きらきらにひかる

オトブミ

きらきらにひかる

時間というものは、平等で、有限で、残酷だ。生きている限り、誰しもが時の流れからは逃れられない。


大切なものは年を重ねるほどに失っていき、壊れていく。それでも時が経てば傷はいつか癒え、痛みを忘れていく。


わたしたちは、そうして、いつか来る終わりを目指して今日も歩んでいる。


*


蛍光灯が白く光る更衣室で薄水色のナース服に着替えると、わたしの1日が始まる。


病棟看護師の毎日は慌ただしい。検温、採血、薬の管理、清拭や入浴、食事の配膳、検査説明、カルテの記入、申し送り資料作成、医師との連携、患者さんやご家族の心のケアなどなど。日々、大量の業務を同時進行で進めていかなければいけない。


そんな中、全世界的で流行している新型ウイルスが医療界を逼迫している。


ウイルス対策に有効とされるマスクの買い占めにより、医療用マスクが不足するという異常事態に陥ったり。医療用ガウンが底を尽き、雨ガッパを着て患者さんの対応に当たったり。


少しでも体調がよくない場合は外に出てはいけない。世の中ではそんな風潮が漂っているようだけれど、看護師は例外だ。多少の体調不良を理由に仕事を休むことはできない。すでにろくに回りきっていない看護体制が崩壊するからだ。だからわたしたちは、今日もがりがりと心身を削られながら働いている。


その結果、当然看護師たちは慢性的な疲弊に苛まれる。わたしはいつも頭痛薬を欠かせない。


そんな極限に近い環境の中で看護師が感染すれば、世間様からは一斉に叩かれてしまう、救いのない世界だ。


もう辞めたい。自分の命を削ってまで他人の命を救う意味なんてあるのか。何度そう思ったことだろう。


だけど、わたしが辞めたら職場に大きな負担をかけることになる。たった3年目のわたしでさえ、主戦力としてカウントされてしまうほどに、看護師の人手不足は深刻だ。


そんなわたしたちにも、束の間の癒しの瞬間が訪れることがある。


莉生りおちゃん、いつもありがとうね」


心疾患で入院している松尾 木綿まつお もめさんがわたしに向かって笑いかけてくる。


松尾さんはいつも礼儀正しく、上品な笑顔でわたしたちを迎え入れてくれる。


入院患者さんの中には怒りっぽかったり、心が不安定になっている方も多い中で、松尾さんのような穏やかで優しい患者さんの存在は、毎日神経をすり減らして働く看護師たちにとってとても大きい。看護師の間では愛を込めて松尾のおばあちゃんと呼ばれている。


