シオンのきみ、リコリスのわたし
秋来一年
シオンのきみ、リコリスのわたし
わたしには好きな人がいる。
雪みたいな白い肌に、思わず嫉妬するような長い睫。その睫を伏せて真剣な眼差しを向けるのは、遠藤くんの前に置かれたキャンバスだ。
放課後の美術室。西日の黄金色が満ちるこの空間で、私は密かに、彼に想いを寄せていた。
「んんー」
遠藤くんが、ぐーっと両腕を上にのばして、大きく伸びをする。
「川波さん、そろそろ帰ろっか」
声をかけられて時計を見ると、時刻はもう下校時刻の五分前だった。
「う、うん」
返事をして、自分の分のキャンバスを美術室から隣の美術準備室に移動させる。
美術室は、放課後こそ美術部の部室として使わせてもらっているが、ふだんの授業でも使うのだ。キャンバスなど場所をとるものは、美術準備室にしまうことになっていた。
いつもなら下校時刻の十分前には片付け始めるのに、うっかりしていた。慌てて移動しようとしたもんだから、キャンバスの端が、デッサン用の石膏像にぶつかる。
倒れそうになる石膏像に、思わず目を瞑って身を竦める。
けれど、いつまで経っても、それが倒れてくることはなかった。
恐る恐る瞼を開けると、そこには像を両手で押さえ、元の位置に戻す遠藤くんの姿が。
「ちょっとくらいなら時間過ぎても大丈夫だからさ、落ち着いてかたそう」
「あの、あ……うん」
どんくさいわたしのことを怒りもせず、優しく笑って言ってくれる。
本当は「ありがとう」と言いたかったのに。喉まで出かかった想いは上手く像を結ばず、口をきゅっと結ぶとそのまま飲み込まれてしまった。
「お疲れさま。それじゃ、僕は鍵帰してくるから、先に帰ってて」
荷物を纏め美術室を出ると、遠藤くんはそう言って職員室にすたすた歩いて行ってしまう。
本当は、「たまには私が鍵返しに行くよ」とか、「せっかくだから一緒に帰ろ」とか、言いたいことはいっぱいあるのに、たくさんの言葉が口から一度に出ようとして渋滞しているうちに、タイミングを逃してしまった。
いつもそうだ。
私は自分の思ったことを口にするのが苦手で。
家族とか、うんと仲の良い友達なら話は別なんだけど、大抵の相手の前では言葉が詰まって上手く話せなくなる。
遠藤くんはそんな私にも優しくて、だから「ありがとう」って伝えたいのに、一度も上手く言えたためしがない。
美術部を引退するまであと一年。それまでに、一度くらいは思ってることをきちんと伝えたい。「好きです」って言うのは難しくても、せめて「ありがとう」くらいは言わないと、申し訳がない。
よし、明日こそは頑張るぞ。
もう何度目か分からない決意を胸に、わたしは学校を後にした。
❀
遠藤くんの転校が決まったのは、それから一週間後のことだった。
遠藤くんはそんなにおしゃべりな人ではないけれど、放課後二人きりでいると、絵を乾かしてる時なんかに話しかけてくれて、私はそれが嬉しかった。
その日もいつもみたいに、いま描いている作品についてとか、好きな本についてとか、そういう話がくると思ってたから、喜ぶ準備をしていた心がどうしていいか分からなくなってしまった。
「なんで、そんな急に……?」
やっとの思いで訊ねると、遠藤くんは悲しげに目を伏せる。
「ほんと、急だよね。父の仕事の都合で、九州の方に行くことになって。最初は僕だけ残るって話だったんだけど」
「九州……」
遠藤くんは、落ち込んでいるみたいだった。本当はなにか上手いこと言って励ませたらいいのに、役立たずなこの口はばかみたいに遠藤くんの言葉を繰り返すことしかできない。
「十月いっぱいはこっちにいられるから。コンクール用の作品、早く完成させないとね」
遠藤くんはそう言うと、これでこの話は終わりとばかりに、キャンバスに向かって手を動かす。
十月いっぱい。今日が九月十二日だから、あと二週間ちょっとしかない。
美術部を引退するまでに想いを伝えられればなんて思ってたけど、そんな悠長なことは言ってられなくなってしまった。
❀
その日から、遠藤くんは以前の三割増しくらいで、わたしに話しかけてくれるようになった。
「めずらしいよね、川波さんが油絵なんて」
わたしとの会話を楽しんでくれてるなら嬉しいけど、どちらかというと、コンクールのための絵が上手く進んでいなくて、それで話しかけてきてるように感じる。
「うん。普通のやつも、できるようにならなきゃと思って」
