我が家に伝わる、寿命が縮む呪術は覚悟と感謝で

網野 ホウ

カミさんへ。俺を呪ってくれて、ありがとう

 俺がまだハイハイできなかった頃のこと。

 そんな小さい頃、小さい顔が付いた毛玉が俺の所に近寄ってくる記憶がある。


 一生懸命な顔をしてた。

 そして俺の隣に来てくっつくんだ。

 俺がそんな小さい頃のことなのに、その毛玉はそんな俺よりも小さかった。

 よく見ると、手足があった。それを一生懸命動かして、俺の所に真っ先に来た。


「俺の後輩でペットを飼ってるやつがいてな」


「それで?」


「生まれたはいいんだが、たくさんいるから育てられないっていうんでな。カミさんに聞きに行ったんだ」


「え? 寿命減るんじゃない?!」


「願い事以外の用なら問題ない。質問も自由にできるし答えてもらえる」


「そ……そうならいいけど……。でも寿命を削られる実感はないから……」


 俺が生まれて間もなくして、親父は犬の赤ちゃんを一匹譲ってもらったらしい。

 我が家に一度に二つも可愛いものがやってきた、みたいなことを言って喜んでたとか。


 この話は、俺が八才くらいの時に聞かされた。

 家族の一員になった雑種の犬、ケイトのことじゃない。

 家族の命、寿命を吸い取るカミさん……言うなれば死神の話だ。


 我が家は、江戸時代から、今住んでいる所から始まった、と聞かされている。

 何度か立て直ししてるけど、土蔵は当時のまま今も家の中にあり、我が家に伝わる言い伝えと共に残っている。


 人の力で解決できない問題が起きたら、寿命と引き換えにカミさんのお願いしなさい。

 間違いなく解決できるから、と。

 そのカミさんは、土蔵の入り口の横に現われる。


 お袋が俺を身ごもった時の話だが、車か何かの事故に遭ったんだと。

 お袋と親父が、お袋のお腹の中にいる俺の無事を願うため、カミさんに会いに行った。

 お袋はうちに嫁いできて、この時初めてカミさんと会ったらしい。

 親父は、何度か会ってたらしく、その時にはすっかり見慣れたから驚かなくなったと言ってた。

 お袋はその時親父に支えられてもらったらしいけど、恐ろしさの余りおしっこ漏らしそうになった、とも言ってた。


 その話を聞いて二年後、俺も初めて会うことになる。

 そのときは怖くて泣きそうになった。

 フード付きの茶色い布切れをまとってた。

 その顔はとても痩せてた。骸骨と思ってしまった。

 だって目はなかったんだから。

 ただ、唇らしきものがあったから、ミイラか何かかとは思った。


 その時の経緯はこうだ。


 一流会社の要職についてた親父は、部下のミスをかぶった。

 倒れかけた会社は何とか立ち直って、部下達も仕事を続けることができた。

 けど、ミスの責任は、親父が退職金なしに退職することで帳消しとすることになった。

 次の仕事を探してるけどなかなか見つからない。

 このままだと生活が苦しくなる。


 ケイトを誰かに譲って、少しでも生活費を抑えるつもりでいたらしい。。

 でも俺にとっては、小さい頃からずっと一緒だった。


