背に腹は

文綴りのどぜう

背に腹は

#1日1本sss

「背に腹は」


次の試合で、あいつとはおさらばできる。その勝敗に関わらず。僕は今日の為に、今まで全てを捧げて打ち込んで来たのかもしれない。暗く埃臭い控え室で、水滴が星のように貼り付いたペットボトルを額に押し当てながら、そう考えた。

あの日、あいつが僕の父親を殺した日から、残された僕は復讐の為だけに生きてきた。だが、まさか僕とあいつ、2人ともが剣を修める道に入っていたとは驚きだった。知って驚くと同時に、怒り、憤り、怨嗟、昂り、などの感情達がうねる怒張となって行き場のない程身体から溢れるのを感じた。目から肌から呼吸の一つ一つから、マグマのように吹き出るそれらの熱を、僕はしっかりと筋肉に伝えた。傍らの木刀を握り込めたが、その手の内に余計な強張りはなく、むしろ柔和やわらかささえ宿していた。佇まいは澄み、煮えたぎる憎悪をしかし抑えられる自信が、身体を満たしている気がした。

遠くから足音がした。ハイヒールがアスファルトを打つ、硬い音だった。

「それでは、大和選手、場へお進み下さい。」

空にしたペットボトルを潰し、汗の滲んだ木刀を差して、僕は果たし合いが行われる場へ、ゆっくりと踏み出した。


場への扉の手前、僕は一旦立ち止まった。深呼吸をした、鼻に冷たい淀みが流れ込む。熱い波と化したそれを口から吐いた。目を閉じ、これまでの修行を思い出した。胸には幼き日の、今や褪せた父の面影が、背を押す手のような温かさを伴って去来した。また大きく溶岩の吐息を扉にぶつけ、ゆっくりと押して開いた。



眼前に構えた縦山実たてやまみのる、文字通りの親の仇である。彼は笑っていた。嗤ってはいなかった。ただ、今日の果たし合いの為に彼が打ち込み、薙ぎ倒した木偶でく案山子かかしの数、あるいは稽古を付けた手練の顔さえ、その背後に見えるようだった。それほどの気迫を放っておきながら、笑顔に揺るがない信念を見た。

「そのツラ、今に涙とはなまみれにしてやる」

言いながら僕も笑っていた。無念を晴らす。ただ屠る。そんなことを思いながら、父を想いながら木刀を振ってきたはずなのに、果たし合いの場にいざ立たされてみると、狂気乱舞したいほどのざわめきに包まれている自分が可笑しかった。結局、剣が楽しくて仕方なかったのだ。恨みを込めた一振りより、水の一太刀の清らかさに支えられてきたのだ。ただ只管ひたすらに剣の道に心酔しただけなのだ。仇の為でも、振るう太刀筋に濁りなどあってはならない。

「あぁ。恨みっこなしだ。」

実もそう返した。もう退けぬ。


向かい合う双勇、大和は青眼に、実は下段に構えた。笛が鼓膜を撃った。舞う砂埃の中、裂帛の気合と共に大和が打ち込んだ。犇めく観客達は、果たし合いが始まるまでじっと息を呑んでいたが、あまりの太刀の疾さに、わっと沸いた。そこから乾いた木刀二振りが続けざまに音高く鳴ること四つ。相次いで肉が裂け、血が散ること二度。混ざった色々な声たちが、立ち合いの場になだれ込んだ。

まるで、雲か霞か、或いは幻獣の如き妖姿だと、大和は思った。大和の怒濤の打込み、その連撃を右肩に受けたかに見えた実の身体がうねるように太刀筋をいなし、右手に鋭く重い痛みがーーー

大和の記憶はここまでだった。

どさりと、一つ、崩れ落ちた。

笛が鳴った。木刀を腰に納め、実は静かに座した。大和はゆっくりと抱えられ、奥へ運ばれていった。

数刻経って開いた彼の目には、切れかけの蛍光灯が見えた。配線が半分、天井から垂れていた。上体を起こすと、道着の脇に赤赤と染みが見えた。痛みはなかった。実の太刀筋は鮮やかに手甲、脇腹、翻って顎と三連、大和の雨の剛撃を躱して打ち込まれた。

「話せるかい」

実はおだやかに呼びかけてきた。

「もう、終わった事だ。僕は今日、父の首と自分の首を重ねたつもりで来た。殺してくれ。」

「俺はお前の仇なんだぞ!!なぜ燻ってやがる!!」

実は控え室の薄い壁が戦慄くほど叫んだ。大和は力なく応えた。

「仇ってのは、囲炉裏の炭みたいなもんさ。今日僕は赤赤とそれらを滾らせてお前に打ち込んだ。ところがその赤色は、今僕の腹から吹き出してやがる。もうやめたよ、復讐の為に刀を振るのは。だから、ーー」

「そうかい、」実は大和を遮った。

「俺はお前の、般若のような剣が好きだった。今日の立ち合い、お前の後ろに鬼が見えた。燃え滾る恨みが俺の目まで流れ込んできて、あんまりすごかったんで笑っちまったよ。本当に泣かされるかと思った。まだお前の中の炭が燃え上がるなら、また俺と立ち合いをしてくれ」

唇を歪ませ、笑顔を作って実は言った。

「実、お前には勝てなかった。べそをかいたのは、俺の鬼だったわけだ。これ以上俺と話しても、俺への慰めにしかならない。行ってくれ」

泣いていた。もう涙を止める手だてを知らなかった。

彼は何も言わず、扉へ歩き出した。寸前で踵を返し、うなだれる僕の肩を優しく叩いて、

「待っていてやる」

とだけ言って、実は奥の扉に向かい、ゆっくりと開けた。痛む脇腹を押さえながら、大和はそれを見送った。残された炭の欠片にまだ燃える意志があるのなら、と笑ったあいつらしくない、歪んだ矜恃が、その背中にべっとりと張り付いている気がした。扉の閉まる前、実の口元が吊り上がり、嗤い顔に変わるのを、大和は見逃さなかった。次があるなら。そこまで考え、大和は激しく顔を歪めた。ぐちゃぐちゃの面はやがて、張り付いた笑みに変わった。今度は、次こそは息の根を止めてやる。大和の剣は、また少し熱を帯びた。

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背に腹は 文綴りのどぜう @kakidojo

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