秘事~The Secret~

明日波ヴェールヌイ

ヒメゴト

 日が沈み始め空がだんだん暗くなっていく中、僕は彼女に言われた。

「あなたは本当に私と居て楽しい?」

 僕の背筋にゾクリと何かが走る。彼女が僕を「あなた」と呼ぶのは怒っていたりするときだ。僕は慌てて

「楽しいよ?いつも楽しい」

と、フォローする。しかし彼女はすごく不満そうだった。

「嘘でしょ?私の時はあんまり楽しそうじゃないじゃん。他の人といる方が笑ってるし……」

 鋭い言葉にうろたえる。

「そんなこと……ない……」

 それにしても、こんなことは考えたことなかった。突き詰められても何も言い返せない。そして重いとても嫌な雰囲気になる。

「それに前だって他の人の方が楽しそうだったし、別れるのもなかなか決めれないんでしょ?ほんとそういうとこ嫌い」

 それから僕らは口論を始めてしまった。僕にも不満はあった。でも一方的に言われたので僕の方も冷静さを失っていた。

 気付けば彼女は僕から逃げるように走って行った。その後ろ姿を止めることはできなかった。

 家に帰ると、どうしようもないストレスが襲ってくる。頭を掻き、イライラしながら部屋を歩き回る。友人に相談してもそれは治まらなかった。それでもどこかに苦しい思いがあって、ベッドに横になっても重く怠い呼吸しかできなくなっていた。

 シャワーを浴びていると唐突にそれは襲ってきた。それまでは彼女に対しての怒りだったものが、僕への怒りになった。

「どうしたらよかったんだろう」

 風呂場で悶え疲れ、動きが止まった時この言葉がポツリと出てきた。そして明日頭を下げようと決めた。風呂から上がり、寝る支度をしてベッドに横になると緊張が一気にほぐれて、深い眠りへと誘われていった。


 次の日、僕は朝早めに起きて彼女の家に行く支度をしていた彼女の家の住所は知っている。しかし付き合ってしばらく経っているのに、彼女の家に上がった事は無かった。それは彼女に言ってしまった不満の一つでもあった。

 アパートの扉を開け、外に出ようとすると見慣れた人がそこにはいた。

「芽依……さん……」

 そう、彼女だった。頭の中を様々な考えが瞬間的に交錯する。なぜここに居るのか、謝られるのだろうか、それとも別れを切り出されるのか。嫌な想像の方が頭を大半を支配する。

「ごめん!昨日は言いすぎた」

 僕は頭を下げて謝る。顔を上げると彼女は少し驚いた顔をしていた、そして視線を横にずらす。

「私も少し言いすぎた。拓也に対してちょっと不満も溜まってたし、今日はその……それを言いたくて」

 どうしても繋ぎ止めておきたい、僕はその一心だった。

「じゃあ!また、また次もっかいチャンス……欲しい」

 少しの間が空き、彼女は僕に視線を戻す、そしていつも通りの口調で、

「うん、私もそうしたい。だから、しばらく会わないでおこうと思うんだけど」

予想できない提案に驚き、頭が一瞬真っ白になる。

「え?」

 彼女は踵を返して通路の手すりを掴み、上を見る。空は雲が少しかかっているものの晴れていた。

「毎日居ると見えなくなるものもあるから、しばらく……さ。決めるのはその後にしようと思う。それでいい?」

 理解した。彼女はチャンスをくれたのだ。僕は彼女が見てるかどうかは知らないがうなずく。そして、僕に向き直ると話は終わり、と言った感じで

「じゃあまたね、あとでいろいろ決めるからメール送る」

そう言って最初に思っていたよりあっさりと帰っていった。そしてその後ろ姿は相変わらず綺麗だった。


「ほーん……じゃあ縁切られずに済んだんだ」

 電話越しに友人が言う。あの夜にメールで相談した友人だ。

「まぁ、でも三、四ヶ月会わない事になって」

 しばらく会えないと思うと辛かった。彼女の気が変わるんじゃないかと思ってしまうのだ。そんな様子を察してくれたのか、彼は

「でも、別れたわけじゃないしさ、チャンスはあるじゃん?」

と言ってくれる。

「まぁそうなんだけどね……」

「だけど?」

 ため息が僕の口から漏れる。やっぱり怖い、彼女が誰かに取られるのが。

「僕じゃなくてもさ、彼女みたいに格好良い人は男なんていくらでもできるんじゃないかな……ってさ」

 そう言って下を向く。これからのことを考えると、上を向く気力がなかなか湧かない。

「なんだ、そんなことかよ」

 笑いながら彼が言う。

「そんな感じだったらチャンスなんてもらえねーよ!チャンスあるだけ良いじゃんか」

 その言葉を聞くと何か重石が取れたように感じた。そうだ、本当だったら別れられるところだ。チャンスをくれるだけよかった。

「ありがとな」

「気にすんなよ、振られても慰めてやるからさ!ん、じゃあちょっと切るぜ?」

「おう、じゃあまた」

 その後の数ヶ月は割とすぐに経っていった。彼女とはメールやSNSだけで会話して、会う事は無かった。でも、いかに彼女が大切かを思い知る数ヶ月だった。そして会えない日々は飛ぶように過ぎていって、その日は来た。