 両親が買い物に出てる間、俺だけ留守番してたことが何度もあった。

 一人で留守番くらいできるよって見栄はって背伸びしてた。


 でも初めての留守番では、心細さに耐えきれなくなって泣いてしまった。

 そんな時、ケイトが慰めに来てくれた。

 まだまんまるな毛玉っぽい体にちょこんとくっついてる短い手足を一生懸命動かして、俺のところに来るんだよ。

 僕がいるから大丈夫だよって言いたげだった。

 俺より小さいくせに。


 一緒に遊んでる時はほんとに楽しそうな顔するんだよ。

 でもその表情と、あの時の表情、全然違ってた。


 心配してくれて、励ましてくれてありがとうって思いで力いっぱい抱っこした。

 そしたらキャンキャン鳴いてさ。

 ハッとしてケイトの顔を見たら、今度は苦しそうな顔をしてた。

 慌てて離して、ごめんって声に出して謝った。


 ずっと尻尾を振りながらケイトのやつ、しょーがないなー。まだまだ子供だね、って言わんばかりの顔をしてまた近づいてきて、俺の顔をペロペロ舐めてくれた。


 その後も俺を支えてくれたケイト。

 そんなケイトと離れ離れになるなんてとても耐えられない。

 ケイトは別れるのは絶対嫌だ! って泣いて、そのときも思いっきり抱きしめた。

 でもケイトはすっかり大きくなっていて、俺に力いっぱい抱きしめられても平気そうにしてた。


 親父とお袋は困った顔をしてた。


「我が家の一大事だから……カミさんにお願いしてみようか」


「寿命、減らされるんでしょ?」


「……私のためじゃない。家族が一緒にいる間、いつも笑顔が絶えないように、だ。寿命の長い短いは私達には分からないし、いつかは死ぬもんだ。それまでの間、幸せな時間を過ごすか、辛い時間ばかり過ぎていくか、どっちがいい?」


 俺はまだ子供だったから、難しい話は分からなかった。

 親父とお袋の間で話はまとまったらしい。


「お前も一緒に、カミさんに会いに行くぞ」


 厳しい顔つきで親父は俺にそう言って風呂場に連れていかれた。

 

 冷たい水で体を清めるんだ。

 親父は俺にそう言ってきた。


 その後お袋も同じように体を洗い、礼服のような服に着替えて庭の片隅にある神社にお参りをした。


 この時、生まれて初めて、俺の起きている時間が夜の十二時を越えた。

 物心ついてから初めて知ることはたくさんあるけど、知らないこともたくさんあった。

 家の中の天井付近に神棚があるんだが、踏み台がないと手が届かない。

 そんな高い場所に封筒らしい物があった。

 もちろん普段から見えない位置。


「絶対中身を出してはならない。呪文が書かれている紙が入ってる。古ーい時代の物だから、この封から出し入れするだけで紙が切れたりするかもしれない。見てはならないのではなく破らないように、だ」


 親父は真剣な顔をして俺にそう教えてくれた。


 いろんな苦しいことが世の中にはあり、どの家庭にもやってくる。

 でも我が家には、乗り越えられる手段がある。

 その手段を失う一大事は避けなければならない、ということだろう。

 