わたしはふだん、平面の絵と、花やら石やら、実際のモチーフとを合わせた半立体みたいな作品をつくっている。
けど、そう言う作品は保存が難しく、評価してもらえる機会や、発表の機会も、一般的な絵画にくらべて少ない。表現の幅を広げるためにも、油絵とか、水彩も描けるようにならなきゃと思って練習中だ。
「遠藤くんは、どんなのを描いてるの?」
先週まで描いていた絵は、何が気に入らなかったのか真っ白に塗りつぶしてしまっているのを横目に見ていた。
油絵は乾かす時間も必要だから、いまから描き直すのはかなりギリギリのはず。興味と心配が半々くらいの気持ちで訊ねると、遠藤くんは少しだけ顎をしゃくった。
遠藤くんのキャンバスを、覗き込む。
そこにあったのは赤だった。鮮烈な赤。
「これ、彼岸花……?」
真っ黒な背景と、それを埋め尽くさんばかりに活き活きと伸びる赤い特徴的な花。わたしが訊ねると、遠藤くんはあっさりと頷いた。
「この前ぐうぜん彼岸花がたくさん咲いてるのを見てさ、すごく綺麗だったんだ。頭がこう、ぼうっとなるくらい」
なんとなく分かる気がする。綺麗なものに見入ってしまうと、ここがどこでわたしが誰かなんていう小さいこととは切り離されて、宙に浮いてるみたいになる。そして、ただ目の前の美しいものが頭を痺れさせるままになるのだ。
花と言えば、わたしもこの前電車の窓から、めずらしい薄紫の花が秋風に揺れているのを見た。そのことを遠藤くんに言おうかと思って、でもいつもみたいに言いあぐねているうちに、遠藤くんはまた口を開いた。
「川波さんは彼岸花の花言葉って知ってる?」
「え、っと……」
絵に花を使う関係で、前にたくさんの花言葉を調べたことがあった。
彼岸花は確か、いくつか花言葉があって、悲しいような寂しいようなイメージだったけど。
「正解はね、〝独立〟だよ。本当は一人でこっちに残る予定だったから、その決意を込めて描いたんだ」
遠藤くんが言った。その顔はキャンバスに向けられていて、それでいてどこかもっと遠くを見ていた。
思い出した。わたしが知ってる方の彼岸花の花言葉。
――あきらめ、だ。
遠藤くんとはクラスが違う。美術室でしか会わないから、彼の交友関係をわたしは知らない。
でも、優しい遠藤くんのことだから、きっと仲の良いお友達がいるんだろう。もしかしたら、好きな子もいるかもしれない。
きっと転校するのが悲しいんだろう。胸が、裂けそうなくらいに。
そう思うとわたしの胸まで苦しくなって、それが遠藤くんの悲しみに共感してなのか、彼に好きな子がいるかもと考えたからなのか分からなくて、自分のことが嫌になった。
「今日はもう帰ろっか」
時計を見る。下校時刻の十五分前。
いつもより少し早いけど、何だか続きを描く気もしなくって、わたしはただ、うんと頷いた。
キャンバスを片し、遠藤くんが準備室に鍵をかける。
今日は金曜日だから、次に会えるのは来週になってしまう。運悪く月曜日も火曜日も祝日だから、五日も先だ。
今日こそ言わなきゃ。好きだって。いつもありがとうって。
けれど、思えば思うほど頭の中は熱くなって、喉は渇いて、頬は熱くて、言葉は胸の中でぐるぐると回るばかりで出てきやしない。
「川波さん、どうかした?」
気づけば睨みつけるようになってしまっていて、遠藤くんにそう訊かれる。
「う、ううん。なんでもない」
慌てて否定してから、いまが最大のチャンスだったじゃないかと死ぬほど後悔した。たぶん、今日からしばらくはこの瞬間を夢に見ると思う。
「それじゃ、鍵返してくるね」
「ぁ、ぃ……うん、ばいばい」
一緒に帰ろ、の言葉は口の中で行き場をなくし、私は今日も一人で帰った。
❀
あっという間に、遠藤くんと一緒に過ごせる最後の日になってしまった。わたしはまだ、彼に日頃の感謝も、自分の想いも伝えられていない。
もうこれが本当に最後のチャンスだ。帰るとき、彼が鍵をかけたら気持ちを伝えよう。そう心に決めて、わたしは絵筆を動かす。
「川波さん」
下校時刻の三十分前、遠藤くんがわたしに声をかける。
その横顔は、何時になく張り詰めていた。窓から差し込む西日が、放課後の美術室を、彼の横顔をあかね色に染めている。
「絵、見てもらえないかな」
やけに緊張した様子だったので、何を言われるのかと身構えていた私は、予想外の言葉に肩の力を抜いた。なんだ、そんなのいつもやっていることじゃないか。
