二つの出会い(2)
青く点滅する信号機に差し掛かり、僕は足を止めた。少し走れば渡り切る事も出来ただろうが、そうしなかったのにはいくつかの理由がある。勿論、大した理由などないが疲れるから走らないとかでは無い。
僕には好きな小説家がいる。今手にしている本がまさにその作家さんの本で、全ての作品を読みたいのだが出版された本の数が多すぎてまだ時間がかかりそうだ。作家さんのペンネームは雨宮恵。高校生の頃に大きな賞を手にし、大学在中に十作品を出版し、いずれも読者の心を掴み大ヒットを飛ばした。日本人を代表する恋愛小説家と謳われていた程だ。綴られる文章は、キャラクターの表情、景色を読者の脳裏へ繊細に刻み込み、一文字一文字からは感情が溢れる様で、感情移入から免れる手立ては無いだろう。きっと雨宮恵の作品を第三者として客観的に読み進める人はいない。作中のキャラクターの誰かに自分を当てはめて読み進める。
僕にも自分と当てはめてしまうキャラクターがいた。
雨宮恵はある時から五年もの間、小説から退いていたという。密かに引退まで囁からていたらしいがやはり大物作家。『明日来る夢』という作品をきっかけに再び作家としての道を歩み始めたのだ。作品を出版する頻度は少なくなったと言われたらしいがそれでもいくつもの作品がドラマ化、映画化と実績を残していった。
そうだ、僕が自分と当てはめてしまうキャラクターとはこの復帰作品の主人公だ。
『アスクルドリーム』主人公マヒロの成長を描く作品で、雨宮恵初のシリーズ作品だ。
マヒロは小さな擦り傷一つで大泣きしてしまう泣き虫で、夜中のトイレには母親の同伴で無いと行けないような弱虫の泣き虫。この部分に深く共感出来てしまった。擦り傷で泣いた記憶も夜中のトイレの度に母を起こしに行った記憶んも無い。けれど、そんな自分を想像するとそれらしく思えて笑けてしまうんだ。
そしてこの先綴られていたマヒロの成長した姿はある意味僕の理想像に思えた。
マヒロが高校に進学した頃、両親は仕事が忙しくなり一人でいることが増えていた。身体も小さくて気の弱いマヒロは真っ先に虐めの対象になった。心は荒み、相談する事も出来ず、名前の付けようのない何かを憎み続けた。そんなマヒロの力になろうとしていた担任の女教師はこう言った。
『暗い顔をするな。ここは地獄じゃない。焦ることなく一歩一歩、我が道を歩んでいけばそれで良いじゃないか』
僕はこの描写で涙を流した。マヒロの胸には奇しくも響いてこなかった様だがまさしく名言と呼べるセリフだった。
僕はこの作品のこのセリフを胸に、焦ることなく僕だけの道を一歩一歩進んで行きたい。例え、校内の女子に笑われようとも、目の前の信号機が点滅しようとも。焦ることなく僕の歩調で歩んで行く。
ふわっと背後から柔らかい風が吹いた。
「君、信号変わっちゃうよ」
か細い肩の上でヒラヒラと揺らめく髪の毛から部長さんとは異なり、甘い匂いが強く香る。それでいて奥深い柔らかさが僕の鼻先を刺激した。顔は見えやしないが僕に笑いかけている様に感じた。
手を強く引かれ点滅する信号機を通り過ぎた。横断歩道を渡りきり信号機の方を振り返った。視界が白濁した煙で覆われていたが赤い光だけはしっかりと捉える事が出来た。
行き交う車のライトを見て息を呑む。
「あ、危ないじゃん」
つい溢れてしまった僕の本音に彼女はあははと笑って誤魔化した。呼吸を荒くした彼女も徐々に落ち着いて来たのか、吐いた息が空気に溶け込むよりも早く話し出した。
「私の人生っていつも駆け足なのよっ」
真っ直ぐな瞳で見つめられても、彼女の言わんとして要る事がまるで伝わってこない。
「意味わからないし…」
驚きが勝っているお陰か、今は女子が目の前にいるというのに冷静に顔を見て話す事が出来ている。そして、彼女の顔を僕はよく知っている、というよりも僕の高校に通う人ならば全員が知っているだろう。つい先日に行われた文化祭イベントの一つミスコンの女子部門で一年生ながら一番を勝ち取っていた。にも関わらず、興味がないと口にして辞退したと言う。その異例の出来事で彼女は、浜辺日和は良くも悪くも校内の有名人となった。