 でも当時の俺には、ケイトと別れる以上に大変な事はなかった。

 それを避けるためというつもりで、俺も真剣な顔で思いっきり頷いた。

 親父は少しだけ微笑んだ気がした。


 土蔵の中には何度も入ったことがある。

 けど今回は何か空気が違う気がしたのは、初めてこの時間帯に見たからか。

 いつもは履物を履いてその中に入るんだけど、礼服を着たままの親父とお袋の足は裸足。

 俺も裸足にさせられた。

 土蔵の入り口の、向かって右側の方に正座をし、両手をついてお辞儀をした。


 現れた者をなるべく見るな、と言われた。

 見た目は恐ろしいが、願い事を叶えてくれる存在。

 だから取り乱さないように、とのこと。

 そして求める見返りが見返りなだけに、畏れの気持ちを込めてカミさんと呼ぶように、と言われた。


 しばらくして何かの気配を感じた。

 視線を少しずつその方向に向けた。


 目に入ったのは筋と皮だけの両足。

 爪はボロボロで骨の凸凹が見えた。

 俺は生唾を飲んだ。


「ほぅ、初めて見る顔だな」


 しわがれた、しかも地の底から聞こえてるくような響きを伴う声。


「はい、長男です。これからはこいつもお世話になることがあると思います」


 「そうか」という短い返事にすら、この世のものとは思えない恐ろしさを感じた。


「……ワシを見て逃げなければ、お前の息子と認めよう。……坊主、ワシの顔を見ろ」


 恐ろし気なその声に釣られるように、恐る恐るその顔を見た。


「ほう、頼もしい後継ぎが出来たものだの。……今回の用件は何だ?」


 怖くて両親の後ろに隠れたかったけど我慢した。

 それが、少しだけ気に入られたみたいだった。


 それから親父はカミさんに願い事を伝えた。

 今の職場を定年退職まで勤続し家族を養えることと健康の維持。


「ふむ……。よかろう。その坊主が一人でも生きていけるくらいの年までは生かしてやろう」


 つまり、俺も大人になって立派に働くようになるまでは、二人は元気でいる、ということだ。


 けれど……

 いいのか?

 それでいいのか?


 俺は、わがままでケイトと一緒にいたいと言い張った。

 両親の寿命と天秤にかけて、ケイトの方を選んでしまった。


 親に向かって、俺とケイトが一緒に居られるために死ね。

 そう命じたも同然だ。


 親を殺す罪を犯した気になった。

 親に対して罪深いことをしてしまったのではないだろうか。

 

 自分自身に恐ろしさを感じ、思わずカミさんに縋ろうと顔を上げた。

 再び俺は、恐ろしい顔を見た。

 けど恐ろしさは感じなかった。

 それより恐ろしいものが、十歳になったばかりの俺の中にあることを知ったから。


「お前の倅も、なかなか恐ろしいことを考えるな」


 カミさんに見透かされた気がした。

 しかしこの願いを取り消したって、自分の心の恐ろしさは消せない。


「犬を飼いました」


 カミさんは俺の事を話ししてたのに、親父はいきなりケイトの話を始めた。

 

 親父も恐ろしさの余り、気が変になったのだろうか?

 そう考えたら、ますます俺のしでかしたことが恐ろしく感じた。

 けど、そうじゃなかった。


「私は父親です。しかし父親でありながら、親として至らないことが数多くありました。けど子供は飼い犬と仲良くなり、人の心が育っていきました。犬も家族同然です。三人と一匹が一緒の幸せな時間を過ごしたいのです」


「お前の子供は、その犬との生活と親の命の二つをどっちが大切か比べているぞ?」


 自分の醜い部分を言い当てられて、俺は泣きそうになった。

 親父は背中をまっすぐに伸ばして、カミさんに真剣な目を向けていた。


「子供の生きるべき時代は、親が生きた時代のあと。親よりも先に子供が亡くなる家庭もある。けれど、カミさんが私達の願いを聞き届けていただけるなら、私達の死後も子供が元気でいられることでしょう。親冥利に尽きます。家内と共にカミさんに寿命を吸い取られながらも、成長する息子と少しでも一緒に生活出来ること、有難く思います」


 親父はそんなことを言っていた。

 お袋もいつの間にか姿勢を正して親父の話を聞いていた。


 カミさんは、「ふむ」と一言うなってた。


 そしてその恐ろしい顔を俺に向けて近寄ってきた。

 そしていきなり怒鳴られた。


「両親はそう思っているぞ……? ……思い上がるな! 両親の命と飼い犬の生活の天秤? ガキが何様のつもりだ! 何もわからぬ者が、何でも知っているかのように物事を語るな!」


 近所、いや、町内中に響き渡るような、地の奥底からのような声が俺に襲い掛かってきた感じがした。

 俺は恐ろしさの余り、いつの間にかお漏らしをしていたらしい。

 けどそれを気にするどころじゃなかった。

 恐ろしい姿のカミさんが発する怒気を受け、足を前に投げ出して尻もちをつく格好になった。

 俺は声を上げて泣き出した。

 ただ怖かった。

 そして、その怖さに耐えきれなくなかったから。

 とにかく何かに縋りたくて、泣きながら出てきた俺の言葉、「ごめんなさい」は、さらにカミさんの気持ちを逆なでした。

 そんな俺の頭を、親父が撫でてくれた。

 そんな俺の背中を、お袋がさすってくれた。

 