 駅から出てくる彼女を駅前の噴水のところで待つ。スマホをいじっていると

「拓也」

と、呼ばれる。顔を上げるとそこには久々に見る芽依さんの姿がある。いつもよりお洒落で、アクセサリーなどをつけてきていた。

「久しぶり、だね。まぁメールとかのやりとりしてたから、そうでもないかもしれないけど」

「そう?私は会えなくて結構寂しかったよ?」

 いつもよりトゲがない感じがした。それが少し違和感に感じたけれど、気のせいだろう。

「今日の服、初めてみる。良いね、似合ってる」

 本心だ。しばらく会わなかったせいか、一段とよく見えた。

「拓也も髪切ってるじゃん、良いんじゃない?男前よ」

 久々に褒められたかもしれない。これは上手くいくかもしれない。そんな期待が胸に沸いてきた。

「そう言ってもられると嬉しいなぁ。んじゃあ、家行こうか」

 そう言って僕の家へと二人で向かう。あの喧嘩した日も最初はこんな感じで、そんなに問題はなかったはずだった。その記憶が蘇り少し緊張する。チラッと彼女を見ると彼女はいつも通りの雰囲気だった。


「いつものノンアルでよかったよね?」

 冷蔵庫を開け、芽依さんのために用意した缶を取り出す。

「ん、ありがと」

 すでに椅子に座っている彼女は缶を受け取るとステイオンタブに指をかける。

 僕は彼女がお酒を飲んでいるところを見たことがない。前だって電車で寝てしまうからと、ソフトドリンクで済ませていたし、飲みにいっても決まってジュースかノンアルコールだ。

「お酒やっぱり飲まないの?」

 そう聞くと彼女は苦い顔をして、

「前も言ったけど、電車で寝てしまうから」

とだけ言って缶を開ける。飲んで缶をテーブルに置くと、彼女は少し険しい顔で缶の縁を眺め、何かを考えていた。

 僕は彼女の向かいに座り同じノンアルを飲む。なかなか声がかけ辛い状況、こうなったときのために料理を作っておいたのを思い出した。

「そういえば、ご飯作ってたんだけど食べる?」

すると、顔を上げ少し和らいだ表情で

「うん、お言葉に甘える」

と答え、席から立ち上がろうとする。慌てて

「いや、一人で用意するから座ったままでいいよ!」

と言ってキッチンへと向かう。

 皿に盛り付けながら、僕は今日の様子について考える。少し彼女との雰囲気が悪い。なかなか話が弾みにくいし、彼女自身に話しかけられる状況じゃなさそうだ。

 二人分の食事を運び、同じ机で食べ始める。

「あのさ」

 重い雰囲気の食事で彼女が口を開く。

「別れよっか」

 重い言葉がかけられる。覚悟はしていた。しょうがない、もう終わりなのかもしれない。否定したくてもできない。

「そっ……か……」

少しの沈黙が場を制した。僕は受け入れる事しかできない。僕はできる事はしたから。

「わかった、芽依さんがそう決めたなら、うん、僕は……」

ここまで言ったとき机の下から「がすっ!」と重い音と、足に痛みが走る。

「痛っ!」

「ほんっとに!あなたのそう言うとこは、ほんっとに嫌い、ほんとに……ほん……とに……」

 蹴る力はだんだん弱くなり、声も最後はもう泣きそうだった。何も言えない。ただ、

「……ごめん」

としか言えなかった。彼女は溢れた涙を拭きつつ、

「なにがぁ……私も悪いよ」

そう言ってまた料理を食べ始めた。僕の視界はもうおぼろになっていて、ご飯の味はしょっぱいとしか感じなかった。

 食べ終わると彼女は荷物をまとめ、

「じゃあね」

とだけ言って静かに帰っていった。

 彼女が帰った後はほとんど覚えていない。ただ、泣いて寝るまで飲んだのだけは覚えている。


 目覚めると机の上で突っ伏している。あのときの食器が洗われずに机の上に放置されていた。

「しょうがない……よな……」

 そう言って彼女の食べた後の食器を片付けようとした。すると、何かを踏んだ鋭い痛みが走る。

踏んだものを手に取ると、それはイヤリングだった。

「これ、芽依さんの……か?こんなのつけていたっけ……」

 芽依さんは確かにネックレスはしていた。でも普段イヤリングはつけていないし、あの時付けていたかは思い出せなかった。

「こんなんだから、僕は……もっとよく見とけよ……ほんとに……」

 目が熱くなる。でもここで泣いたところでなにも変わらない。とにかくこのイヤリングを返しにいかなければ。でも、振られた次の日すぐに忘れ物を届けたり、連絡すべきなのだろうか。

