透明な彼女は

前野とうみん

透明な彼女は


 透明な彼女を、きれいだと思った。


 わたしの最初の記憶は、子供部屋に親が置いた甘ったるいお香スティックの匂いと一緒にあった。お父さんとお母さんの怒鳴り声と、物が落ちたり壊れたりする音が聞こえないように、必死で耳を塞ぎながら、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。お腹が空いても、寒くても、個室の中にいれば安全だった。壁はわたしを守ってくれた。窓も扉も嫌いだった。四面全てが壁ならいいのにと思っていた。


 小学校では、ずっとトイレにいた。誰かにいじめられていたとか、みんなから仲間外れにされていたとかではなくて、同じ部屋の中にたくさんの人がいると、息ができなくなるから。けれど、それでも壁の外は怖くて、いつしか小学校には行かなくなった。壁の外にいるのが、二人といっぱいなら、いっぱいの方が怖かったから。


 けれど、家にいても、壁の外にいるのは、二人だけではなかった。


 コン、コン。ある日の夕方。窓ガラスが震えた。


 息が止まる。誰かがいる。


 その時、カーテンが完全に閉じられていたのなら。たまに、わたしはそんな想像をする。けれど現実はそうではなく、カーテンはたまたま少しだけはだけていて、窓からこちらを覗く瞳と目があったのだ。


 それは、わたしが知る壁の中では見たことがないほど輝いていて、きれいで。色素の薄いその肌は、陽の光を反射して透明に見えた。彼女みたいな子がいるなら、壁なんてなくてもいいかもしれないと思えるほどだった。


 そして、わたしと目があった少女は口を大きく開けて、三文字。


 あ、け、て。


 そう、象った。

 


 わたしの朝はガラス窓から射す陽光と、それを遮る影が現れるところから始まる。目覚ましより早くに、壁を蹴る音がして、窓枠に白く細い指がかかった。そして、栗色の頭頂部が現れたかと思うと、大きな目玉がわたしの部屋を覗くのだ。彼女はベッドにわたしの姿を認めると、わざとらしく口を大きく開く。


 象られるのはシンプルな三文字。これはわたしが寝ぼけていて夢の続きを見ているでも、幽霊が現れたわけでもなく、小学生の頃から高校生の今まで変わらない、純全たる現実だ。眠たい目を擦って窓を開けてやれば、彼女は器用に狭い隙間から身体をくねらせてわたしの部屋に侵入してくる。靴を脱いで、カーペットに静かに着地する様には熟練の気配すらあり、わたしのベッドに腰掛けるまでの動作には迷いがない。ベッドが小さく鳴り、傾いて、わたしの足下が彼女の重さで沈む。


「猫みたい……」

「こーちゃん、おはよー。そういえばここに来るまでに何匹か会ったよ」

「相変わらず野生児だね、あーちゃん……」


 わたしの言葉にあーちゃんは、にゃあ、とあざとく猫の真似をする。きらきらと、朝陽に反射して彼女の顔の産毛と栗色のショートカットが黄金に光る。吸い込まれそうな、大きく黒い瞳がわたしを見つめている。いつも、彼女の口角は笑いの形をしていて、小さな鼻が興奮気味にぴくぴくとしているのだ。


 なかなか過酷な道のりだったのだろう、制服の肘やらスカートやらがセメントに擦れて白くなっているのに、彼女は気にする素振りを見せない。天性のフィジカルと精神性をそのままに高校生になった彼女は、屈託のない、溌剌とした眩しい笑顔をこちらに向けてきて、こちらも思わず笑顔にさせられる。


「無理しなくていいんだからね? わたし、もう一人で学校行けるし」

「いーのいーの、あたしがやりたくてやってるんだから。こーちゃんと学校行くの楽しいし。本当はずっと一緒にいたいくらいだし」

「そっか」


 うん。彼女は答える。一切の淀みも、濁りもない声色で。


「そういえばさ。今日、3つだったよ。いつも使ってる道に、また一つ増えてんの」

「そう……」

「なんなんだろうね、あの『壁』はさ。ま、これくらいなら楽勝だけど。こーちゃんへの愛があれば」


 自慢げに、彼女は自分の胸を叩いて誇らしげだ。壁を乗り越えて会いに行くなんてロマンチックだ、とすら漏らして。彼女は昔からそうなのだ。その生まれ持った前向きさと美しさで、あらゆる暗がりを照らすつもりでいる。