 両親のその手の温かさが、怖さの正体に気付かせてくれた。


 赦してもらいたいけど赦してもらえなかったらどうしよう。

 そんな恐怖で泣いてたんだ。


 縋る相手はカミさんじゃなくて、親父とお袋だった。

 だから真っ先に親父とお袋の方を向いて正座しながら謝ったんだ。


 何度も謝ってるうちに、カミさんの地響きの声が聞こえてきた。


「……よかろう。その願い聞き届けた」


 俺はそのままいつの間にか眠ったらしい。

 その次の日、目が覚めたのは俺の右側と左側で、布団に入って寝ていた両親に挟まれた布団の中。

 いつもの寝室だった。


 翌朝、土蔵の前に行った。

 封筒はなかったけど、お漏らししたおしっこの跡があった。

 

 これが、俺が初めてカミさんと出会ったときの話。


…… …… ……


 年月が経ち、社会人になって三年目。

 俺は二十五才になった。

 この頃には親父と一緒に家計を支えてた。


 そんな中、お袋にガンが見つかった。


 手術の成功は五分、との診断。 

 カミさんから吸い取られて残った寿命よりも早い時期に死ぬかもしれない。

 カミさんに聞いたところ、それは有り得る話という答えが返ってきた。

 親父と俺はカミさんに手術成功をお願いした。

 吸い取られた残りの寿命を無駄にしたくなかったから。


「その願い、聞き届けよう」


 そう言って、カミさんはその封筒を手にして土蔵の中に入っていった。

 土蔵に入る前に、多分俺に言ったんだと思う。


「少しはマシになってきたか?」


 社会的には、マシにはなってると思う。

 けど、カミさんから見たら……どうだろう。


 親父に促され、家の中に戻り風呂に入る。

 翌日、封筒を回収し、それでカミさんとの邂逅の儀式は終わりになる。

 この時初めてカミさんがいなくなった後のやり方を知った。


 その数日後、手術は無事成功。

 ガンは寛解してお袋は元気を取り戻した。


 しかしその時はやってくる。

 親父が定年退職をして二年後。


「ケイトと一緒にお出かけってあまりないな」

「俺と同い年だろ? そろそろ体力も減るよな」

「じゃあみんなと一緒にお出かけしない?」


 お袋の提案でケイトと一緒に家族みんなで宿泊旅行を楽しんだ。


 その帰り、自動車事故に巻き込まれた。

 俺とケイトは車外に放り出されて奇跡的に無事だったが、両親は死んでしまった。


 親類はいない。

 俺はいきなり、ケイトと二人きりになった。

 俺の職場の上司達が葬儀など世話をしてくれた。

 そればかりか、気持ちが落ち着くまで休めと気遣われたのは有難かった。

 

 カミさんには報告しなきゃ、とは思った。


 自動車事故に遭わなかったら、まだ元気だったかもしれない。

 その元気だったかもしれない期間をカミさんに吸い取られた。

 けど人生の中身に見合うだけ、その期間をカミさんに捧げたのだろう。

 

 両親とカミさんには感謝しかない。

 後悔しようものなら、またカミさんから叱責される。

 そして両親が赦してくれたこともある。


 でもひょっとしたら、吸い取られるべき寿命はもっと必要だったのではないだろうか?