 僕はその事ばかり考え、気づけば数時間が経っていた。このままではいけない。急いで友人に連絡をする。

「ん?どした?」

 いつもの口調で彼が出る。

「あの、さ。いや、昨日振られてさ」

 思い出し、涙が出そうなのを堪える、それでも声の震えは堪えれなかった。

「それで、芽依……さん、イヤリング落として帰っちゃってて……」

「お前、もう連絡した?」

 低い静かなトーンの声で航は言う。

「いやまだだけど……」

 そう言うと、更に低いトーンで、

「渡しに行け、今すぐ」

と、言われた。しかし、振られたすぐに彼女のところに行くのは抵抗しかなく、

「でもさ……」

と、ためらう。すると

「渡しに行け!お前!彼女に最後お礼言ってこい!どうせ言ってないんだろ!?ごめんしか言ってないだろ?」

そう言われ、思い出す。彼女にあまりお礼を言ってなかったかもしれない。少なくとも

最後は「ごめん」だった。それではいけない。

「わかった。行ってくる。ありがとう」

「分かったらさっさといけ!」

 そう言われ、一方的に切られる。有り難かった。そして、だいぶ前に貰った住所のメモを手に取り、カバンを持ち、イヤリングを眼鏡ケースに一時的に入れ、家を飛び出した。

 電車を数駅分乗り、彼女の家へ駆ける。早く。一秒でも早く。お礼を言わなければ。

 それでも家を出たのは遅くて、彼女の家の最寄駅に着く頃には日がだいぶ傾いていた。

 彼女のアパートの前に着くと、急に足取りは重くなった。不安と恐怖に襲われる。なんて言われるだろう。少なくとも冷たい反応だろう。でも、言わなければ。せめて「ありがとう」だけは言わなければ。


 インターホンを押す。

 ピーンポーンと音が鳴り、静かに扉が開いた。

 出て来た芽依さんはいつもと違ってだらしのない感じだった。

「まず、急に押しかけてごめん。こ、これ」

 そう言って眼鏡ケースからイヤリングを取り出し、手渡す。

「ありがと」

 ただそれだけ言って彼女はドアを閉めようとした。

「あのさ、芽依さんは僕のために色々してくれてたんだね、ありがとう」

 そう言うと、ドアを閉めようとする手と背中は止まり、代わりに震える声が出て来た。

「そうじゃない。ほんとは私がいい格好したかっただけ」

 そう言って彼女は僕の方に向き直る。

「今まで家に呼ばなかったのもそのせい。イヤリングも最後に気づいてほしくて……」

 見たことのない彼女の姿に驚き、なかなか頭に入ってこない。でも、僕を想ってくれていた。それだけで嬉しかった。

「でも、やっぱりしんどくて、辛くて。それになにも満たされなくて……」

 涙が溢れ、頬を伝っている。肩をわずかに震わせている。

「ごめん、そんなことも気づかなくって」

 すると彼女は目を擦り、震え続ける声で言う。

「私、すごく部屋が汚いんだけど」

「うん」

彼女は俯き、声にもなりきらぬような声で続ける

「それに、他にもいっぱい、ダメなところも、かっこ悪いところも……見せてないのいっぱいあって。お酒だって弱いし、今みたいにだらしないところもある……だけど……」

 彼女の言葉が詰まる。息が早くなっている。僕の鼓動も痛いほどで、速い。彼女は息を整えると、僕の目をしっかり見つめ、

「だけど、それもいつか全部……全部出すから、もう一回……もう一回チャンスを頂戴?」

 彼女の気持ちに応えたい。僕も彼女を失いたくない。こんな思いもうしたくない。必死に喉から声を出す

「僕も……また、だけど。チャンスが欲しい。もっと気にして……全部、全部受け入れるから」

 彼女の目に再び涙が浮かぶ。それでも口元はわずかに微笑んでいて、

「うん」

と、返って来た。

 すると、近くの学校から六時を知らせるチャイムが鳴った。

「じゃあ、もう暗くなるから帰るね」

 そう言ってその場から去ろうとすると、彼女は僕を呼び止めた。

「もう暗くなるから、家に泊まって行って?幾つか格好悪いところ見せるから」

 そう言って彼女は僕を家へと入れてくれた。

 その日の晩、僕は芽依さんと初めて二人で一緒にアルコールを飲んだ。彼女はすごく弱くて、すぐに酔ってしまった。その姿は格好悪いと言うより愛しかった。

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