「わたしもりおっていう孫がいてね。本当に賢くて可愛いのよ。」


わたしが病室に入ると、松尾さんは良くこの話をする。


「今は両親と一緒に外国に住んでいるのよ。元気かしら。会いたいわ」


「…お孫さんたちもきっと松尾さんに会いたがってると思いますよ」


窓の外を眺めてそう呟いた松尾さんにそう返しながら、わたしの胸はきゅっと締め付けられる。


天涯孤独。松尾さんに身寄りはいない。


息子家族はみんな事故で死んでしまったんだ。そう教えてくれた松尾さんの旦那さんも昨年亡くなった。


「それじゃ松尾さん、何か気になることがあればまたいつでも呼んでくださいね」


そう声をかけて、名残惜しい思いで癒しの部屋を出た。


その日はいつもに増してやらなければいけないことが多く、ずっと時間に追われていた。


夕方、突然慌ただしい足音が聞こえてきた。血相を変えた看護師が走ってくる。


「松尾さんの容態が急変しました」


陽が沈み切る頃、松尾さんは息を引き取った。



*



翌日、いつも以上に頭痛が酷く、薬を飲んでも治まらなかった。全身がだるく重く、食事が喉を通らない。


その日は仕事を休んだ。

たぶんこれは、鬱だ。


人は死ぬ。いつか必ず、例外なく。誰しにも死だけは等しくやってくる。


昨日目の前で笑っていた人のところにも。


わかっていたことだった。担当していた患者さんが亡くなるのだってもちろん初めてのことではない。


だけど、限界近くまで重なり続けた疲労と、亡くなったのがあの松尾のおばあちゃんだったということが三年目のわたしには余程こたえたようだ。


その翌日も具合が良くなることはなく、この状態では仕事を続けることはできないと判断したわたしは、看護師長に休職を申し出た。


「何言ってるのよ内海さん、これはみんなが通る道なのよ。大変なのはみんな一緒なんだから。」


しかし、電話口の向こうで早口でまくしたてる彼女にそう一蹴された。


「いや、でも、本当にわたし辛くて」


「もうほんとにやめてね、ただでさえ万年人手不足で困ってるんだから。わかるでしょう?」


畳み掛けるような勢いで、ここで踏ん張れないのは看護師失格だ、と言われ電話は切れた。


その時、わたしの中で張り詰めていた糸がぶつり、と切れた。たった3年間だけど、わたしなりに仕事と向き合って来た。それなのに、看護師として失格とまで言われないといけないのか。


もう疲れた。


わたしは、病院で診断書を出してもらい、休職することにした。


その間、仕事のことは忘れて、ひたすらに怠けたり、これまで時間がなく、できなかったことに挑戦したりして過ごした。


休職期間の終わる3ヶ月後、わたしの頭に復職という考えは浮かんでこなかった。もう看護師に戻るつもりはなかった。


そうはいっても生きていくためにはお金が必要なので、とりあえずハローワークに向かってみた。


必要事項を用紙に記入し、待合のベンチに座って名前が呼ばれるのを待つ。


内海うつみさん、内海…りうさん」


「あ、はい、すみません、これでりおって読むんです」


「すみません、大変失礼致しました」


カウンター越しの若い男性が丁寧に頭を下げる。


「いえ、こちらこそふりがなつけなくてすみません、なかなか一発で読んでいただけないことが多くて」


久しぶりに手書きで自分の名前を書いたので、ふりがなを付ける習慣を忘れていた。


「わかります。僕もそうなんです」


顔を上げた声の主と目が合った。黒のフレーム眼鏡をかけた彼は二十頃だろうか。


「実は僕もりおって言うんです。字は違いますけど。あんまりいないですよね、同じ名前」


その言葉を聞いて、松尾のおばあちゃんの言葉を思い出した。事故に遭って亡くなった彼女の孫も同じ名前だった。


ぞくり、と背筋を何かが這い上がったような不気味さに立ち尽くしたのは目の前にいる彼の胸に付けられた名札に目が入ったからだった。


『松尾』


「え…」


頭の中を混乱が駆け巡る。


同姓同名の赤の他人?松尾のおじいさんの記憶違いで実際は本当に外国で家族と暮らしていた?


「あの…松尾りお、さんって言うんですか」


「え?はい。そうですが…」


「あ、あの、おばあさまは松尾木綿さんというお名前ではないでしょうか」


「…さあ…僕、施設育ちなので親族のことはよく分からなくて」


青年が怪訝な表情を浮かべたので、わたしは慌てて言い訳の言葉を並べた。


「あ…すいません。訳わからないですよね、こんなこといきなり言って。あの、わたしこないだまで看護師をやっていて、入院されていた松尾さんという方から、りおさんというお名前のお孫さんがいると聞いていたもので、つい。」


「なるほど、そんな偶然があったんですね」


「はい。でも、松尾さんのお孫さんは事故で亡くなられたはずなので、人違いですよね…外国に住んでいたとも聞いていたので…ほんとにすみません、変なこと言ってしまって」


「あ、いや」


目の前の青年が神妙な顔つきで遮った。


「僕、アメリカの施設で育ったんです。…幼い頃、事故で両親を亡くしていて」


「え…」


「当時のことはあまりちゃんと覚えていないんですが、あの時はまだ小学生だったので施設に引き取られて」


「…そうだったんですか」


「僕、おばあちゃんがいたのかもしれないんですね」


青年が寂しげに微笑んだ。


彼の名前は、凌央りおという字を書くらしい。小学六年生の時に爆発事故に巻き込まれて両親を失くし、孤児となったそうだ。彼の持つ、諦めと憂いを含んだ静かなはかなさはそこから来ているのだろう。


「では、あちらのパソコンで希望条件を設定して、求人をお探しください。…この不況で、だいぶ求人数は減ってしまっているのですが…すみません」


「そうですよね、大丈夫です、職種にこだわりはないので」


その後、松尾さんにサポートをもらいながら準備や面接を進め、保険会社の事務職として勤務することが決まった。


勤務先が決まったことへの感謝を伝えるため、松尾さんを訪ねたわたしを、彼は意を決したような表情で迎えた。


「…あの、もう、内海さんと会うのはこれが最後になると思うので…僕の、おばあちゃん…のことについて、教えてもらえませんか」


迷いと覚悟が混ざった瞳だった。


わたし自身、松尾のおばあちゃんのことを松尾さんに伝えないままで良いのかともやもやした気持ちを抱えて今日わざわざここに来ていたので、もちろん断る理由なんてなかった。