ああ――まったくもって、腹立たしい。



『壁』とは、そのまま壁だった。


 数日前から、わたしの住む町内に、突如として壁が生える怪奇現象が起こっていた。レンガ、コンクリート、漆喰などなど種類や高さはさまざまで、一定の期間だけ、いつの間にか出現していつの間にか消える。その期間というのは具体的にはあーちゃんがわたしの家に訪れる一瞬だけで、彼女とわたしが登校し始める頃には、何もなかったかのように消えてしまっているのだった。


「日に日に増えてるの。でも、気づいた頃には消えてんの。意味不明すぎだよね」


 そんなことを話しながら二人で歩く通学路は、いつもと変わらない平凡なものだ。鳩はあの独特な周期で鳴いているし、配達業の軽トラのナンバープレートは黒と黄色で構成されている。電信柱の広告はずっと歯医者のものばかりだし、選挙ポスターは恐らく小学生によるものだろう、命知らずで無法な画鋲攻撃がなされている。急に出現した壁なんて、気配すらない。


「不思議だね」

「嘘ついてるわけじゃないんだよ? あたし以外にも見た人いるし、この前はバスだって遅れてたし。ただ、いつもあたしの家からこーちゃんの家までの間に壁が出来ちゃってて、それがとんでもなく不便」


 普通なら気味が悪いし、いくら長年続いている習慣だろうとぶち壊してしまいそうな超常現象のはずだけど、あーちゃんはと言えば「けど、これって試練かも」なんて言い出す始末。筋金入りのロマンチストで、天然で素直。全ての言動には悪意なんか一ミリもなくて、恨みっこないほどに明るい。


 だからこそ、この壁を作っているのはわたしに違いなかった。というのも、彼女が「なんか壁があったんだけど」と言い出した日と、わたしが彼女と距離をおこうと決意した日が完全に一致していたからだ。


「こーちゃんがさ、アンタのこと好きなんだって!」


凍り付いた教室。ありありと思い出せる、先週の昼休みこと。わたしが密かに想いを寄せていた彼――今では名前も思い出せない。すべて彼女の思い出に塗りつぶされてしまった――の前に、あーちゃんはわたしを引きずってそう言い放った。


 幼馴染として、あーちゃんがアホだということは知っていた。いや、知っていたつもりだった。わたしのささやかな、吹けば飛ぶようなできかけの恋の話を打ち明けた翌日のことだった。ちょっと気になる、とか、そんなレベルの話だ。自分でもまだ整理がつかないから話したのだ。彼女がここまでのアホだとは知らなかった。幼馴染の「可愛げ」が「デリカシーのなさ」へと格落ちする瞬間、本当に『ガラガラ』という音が聞こえるほどに信頼は崩れ去り、後には彼女に対する敵意だけがぽつり瓦礫の山に残る。わたしの中にこんな感情があったのだと驚きすらした。


 嫌な相手のことというのはここまで考えてしまうものなのかと、恐怖すら覚えた。血の気が引いて末端がちくりちくりと痛むのすら感じたように思う。困惑――というか、ドン引きに近かったのではないか。わからない。あまり記憶がない――した彼の返答を聞いた気はするけれど、その時の脳内は怒りと羞恥と後悔でぐちゃぐちゃで、憎悪に圧迫されてにじみ出た涙を止めることもできず、教室を飛び出した。午後の授業はサボった。


「こーいうこともあるって! 元気出そ! クレープ奢るし!」


そしてこんな時、一緒にサボって追いかけてくるのもあーちゃんだった。


「なんでついてきたの!」

「だって、泣いてたから」


 わたしの抱く種類の怒りは、彼女の想像力の中に居場所はないのだろう。あーちゃんは本気で、わたしのことを心配していた。涙の理由は知らないけれど、泣いているあなたを助けたいという、無垢なスーパーヒーローの瞳。わたしはその時初めて、あーちゃんがあまりに美しく、透明な理由を知ったような気がした。