 親子げんかもしたし、親に逆らったこともあった。

 でも一つ屋根の下、ケイトと共に和やかに過ごした時間の方が圧倒的に多かった。

 両親はもっと寿命を吸い取られてもおかしくないくらい、有難く感じられた。


 その夜、両親じゃなく、カミさんが夢枕に立った。

 それでも両親を失って、感謝の気持ちは強いけど、悲しくないわけじゃない。

 正直、カミさんじゃなく両親の姿を見たかった。


「そのままでいいから、何も持ってこなくていいから来い」


 その声がホントに寝耳に水って感じ。

 すぐに飛び起き、土蔵に向かった。


「……来たか。お前の両親だが、余すところなく、すべての寿命を費やした。それは伝えておこう、とな」


 言われるまでもないけど、こっちも、はっきりとしておきたかった。


「で、ワシを呼び出したいときは……分かっておるな?」


 その手順と条件、忘れるわけがない。

 俺は黙って力強く頷いた。


「カミさん……」


「……何じゃ」


「……死なれるとやっぱり悲しいですが、最後までいい思い出が作れました」


「ワシは願いを叶えてやって、その見返りを受け取っただけ。礼を言われる覚えはない」


 親父の仕事のこと、お袋のガンのこと。

 カミさんの力以外の力だけじゃ乗り越えられなかった。

 口に出さずにいられないほど、本当にうれしかったんだ。


 けど、悲しみはそれで終わらなかった。

 生きている物にはすべて寿命があるんだ。


 親に死なれて間もなく立ち直った俺は、ケイトと……二人暮らし。

 年月は過ぎ、俺は三十目前。

 同じくらいの年のケイトは、最近は犬小屋で伏せたまま一日を過ごすことが多くなった。

 日中の世話はできないから、一日分の食事と水を用意してから出勤。


 でも立ち上がることも出来なくなって、水を飲むのがやっと。

 その中に栄養剤みたいなのを混ぜてみる。

 普通に飲んでくれたのはうれしい。


 休日の前夜、夢を見た。

 小さい頃の思い出の、ケイトがちょこちょこ歩いて傍に近寄ってくれた場面だった。

 今ではもうあんなに小さくないし歩くことも出来なくなった。

 

 朝起きて、ケイトに近寄る。

 力はないけど、喜んだ顔を見せてくれた。

 あんな可愛い顔が、大人になり、そして年を取った。


 甘やかしてもらった。励ましてもらった。

 慰めてもらった。


 一緒に散歩した。

 一緒に遊んだ。


 社会人になってからは、そんな時間は取れなくなった。

 そして、お別れの日が来るなんてことはちっとも思っていなかった。


 でも、分かってしまった。

 俺が近づくと尻尾の動きが激しく振れなくなるまで衰えた。

 