「わたしが知ってることなんて少しだけだけど、それでもよかったら。あ、夜ごはんご一緒しますか?もうすぐ上がられますよね?」


「内海さんが良いのなら…ぜひお願いします」


近くの洋食屋でオムライスを注文すると、松尾さんは寂しげな笑顔を見せた。


「僕、こんなお店でオムライスを食べるのなんて小学生以来です」


「あ…」


なんと言って後の言葉を続ければよいのか分からずに戸惑っていると、松尾さんが慌てたように続けた。


「あっ、ごめんなさい。反応に困ってしまいますよね…外食をしないことなんて僕にとってはもう当たり前で、特段悲しいとかそんな気持ちはもう今更なにもないんですが…なんだか辛気臭くなってしまいますよね、すみません」


「…外食されないんですか」


「はい。ずっと施設で暮らしていて、金銭的にあまり贅沢ができないのと、誰かと食事をするような機会もほとんどないので」


彼は事実を淡々と語っているだけのように見えた。第三者が勝手に想像する余計な感情を差し込ませるような隙間はそこには一切ないように思えた。


「施設で育ったのですが、中学生の頃はそれが原因で心ない言葉をかけられたこともあって。今思えば、アジア人がほとんどいない地域だったということもあったのだと思いますが…高校生になるとさすがに表立っていじめられることはなくなりましたが、友だちはあまりできませんでした。それ以降も人とはあまり深く関わってこなかったので…だから、正直なところ、仕事以外での人との接し方がよくわからないんです。」


「もし不快な気持ちにさせてしまっていたらごめんなさい」と呟く松尾さんの言葉に、わたしは慌ててかぶりを振った。


「いえ、松尾のおばあちゃんのお孫さんがご存命だったなんて、それを知れただけでもわたしは救われていますから。…欲を言えば、松尾さんと会わせてあげたかったですけど」


「会ったこともきっとほとんどないし、連絡もとってなかったはずなのに…覚えていてくれてたんですね、僕のこと」


「はい、よくお孫さんたちのお話をしてくれました。松尾のおばあちゃん、院内で人気者だったんです。」


それから、わたしはわたしが知っている松尾のおばあちゃんとのエピソードを話して聞かせた。


編み物が得意だったこと。

好きな食べ物はみかんで、辛いものが苦手だったこと。

散歩に出かけると花や落ち葉を看護師にプレゼントしてくれたこと。


病院を辞めてからずっと、抜け殻のような生活を送っていた。松尾のおばあちゃんのことをお孫さんに伝えるということは、看護師としてのわたしに残された最後の使命のような気がしていた。


「良かった。内海さんたちのおかげで祖母は幸せだったみたいですね。…ちょっと気が楽になりました」


「気が楽に?」


「はい。…僕は、あの事故の時のことはよく覚えてないんですが、父と母が僕のことを抱きしめて守ってくれた感触はなんとなく覚えているんです。…両親は僕を庇って死んでしまったけれど、もし僕がいなかったら、2人とも走って逃げれば助かっていたかもしれない。だからずっと、俺だけ幸せになっちゃいけない気がしていて。」


彼の漆黒の瞳の奥が深く濃い闇に翳る。


「別に自分のことは不幸だとも哀れとも思ってはいないんです。ただ、空気みたいだなって。僕は、誰とも関わらず、ただ呼吸をして、食べて、寝て、1日をやり過ごしてく。生きてる意味あるのかなってたまに思っちゃいます。」


松尾さんは力なく口角を上げた。


「だけど、祖母が幸せでいてくれていたなら、僕が生きているということが少しは許されるのかもしれないと思えて」


この人を1人にしておいてはいけない。直感的にそう感じたわたしは、思わずスマートフォンを取り出して言っていた。


「あの、連絡先、交換しませんか。わたしじゃ松尾さんのお友達にはなれませんか」


松尾さんは少し面食らったような表情をしていたが、「僕なんかで良ければ…」とメッセージアプリのIDを教えてくれた。


「よかったら、これからも夜ご飯ご一緒しませんか。わたし、けっこう安くておいしいお店、知ってるんです」


静かに悲しみと絶望を抱えている彼のことを守らなければ。そんな勝手な正義感に突き動かれ、それから1ヶ月に1、2回ほど、仕事終わりに夜ごはんを一緒に食べるようになった。


