くさい。
結局タイトルの読み方が分かるまで、三十分近く掛かってしまった。もう午後十時だ。こんな調子では、本編の方を読み終えるのに一体何時間掛かるか想像も付かない。
「かんもくのれもんか……」
とりあえず、〈緘黙の檸檬〉が、〈かんもくのれもん〉と読む事が分かった。
檸檬が果物のレモンである事は分かるが、緘黙が何なのか分からない。あとはスマホに頼る。
──口を閉じて何も言わない事。押し黙る事──
そう書いてある。
緘黙の檸檬。
押し黙ったレモン。
誰もいない静かな部屋で、思わず僕は吹き出した。
一度笑い出すとなかなか止まらない。
そうだ。国語の授業でやった、夏目の、吾輩は猫であるの時も随分我慢したんだ。
喋る訳のないレモンが押し黙る。
当たり前じゃないか。レモンはそもそも喋らないんだ。押し黙るのは当然だ。まだ猫が喋る方が現実味があるぞ。
中村はふざけているのだろうか。もしやコレはコメディ作品なのかもしれない。
僕は、無口な檸檬人間くんが主人公の、コミカルなコメディ作品を想像した。
読書なんて何年ぶりだろう。小学生以来だ。頑張って読んでみるか。
少し期待をしながらページをめくると、そこにはただの白紙がある。
お? いきなり余白か? 自作小説のルールなんだろうか。まぁいい。
もう一枚ページをめくる。
なぜかそこもまた白紙になっている。
なんだコレは?
訳が分からない気持ちで僕は三十枚全てをめくる。なんと、全てのページが白紙だ。
中村のやつ、間違えて僕に渡したのだろうか。しかし、繰り返し見直して見ると、三十枚目の最後の行に、〈了〉とだけ書いてあった。
了? なんだこれは?
よく分からないが、中村が間違えて僕に原稿を渡してしまったのだろう。
明日教えてやらなきゃ。
朝方まで掛かってでも読み切ろうと覚悟を決めていただけあって、何だか拍子抜けしてしまった。
中村のやつ、意外と抜けてるところあるんだな。
そう言えば〈こころ〉を貸すのも忘れてたな。明日また中村と話そう。
そう思いながら、僕は眠りに付いた。
「中村!」
この日も僕は、自ら中村に声を掛けた。
手には、〈緘黙の檸檬〉と〈こころ〉を持って。
中村は自分の席で読書をしていた様だったが、僕の声に気付いて、すぐに本を閉じてから振り返った。
「お! 江原! 読んでくれたか? どうだった?」
僕は〈緘黙の檸檬〉を中村の机にそっと置いてから言った。
「おいおい中村。全部白紙だったぞ。勘弁してくれよ。楽しみにしてたのにさぁ」
少し上から目線の言い方になってしまったが、仕方ない。
中村が驚いたような顔をしてから、急に、大声で笑い出した。
「いやいや、最後にちゃんと了、って書いてあるだろ? 何言ってんだよ江原!」
「は? あぁ、確かに了、とは書いてあったけど」
中村はまだ笑っている。僕は訳が分からない。
「了、はこの話はお終いです、って意味だろ? 何言ってんだよ、江原」
僕の小さな脳みそは破裂寸前だ。中村の言う意味がまるで分からない。
白紙の小説。話はお終い?
「いや、でも、白紙じゃ、何がお終いなのか意味が分からない気が……」
中村はまた声を立てて笑った。
「タイトルから察してくれよ。お前なら分かってくれると思ってたのに」
タイトル? 緘黙の檸檬、押し黙ったレモン……
僕は何も言えない。分からない。もはや僕が緘黙状態だ。
中村がニヤリと笑って、僕に言った。
「檸檬をとことん主観的に、檸檬目線で、檸檬の哀しみを書いてみたんだぜ」
そう言ってから、中村がまた声を立てて笑う。
「あとコレ、俺のお勧めの太宰作品だ。読んでみろよ、ブンゴウ!」
珍しく僕の事を本名ではなく、あだ名のブンゴウと呼んで、中村が先程まで読んでいた本を差し出してきた。
そこには大きく太い文字で、
〈人間失格〉
と書いてあった。
どうやら、〈ブンゴウ〉たる者、やはり孤独なものらしい。僕は〈こころ〉を抱えたまま、その場に立ち尽くすほかなかった。
了
僕はブンゴウ サライ @sarai03
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