 決めた。

 俺の寿命を吸い取ってもらおう。

 そしてもう少し、もう少しだけ一緒に過ごしたい。


 この願いを叶えるため、カミさんに会う手順を辿った。


 夜の十二時を過ぎたのを見て、裸足で土蔵の前に行く。

 カミさんが現われた。


「何か用か?」


「ケイト……飼ってる犬かもうじき寿命みたいです」


「……で?」


「もう少し、もう少しだけ、一緒に過ごす時間を長くしてほしいです」


 もう家族と言えるのは年老いたケイトだけ。

 ただ生きているだけとしか言えない。

 けれど、それでも心の支えになっている。


「ふん。息をするのも苦しそうではないか。その苦しい思いをさらに伸ばそうと?」


 カミさんの言うことは、間違ってはいない。

 けれど。


「俺はあいつにたくさん支えられてきた。何か、恩返しになることをしたいから……」


 エゴだ。

 あいつのそばに寝そべって、いつかのようにあいつの体温を感じていたい。

 他の生き物の温かさって、暖かいんだよ。

 暖かさを感じることで、生きてる実感が湧いたり、自分が存在する実感を感じたりするんだよ。

 それが、とてもうれしかった。


「その願いを叶えてもさほど寿命が延びるとは思えんし、その見返りとして吸い取るお前の寿命も釣り合わんが、それでも構わんと言うのならな」


「お願いしますっ!」


 カミさんは封を手にして土蔵に入っていった。

 その後俺は、風呂で体を洗って布団に入った。

 翌朝の日が昇るのが待ちきれない。


 いつもより一時間も早くカーテンを開け、鍵を開ける。


「ケイト、おはよう。具合はどう……」


 瞬間、俺は頭から冷水を浴びた気分になった。


 もうないはずの体力なのに、まるで限界を超えるように体を震わしながら、ふらつきながらこっちに来ようとしている。

 そして膝が折れる。

 そして再び立ち上がろうとし、また俺に向かって歩き出そうとする。


 願ったのは延命だけだった。健康や体力は全く考えてなかった。

 そればかり考えてカミさんに会う準備をしていた。


「も、もういいよ。分かった! そっちに行くから!」


 寝間着姿のまま、ケイトのそばに駆け寄った。

 地面の上であぐらをかいた。

 ケイトはその上に乗ろうとした。


 ケイトが小犬の頃は、その姿勢で迎えたことが何度もあった。

 足の上にちょこんと乗り、胡坐の上に収まるくらい小さかった。


 無理だよ。

 お前の体、俺の足からはみ出してるじゃねぇか。

 昔は暖かかったのに、今はそんなに感じられないな。

 けど、その体重は比べ物にならないくらい重くなった。

 俺と、親父とお袋と一緒に過ごした思い出もこの体の中に入っているのか?


 時折かかる重心の位置が変わる。

 まだ、こいつも生きている。

 伸びた寿命の分だけ、もっともっとと楽しい思い出を必死で作ろうとしている。

 けど、長生きさせた分苦しさも感じている。

 そんな苦しみよりも、亡くなるその時まで楽しい思い出でこいつの心の中をいっぱいにしてやりたい!

 悲しいけど、たくさんの楽しい思い出ができたうれしさだけをケイトに感じてもらいたい!


 その願いを叶えるんだ!

 時間なんて関係ない!

 カミさんに今すぐ会うんだ!


「ケイト、ごめんな。すぐ戻ってくるから、待っててくれな?」


 俺は慌てて家の中に入り、土蔵の前に行く。

 封筒は入り口の前に落ちてあった。

 が、それを手にしたのは神棚に戻すためじゃない。

 入り口の右に置きなおすためだ。


「……頻繁に、しかもこんな時間に呼び出されるのも面倒な話よ。場合によってはお前の寿命の半分以上吸い取るぞ?」


「俺が悪かったでした! あいつの……ケイトの寿命が短くなってもいいから、少しでも苦しみを軽くしてあげてください! 何の苦痛もなく、最後の時が訪れるまでゆっくりできる時間を与えてあげてください!」


