二つの出会い(3)

 明日からは冬休みという数週間の休暇に入るからか、教室内はいつにも増して騒がしかった。明日からの自らの予定を互いに言い合って何が楽しいというのだろうか。案の定、聞き手は「へー」や「いいなぁ」と相槌を打つだけでそれ以上は踏み込んでいかない。何故なら、興味が無いからだ。人は人に興味を持たない。友達なんてものは自分を成形する上に必須なだけ。そういった偽りの関係を築き続けているから彼、彼女らと親しくなりたいとは思えない。




 そんなことを考えている僕が一番嫌な奴なのだと自覚をしている。僕が他人に歩み寄らないのは、歩み寄った先に見切られる事が怖いから。僕はつまらない根暗な人間だからその場の空気にすらもなれやしない。


 教室の窓際、一番前の席にて僕は息を潜め手にしていた本を開いた。




 文を読み始めるよりも早く、背後から「それ、面白い?」という声がした。男性ではないハスキーな声音にツンと香る甘い匂い。


 振り返った先にいたのがニコニコの浜辺で少し身を引いた。初めて話したあの日からそれなりに期間が空いていた為、二度と話す事はないだろうと思っていた。浜辺は僕の背後の机に腰掛け見下してきた。物理的にそうなっているだけであって本当に見下している訳ではないだろう。いや、本当に見下されている可能性もあるからここは、たぶんを付け加えておく。




 振り返って気が付いたのだが、注目を浴びている。そりゃそうだろう。浜辺日和という生徒が一年生ながら文化祭のミスコンを手にし、それを辞退したのはまだ真新しい記憶なのだから。


「パンツなら見えないよ?」


 周囲からの視線を気にして言葉に詰まっていた僕とは正反対に、浜辺はまるで視線を気にしていない。それよりも今の発言では僕がパンツを見ようとしていた様にも聞こえてしまうじゃないか。


 深いため息は自然に溢れていた。


「なにか用?」


「その本面白いかなーって」


 何故か柔らかい笑みを浮かべている浜辺に恐怖心すら抱きそうだった。


「浜辺が話しかけてくるから一文字も読めてないよ」


「そりゃ悪いことしちゃったな。じゃあ、読み終わったら感想聞かせて」


 そう口にして立ち上がった浜辺は、小さなメモ紙を僕に手渡してきた。とりあえず受け取ってみると、紙に書かれていたのは電話番号だった。番号の横に日和と書かれていることから彼女の電話番号だと察した。


「電話番号ばら撒かれたいってこと?」


「んふふ、そんな訳ないでしょう。まあ、例えそんな事されても君以外の電話は着信拒否だから」


 君という呼び方に僕は少しだけ表情を歪めた。浜辺にも分かるように歪めた筈なのだが、彼女はお淑やかに微笑んで教室を後にした。微かに残った浜辺の香り。これは自然なものなんかじゃなく市販で売っているボディシートのようなものだ。それに気が付いたのはつい最近なのだが、まあ気が付いた時期などどうでも良い。ただ、浜辺と同じ香りを纏う生徒が校内には無数にいた。その度に一瞬でけ浜辺がよぎる。本当に鬱陶しい。




 机に伏していると聞こえてくるのはクラスメイトのひそひそ話…とも言えない声だった。


「おい、あいつ浜辺と仲いいのかよ」


「んじゃ、あいつと仲良くなれば浜辺さんとも関わる機会増えるんじゃね?」


「それだっ!」




 どれだ。このクラスの男子は馬鹿なのではないかと思い、数秒後には馬鹿だったと吐息を漏らした。もし、本気で僕を利用するのならもう少し声のトーンに気をつけるべきだろう。下心が丸わかりだ。




 終業式、ホームルーム。全てが終わりを迎えると教室内には緩い空気と期待の高揚感が入り混じっていた。一人一人がいつもより声の調子を上げるものだからその周囲にいるの人間もそうせざるを得なくなっていった。そうして、ざわざわとした居心地の悪い室内が作り出される。