松尾さんがまとう空気には嘘がなく、彼と過ごす時間は、わたしにとっては思いがけず居心地が良かった。


空気が冷たくなってきた頃、駅前のビルで野菜天丼を食べていたその日、松尾さんはおもむろに口を開いた。


「今日、両親の命日だったんです」


サツマイモの天ぷらをひとかじりしていたわたしは、一度その手を止めて話を聞くことに集中することにした。


「この日を忘れたことなんか今まで一度もなかったのに、今日は朝ごはんを食べ終わって、新聞を取って紙面の日付を見る時まで、気づかなかったんです」


「…うん」


「人は忘れることができます。事故が起きた時も、直後はたくさんの人が手を差し伸べてくれました。だけど、時間が経てばみんな過ぎ去ったこととして処理していくんです。でも、僕が心に負った傷は何年経っても癒えません。僕だけはずっとこの痛みを忘れない。…そう思っていたのに」


どんな話でも平坦に、あるがままに話す松尾さんが、悔しさを色濃くにじませた声を出したことにまず驚いた。


「2人を亡くしてから、僕はずっと1人でした。また大切な人を失うことになるかもしれないと思うと人と深く関わることがこわかった。だから、僕にとっては心を許せた人って両親だけなんです。それなのに、どうして忘れたりなんか」


「…それは、松尾さんが未来を向き始めたんだって思っちゃだめなのかな」


唇を噛んで俯いてしまった松尾さんに向かって、半ばすがるような気持ちで言った。


「何が正しいかなんてわからないけど、わたしは、痛みをずっと覚えておくのが正しいなんて全然思えない。前に松尾さん言ったよね、生きてる意味あるのかって。わたしは、あなたはどんなに辛くても生きなければならないと思います。幸せになろうとしなくても良いから。それが生き残った者の義務だと思うんです。」


自分でも何を言っているのかきちんと理解できていないまま、勢いに任せて一気に言葉を吐き出した。


「病院で働いていた時、どうしようもない喪失感と悲しみ、やりきれなさを抱えて生きていくことになる人たちをたくさん見てきました」


泣き叫ぶ人。言葉も発せずに崩れ落ちる人。現実を受け入れられずに心の傷を抱えてしまう人。


脳裏に浮かぶいくつもの光景がある。わたしは何もできずに、ただ彼らを眺めているだけだった。


「人生に意味を持たせることって、わたしはけっこう贅沢なことだと思うんです。淡々と同じ毎日を繰り返すことだって、あなたの生き方で、あなただけのものです。」


わたしたちは、そんな生き方を望んでも叶わなかった人たちのことを知っている。だから、わたしたちは、どんなに悲しくても、毎日を歩んでいかなきゃならない。


「…ごめんね、他人が勝手なことばっか言って」


自分の意見が自分勝手で、押し付けがましい第三者のものであることに過ぎないことにはとっくに気がついていた。それでもわたしは、松尾さんにはいつかきっと来る優しい明日のために今を生きていてほしかった。


「…やっぱり、まだ、他人なんでしょうか」


松尾さんが絞り出すような声で言った。


「え?」


「…たぶん、僕はもう、痛いんです。内海さんを失ったら」


彼のくぐもった微かな声が届いた。


「…僕から離れないでもらえませんか。お願いします」


深く頭を下げた彼のか細い願いを、わたしはとても自然に受け入れた。わたしたちは、悲しみを乗り越えるため、寄り添い合うように導かれたような気すらしていた。


店を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。静かな歩道を松尾さんと並んで歩いているうちに、わたしももう一度、前に進んで生きていこうという気持ちになっていた。


「…わたし、看護師に戻ろうかな」


そう言うと、松尾さんは静かに頷いた。


苦しくて胸が張り裂けそうな時でも、悲しみに打ちひしがれている時でも、歯を食いしばって痛みに耐えている時でも、生きていれば必ず明日を迎えられる。


わたしの明日は、そんな人たちとその瞬間を一緒に乗り越えた先にあるのかもしれない。


見上げた空には、大きな雲の後ろからきらきらと光る星が姿を現したところだった。


どうか、傷ついた人たちが、顔を上げて未来へ向かっていけますように。


そう、夜空の星に願った。

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