 平身低頭。

 背中は極力水平に、そして地面になるべく近く。

 その延長上に後頭部のラインが真っすぐになるように。


「バカ者が!」


 いつぞやの、小さかった頃の俺が小便を漏らした時以上の恐ろしい怒鳴り声が響くと同時に背中全体に衝撃が走る。

 何者かが俺の背中に何かの一撃を食らわしたように。

 その痛みと反動で、背中が地面に垂直になる。


「何でもかんでも叶えてくれるなどと思うな! お前一人で出来ることじゃろうが!」


「で、できません! だってあいつ、あんなに苦しそうに……っ」


「……おおまけにまけて、お前にあ奴の気持ちが分かるようにしてやる! そりゃあっ!」


 俺の背中に、一度目以上の衝撃がかかった。

 その勢いで、俺は土蔵の中に放り投げられた。


「う、うぁ……。お、俺、ケイトの」


 カミさんの怒鳴る声が聞こえるが、土蔵の扉が閉ざされ辺りが暗闇になる。


 ハッと気づくと、俺は犬小屋のそばで胡坐をかいてケイトを足の上に乗せていた。


「あ……あ? 俺……俺、いつの間に?」


「暖かいな……」


「え? え?」


「気持ちいいな……」


「……ケ、ケイト?」


「うん……泣きそうな声になってるね、どうしたの?」


「あ、あぁ、いや、えっと、ホントにケイトしゃべってるの?」


「……しゃべってないよ……あったかいなって思っただけ」


 カミさんの言う、ケイトの気持ちが分かるようにするというのはこういうことらしかった。


「小さい頃ね、君の体暖かかったよ。今の君の体も暖かいね……」


 ドキッとした。

 心の中覗かれてるのかと思った。


「お、俺もケイトの体、暖かくて、ずっとそばに居てほしいって思ったこと、何度もあった」


「そっかあ……」


「今のお前……」


 体が冷たくなってきた。そう言おうとして止めた。

 もうすぐ死ぬんだぞって言い聞かせてしまう気がしたから。


「……ねぇ」


「ん? な、何?」


「あたしがいなくなったら、君、一人きりでしょ? 一人で心配だな、あたし」


 死ぬ間際まで心配かけさせて、どうしようもねぇな、俺。


「ガールフレンドの一人でもできるかと思って楽しみにしてたのになぁ」


「……ものの言い方、古いよ……」


 悲しさを紛らわすように軽い冗談も言ってみる。

 けど、声が微妙に震えてる。

 それだけで、いろんなことを知られてしまいそうだ。


「あたしが死んだら、君とずっと付き合えそうな人連れてきてあげよっか」


 ケイトは自らの死を悟っていた。

 そんな相手に気を遣わせてしまっている。


「お、おま……。……お前以上に素敵な相棒なんかいやしなかったよ」


「バカね……。でも、ありがと」


 死期を自分で悟っているのなら、遠慮はいらないかな。


「礼なら……死んだ親父に言いな。お前を連れてきたの、親父なんだって」


「そっか。そこら辺は分かんなかったから……うん、言っとく」


 朝日が昇る。

 まぶしく、暖かな日差しを浴びている。


「のんびりした時間を過ごしたのって、幼稚園以来かなぁ」


「うん、君の体暖かくって、朝の太陽も暖かくって……」


「……ケイト?」


「……ごめん。眠らせて?」


「……いいよ……。今まで、ありがとな……」


 言えた。

 気持ちを込めて、涙声のような弱々差を見せずに。


「……うん。毎日、ご飯食べなね。……じゃ、あね」


 最後の最後にめんどくさい遺言残されちゃった……。


 冷たくなった体だけど、暖かく感じた。

 その暖かさが逃げないように、覆いかぶさるようにしばらく抱きしめてた。


 ケイトの鼓動も呼吸も感じられなくなり、死が訪れたことを実感した。

 その日のうちにペット霊園で一切を任せ、思い残すことはなくなった。


 あとは……。


 いつも通りにカミさんを呼び出した。


「……こんなに頻繁に呼び出されたのは初めてじゃ。今度は何ぞ?!」


 いつもにない凄んだ声。


「礼を、言いに」


「言われる筋合いではないと言うたはずじゃ!」


 まるで俺の残りの寿命全て一気に吸い取ろうとする勢い。


「あいつの気持ちを知ることができたんだ! 礼なら言う筋合いはあるっ! ……ホントに、本当にありがとうございました」


「で、今日の用件は何ぞ?」


「礼を言いに来ただけで……」


「……ワシは願い事をする者から寿命を吸い取っておる。この家には今は一人。ということは、吸い取られる人間はお前一人だけ。人間の数を増やすようにしておこう。なぁに心配はいらん。お前は普段通り毎日を過ごすだけでいいさ」


 そう言って土蔵の中に消えていった。封筒はその場に残したまま。


 寿命を吸い取るのは見送ることになったということだろうな。

 カミさんは俺に何をするつもりかは分かんないけど。


 でも今は、仕事をしながらケイトの冥福を祈る毎日を過ごすだけで充分幸せのような気がするんだ。

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我が家に伝わる、寿命が縮む呪術は覚悟と感謝で 網野 ホウ @HOU_AMINO

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