 右を見ても左を見てもキラキラと目を輝かせている。普段は教室の隅にいる地味な人たちでさえ微かに高揚しているように思えた。この中には僕以外無感情の人はいないのだろうか。鞄に荷物を詰め、誰よりも足早に教室を出た。




 ドアを開けた所で人影が見えた。


「おっ。来夢、もう帰りか?」


 ぶつかりそうになったところで間一髪お互いに避け合う事ができた。


「勇ちゃん」


 勇ちゃんは僕の幼馴染みらしいだけあって中学の頃から仲良くしてくれている。本名は北見勇一。テニス部幽霊部員で背は高く、それなりに整った顔たちなのだが、女子からの人気はない。恐らく、勇ちゃんの魅力に周りがまだ追いついてはいないだけだろう。きっとモテモテになる。




 勇ちゃんは何か思い出しかのように僕に問う。


「来夢今日空いてる?」


「空いてるけど部活は?」


 勇ちゃんはニヤリと笑みを浮かべ、僕の出てきた教室を指差した。


「終わらせてくるよ」


 んししと笑っている勇ちゃんを見て僕も笑みを浮かべた。校内で人と話して笑みを浮かべられるのは勇ちゃんだからだ。たまにはこういうのも悪くないと思った。すると、僕の肩に何か重みを感じた。


 目の前にいる勇ちゃんの表情が強張っていき、目はキョロキョロと怯えているようだった。振り返ると、フワッといつだかの自然な甘い匂いが香った。浜辺によく似ているが薄っすらとした香り。




「何が終わるのか聞いてもいいかな?北見君」


 振り返ったことを後悔した。僕の肩に手を乗せていたのは昇降口でお世話になった部長さんで、勇ちゃんが怯えているのもこの部長さん。前に見た時と同じ容姿の人が笑みを浮かべているとは思えない程に、迫力のある笑顔だと思った。


「出たな、ジョーカー…」


 勇ちゃんの発言に反応して僕の肩に負担がかかる。強く握りしめられたのだ。


「誰がジョーカーですって?そんな裏社会を牛耳る人間の通り名を私に付けないでくれる?」


 僕は何か面倒なことに巻き込まれているような気がしてきた。だが、そんな時にはもう手遅れになっているというのが世の習わし。ヒートアップしていく二人の間に挟まれ罵声を浴びせられる。




「ジョーカーって言ったことにそんなに深い意味はねーよ」


「じゃあ何?私が悪い顔でもしてる訳?」


 言葉は不意に浮かんで気がつくと口にしていた。


「ジョーカーっていうよりも、ド田舎オカンって感じ」


 僕の意外な発言に、二人の口論は止んだ。


 そして二人から向けられた視線に身体が強張った。「なに?」と問いただすと二人はあははと大声で笑い始めたのだ。よく分からない笑いの輪の中に囲われた僕はただじっと佇んでいる事しかできなかった。


 そして、冷静さを取り戻し勇ちゃんは部長さんに何かの事情を話し始める。


「悪いけど、俺はこのままテニスは出来ない。残り約二年…俺は」


 勇ちゃんは僕の肩を嬉しそうに叩いてきた。


「俺はこいつとまた、思い出を作りたいんだよ。今の来夢とな」


 場の空気感が重くなるのを感じて僕は声にしてみた。なにを言うかも分からぬままただ、言葉にしなければいけないと悟ったんだ。きっと、僕のこれまでのことを知っているから、勇ちゃんは僕を気遣っている。そんなことを僕は望んでなどいないのだから。




「あんまり気にかけられても困るんだよね。若干鬱陶しいし」


 それは思ってもいない言葉だった。勇ちゃんは空いた口を塞ぐ事すらも出来ずにじっと僕の方を見ていた。けれど、ニタリと悲しみの含んだ笑みを浮かべ「来夢ごめん、部活あんの忘れてた」と言って勇ちゃんはこの場を後にした。




 なにも感じないと言えば嘘になる。何か感じたと言っても嘘になる。僕の選択肢の中に勇ちゃんの気持ちを汲んでやれるものは無かった。だから、せめて勇ちゃんが自ら作り上げた校内での関係に水は刺さぬように退ける。