 彼女は、好きなものを好きだと言う。


 彼女は、やりたいことをやる。


 曇りなく、迷いなく、暴力的に。


 裏切られたわけじゃない。ただ、わたしは彼女のことを永劫理解できないという直感が、本能的な危機感がわたしを貫いていた。


 あまりに純化された彼女の視線は、わたしにとって猛毒だ。


「でもさー。あの壁、なんなんだろーね」


 妖怪かな、怖すぎ。あーちゃんは言う。心の壁だ。わたしは思う。いくら壁を作ろうが乗り越えて、ずけずけと入り込んでくる。かつてと同じように眩しく感じているのに、今はそれが本当に憎い。


 壁がどのようにして発生するのかは、わたしには検討もつかない。けれど、なぜ発生するのかは、わたしにとっては明白だった。


 わたしはもう、誰もわたしの中に入れたくない。



 壁の枚数は以降も増え続けた。高さも増した。刺々しさも増して、有刺鉄線だって張り巡らされている。じきに家の窓から見えるほどの高さになった。壁が出現するのは朝だけにとどまらず、今や町中が壁まみれ。メディアだって取材に来まくって、報道ヘリはそこら中を飛んでいてうるさい。それでも、傷だらけになり、指先を血にまみれにして、風にもみくちゃにされながらも、あーちゃんは私の部屋にやってきていた。


いい加減気づけ。これは私の悪意だと。お前を避けているのだと。


 しかしあーちゃんの透明さは変わらない。あーちゃんの美しさは変わらない。あの事件まで忘れていた、彼女のつかみどころのなさ。引っかかる所のない、あまりに素直な、さらさらとすり抜けて私の心を満たそうとする、窒息させようとする液体のよう。


「こーちゃん、おはよー」


 彼女の言葉が呪いに聞こえるまで、時間はかからなかった。


 壁が必要だった。扉も、窓も、隙間もない。あけるところなんて一つもない、壁が、壁が、壁が――


 ある日、壁は辺りを覆い尽くした。 


 その日、彼女はやってこなかった。


 連日のようにやっていた『壁事件』の報道テレビを見れば、こんなニュースがやっている。


『今日朝、○○市立○○高等学校の女子生徒、村峯あいらさんが路上で意識不明の重体で発見され、病院で死亡が確認されました。転落死とみられ、○○市では詳細不明の壁発生事件が起こっていることから、一連の事件と関連があるのではないかとみて、警察は捜査を進めており――』


 即死だったという。彼女は何もない路地で、落下死体として発見された。この奇妙な事件は全国区のニュースとして取り上げられ、一、二か月程度で忘れ去られた。というのも、壁はその事件以降発生しなかったからだ。


 そして、壁が発生しなくなった理由は、わたしが一番よく知っていた。



「こーちゃん、おはよー」


 あーちゃんが死んだ次の日の朝のことだった。わたしは、聞こえるはずのない、彼女の言葉で目を覚ました。思わず窓を見れば、そこにはようやく私の前から消えたはずの、恐ろしい、曇りない笑顔。大きな瞳は私を見つめている。そして、わざとらしく、大きな口を開けて。


 あ、け、て。


 しかし、あーちゃんはわたしが窓を開けるのを待たない。彼女は壁をすり抜けて、わたしの枕元へと降り立った。


「ユーレイって、ホントにいたんだ。や、アタシがなるって思ってなかったからさ」


 彼女は透明だった。美しく透き通って、真っすぐとにこやかで。震えている私の肩を、彼女はそっと抱く。


「でもまあ、壁も抜けられるし、こーちゃんにも簡単に会えるし、別にいっかなって」


 氷の針のように冷たく、不快で、鋭い。あーちゃんが私の中に入ってくる。耳もとで、鈴のような声色で、あーちゃんがは言う。


「もう、誰も邪魔できないね」


 彼女を阻む壁は、もう存在しない。

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透明な彼女は 前野とうみん @Nakid_Runner

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