愛しい声

ツヨシ

第1話

私は耳が聞こえない。

幼い頃は聞こえていたのだが、ある日高熱を出して死にかけたことがあった。

命は助かったが、その日以来耳が聞こえなくなってしまったのだ。

そして今、私は青木ヶ原の樹海にいる。

遊歩道やキャンプ場などではない。

普通の人が足を踏み入れないような場所だ。

――もうすぐだな。

迷わぬよう、目的地にちゃんと着くよう尊重に歩く。

そして着いた。

私はここに来たかったのだ。

段差になっているところに腰をかける。

そして体の力を抜き、精神を穏やかにする。

すると聞こえてきた。

聞こえないはずの私の耳に、はっきりと。

「また来てくれたのね。嬉しい。会いたかったわ」

「俺もだよ」

「しばらくいるんでしょう」

「いるよ」

「ありがとう。愛しているわ」

耳に優しい女の声。

声だけでその姿は一度も見たことはない。

声はすぐそばで聞こえるのに。

でも俺は幸せだ。

彼女の声を聞くだけで。

そのために樹海に来ているのだ。

俺はいつものように他愛もないことをしゃべった。

何処そこの店はどうだった。

会社の同僚がこんなことを言った。

近所の男の子が俺の庭でいたずらをした。

などなど。

内容などほとんどない。

それにたいして彼女は相づちをうち、笑い、優しい言葉で返してくれる。

俺は彼女が何者なのかは知らない。

彼女は自分のことは言わないし、俺も聞かないからだ。

でもそれでいい。

それでいいのだ。

「少し暗くなってきたな。もう帰らないと」

「そうね。残念だけど仕方ないわ。また来てくれる」

「うん。近いうちに来るよ」

「嬉しいわ。待ってるから、いつでも来てね」

俺は立ち上がり歩き出す。

暗くなる前に樹海を出なければならない。

でもまたすぐにここにやって来るだろう。

なぜならここにはこの世で一番愛しい人がいるのだから。


        終

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愛しい声 ツヨシ @kunkunkonkon

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