僕の通う高校は至って普通の県立高校なのだが生徒の人数だけは多い。その中で一番を手にするのだから美人で当たり前だ。けれど、近くで見ると想像よりも遥かに綺麗で見とれてしまいそうだった。
「なに?じろじろ見ないでくれる?」
見とれていた様だ。本当に男とは馬鹿な生き物だ。ミスコンを辞退した事もそうだが浜辺からは良い噂を耳にしない。それに今の凍てつく様なきつい口調…。
ふと、廊下ですれ違った女子が口にしていた事を思い返した。
「浜辺さんてきつい口調と柔らかい口調、二つを使い分けて男落としてるらしいよ」
「男をその気にさせるだけさせておいて告白は全部無視なんだって」
「何それ、あんな女に騙される男子も悪いけどさ、流石に同情しちゃうね」
危ない所だった。僕も危うくこの女狐に騙されてしまう所だった。顔も名前もしらぬ、少し感じの悪い女子に感謝しなくてはいけないな。
僕は浜辺に言葉を返す事なくその場を離れようと思った。今度こそ自らの歩調で着実に帰路を歩いた。
「君、名前は?」
ひょいっと僕の顔を覗かせて来た。それでも僕は靡かない、罠と知っている餌に食らい付いたりなんかしない。
「ねー。きーみー」
可愛いと感じている反面、鬱陶しくも思えてきた。何より、人の名前を君呼ばわりするのは失礼極まりない。小説ならば有りなのだろうが現実では無しだ。シンプルに言われている方は不愉快になる。
「君ってば!」
プチっと堪忍袋の尾が切れる音がした。気のせいでしかないことは分かっているが、その気のせいが少しだけ僕に勇気を与えてくれる。
「君、君、君、君、耳障りなんだよ」
僕は声を荒げた。
キョトンと小首を傾げ「じゃあ、名前は?」と問われる。
「はあ、なか…あ、いやどうだっていいだろう。僕みたいな挙動不審のキモい奴にまで手出すなよ」
今度は眉間に皺まで作って何の事か分からない素振りをしていた。一見すると本当に心当たりのない様に思えてしまうから怖い。
浜辺は、ん〜と唸った末に、ぱあーっと表情を明るくした。ニヤニヤとして僕の歩調に合わせながら再び顔を覗かせてきた。
「中村…くるむ?」
再び眉間に皺が集められた。恐らく、僕の名札を見て名前を知ったつもりだったのだろうが僕の名前の読み方がわからないのだろう。
「くるむじゃないです」
浜辺は再び、ん〜と唸っていたが、突然頭上にビックリマークが付いたかのように顔を上げた。ふふんと鼻を鳴らし自信満々の勝ち誇った笑みを浮かべた。
「分かったぞ〜」
「へー」
「ズバリっ、キム!」
「んなわけあるか。日本人から離れるなよ」
「じゃあ正解は?」
よくよく考えてみれば浜辺だけ僕の名前を知らないと言うのはフェアじゃない。だから致し方なく溜息混じりに答えた。本当はあまり口にしたくはない名前だったのだが…。本当の本当に致し方ない。
「来る夢と書いて、らいむって読むんだよ。自己紹介の時に鼻で笑われたりしてさ、面白いだろう?」
僕が苦笑ぎみに答えると浜辺は真顔のまま話し始めた。
「いいえ、面白くなんてない。と言うより素敵な名前だよね。来夢って爽やかなイメージがあっていいじゃん!」
「そ、そう?」
「うん!」
名前を素敵だと言われただけなのにひょっとしたら浜辺は良い奴なのかもしれないと思ってしまった。これだから、女の耐性が付いていない僕はダメなんだと自分の弱さを恥じた。だが、よく考えてもみろ。隣にはミスコンで一位を取る程の女子が白濁した息の中に顔を顰めているんだ、きっと僕じゃなくても見惚れてしまうだろろうに。
次の交差点に差し掛かった時、浜辺が声を漏らす。
「じゃあ、私ここ左だから」
「あ、うん」
浜辺は薄ら笑みを浮かべ、またね、と手を挙げた。僕も軽く手を挙げるだけはした。
僕から視線を切った浜辺は何回かこちらの様子を伺っていたが、あえて気が付いてはいないフリをした。これ以上関わらなければ、きっと思い出として消えていくのだろうから。僕にとってはそのくらいが良かった。
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