 去り行く勇ちゃんを見送った僕は部長さんに視線を向けた。お先に失礼します。そういった意味を込めて視線を向けたのだが、なにか勘違いをされたのか、少し話さないかと中庭に連れ出されていた。


 勿論、合意の上でだ。


 部長さんの部活動が始まる時間までそんなに有余がないらしくを簡潔に話すねとだけ、呟き立ち話しを始めた。




「まず、私と北見。そして川谷君じゃなくて、来夢。来夢って呼んでいいよね?」


「どうぞ」


 部長さんは頷き話を続けた。


「私らは同じ中学だったの。だからさ、来夢に起きたことなら他の誰よりも詳しいつもりだよ。何かあるなら私と北見に相談して。いつでも相談乗るからさ」


 親切が滲み出ているからなのか、薄っぺらく軽薄な言葉を並べられた気がした。一時は女の子と二人っきりでの中庭に胸を高揚させていた。けれど、そんな感情すらも虚しく感じてしまって、冷めた。




「あー、さむ。まあ、心配してくれてありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」


 この場を立ち去るのを寒さのせいにするため大袈裟に身体を擦り寒さをアピールした。


「まって」


 背中に声をぶつけられた気がした。けれど、それは気のせいなのだと思えば本当に気のせいになるものだった。なにもなかったかのように僕は帰路を急いだ。




 着いてくる足音もなくて、安堵した。嘘。本当は少しだけ寂しさに似た感情を抱いたのだ。だが、そんなものを抱いているようじゃ僕は僕として成り立てやしない。だから、嘘をつく。自分にも他人にも。




 本当は、勇ちゃんの言ったとおり僕だって思い出がほしい。出来ることならば部長さんのことももっと知りたい。けれど、僕が勇ちゃんと部長さんに関わるということは今の自分を否定していくことに比例してしまいそうで、怖かった。




 学校から歩いて十五分。何処にでもあるような臼水色のアパートに僕の住む部屋がある。この部屋は一年くらい前に僕のお姉ちゃんこと、詩子姉が借りてくれたアパートなんだ。




 詩子姉は中学の教師をしていて、丁度僕の学校の先生をしていた。身内のいる学校に就任するなんて本当に珍しいこともあるものだと思った。


 詩子姉が僕の中学に就任すると決まった時、一体どれだけのすっとんきょうな顔をしただろうか。想像しただけで笑けてしまいそうだ。その時に僕は何て言っただろう。母は何と声をかけただろう。父はやはり、就職を喜んでいたのだろうか。詩子姉から話には聞いていてもその時を知ることはない。




 僕は記憶が無いんだ。


 いつからの記憶がないのか。もうそれはずっとだ。生まれた時から記憶を失くすまで全てだ。


 激しい頭痛の中、目を覚ますと突然何もかも度忘れしてしまった感覚だ。そして、いつまでもその度忘れが続いていて思い出せないことに歯痒さすら感じられる。




 けれど、主治医の言うことによれば無理して思い返す必要もないという。その内治ることがほとんどのケースらしく、重く考えすぎないようにと何度も優しい言葉をもらった。


 ただ、その治ったあとのケースとして二つの事例を聞いて少し怖くもなった。


 一つは僕が全てを思い出した時、何もなかったかのように記憶を失くした日からの続きを歩むことになる。もう一つは、全ての記憶を持ったまま昔と今の自分。そのどちらかを確立しなくてはいけない。




 元々、僕が記憶喪失にったのは家族での交通事故が原因だという。そして、その時に両親を失くしてしまったらしい。正直、なにも覚えていない状態では残念程度にしか思えない。だが、記憶を失くした日、つまり事故に遭った日からの日常を歩むとするのならば突然亡くなった両親のことをどう受け止めたものか。




 そして、後者だった場合も残酷なのだ。なぜなら、自分の人格が二つあることになる。どちらかひとつを選ぶとことはどちらかひとつは選らばないということになるんだ。それはある意味自殺とも言えるだろう。


 だから、僕は思う。記憶なんてもう要らない、と。

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