「完成、したんだね」
言いながらキャンバスを覗き込み、息を呑んだ。
え、これ。
「……わたし?」
黒の背景。彼岸花の花畑。そこまではこの前見たときと同じだった。
違っているのは、絵の中心に彼岸花を抱いた一人の少女がいることだ。
長くて黒い髪。小柄な背丈。その少女はうちの学校の制服を纏っていて、何より、その少女の側にはスケッチブックとバケツが置いてあった。
「川波さん、前に彼岸花の花言葉について話したの、覚えてる?」
こくりと頷く。確か、「独立」と「あきらめ」だったか。
「この絵、本当はコンクールのためじゃなくて、川波さんに渡すために描いたんだ」
どくん。胸が鳴る。
でも、どういうことだろう。彼岸花の別名には、死人花や幽霊花なんてのもある。どちらかというと不気味な印象の花だけれど。
「彼岸花の花言葉って、実はとっても多いんだ。この前言ったやつのほかにも。だからさ、帰ったら調べてみて」
いつもわたしの言葉を待つように、ゆったりと話してくれる遠藤くんにしては、めずらしく早口だった。
そして、言うやいなや、
「ごめん、今日は早く帰らなきゃいけなくて。実は荷造り終わってないんだ」
明日十時の新幹線なのにさ、と、鍵を渡してぱぱっと荷物を纏めてしまった。
てっきりいつも通り、終わりの時間まで一緒に居られると思っていたから、わたしはただ目を白黒させるばかり。
「いままでありがとう。美術部、ひとりにしちゃってごめんね。でも、川波さんなら大丈夫だと思うから」
そう言って、彼は扉に手をかける。だめ。待って、行かないで。
「ぁ……あり、がとう」
私が言い終えたときには、遠藤くんの姿は扉の向こうに消えていた。きっと彼に、この言葉は届いていない。
終わってしまった。
こんなことなら、もっと早くに言えばよかったのに。
一人きりになった美術室で、私は少しだけ泣いて、一人で帰った。
❀
家に帰り、彼岸花の花言葉を調べる。
独立、諦め、と知った言葉のあとに、悲しい思い出、情熱、転生と続き。
その言葉を見たとき、再び私の胸がどくんと鳴った。
スマートフォンの画面に映る文字は、「再会」「また会う日を楽しみに」そして、
――思うはあなた一人
顔が熱い。体中の血が、いつもの百倍くらいの速さで回ってる気がする。なんで。どうして。
勘違いかもしれない。単に、「また会う日を楽しみに」と伝えたくて、あんなことを言ったのかも知れない。でも。
思い出すのは、緊張に張り詰めた横顔。
その頬が赤かったのは、果たして西日だけのせいだろうか。
単なる部活仲間としか思っていない相手のために、絵なんて描くだろうか。
ベッドの上でひとしきり脚をばたばたさせ、胸を満たしたのは後悔の気持ちだった。
遠藤くんは想いを伝えてくれたのに、私は結局何も言えないままだ。
もう部活の時間は終わってしまった。彼に想いを伝える機会は残っていない。
……本当に?
遠藤くんは、明日の十時の新幹線に乗ると言っていた。
スマホで時刻表を調べる。この辺りは電車の本数がそんなに多くない。きっと彼は明日、この電車に乗るだろうとアタリをつけた。
新幹線の出る大きな駅に行く電車は、家から学校に行く電車と同じルートを通る。思い出すのは、電車の窓から見た薄紫のめずらしい花。
あの花の花言葉は――。
❀
翌日。午前七時半。わたしは休日だというのに早起きをし、スマホを握りしめていた。
わたしの周りを囲むのは、薄紫色の綺麗な花々。中心部のみが黄色くて、その周りを幾枚もの紫の花弁がぐるりと囲っている。
息を大きく吸って、吐いた。
震える指で、通話ボタンを押す。去年の四月に交換してから、一度も使ってなかったボタンだ。彼は、出てくれるだろうか。
数回のコール。もしかして、もう電車に乗ってしまっただろうか。あるいは、鞄か何かに入れていて、気づいてないんじゃないか。
そんな不安で胸がつぶれそうになったとき、彼が出た。
「川波? はじめてじゃないか、通話をかけてくるなんて」
彼の声の奥で、電車の到来を告げるアナウンスが響く。
「うん、あのね……伝えたいことが、あって」
人と話すのは苦手だ。思った言葉は上手く口から出てこなくて。言いたいこと、伝えたい想いは、いつだって溢れそうなくらいなのに。
「電車に乗ったら、右側の窓をみて。五分くらいしたら見えるはずだから」
だからわたしは、想いを言葉で伝えるのは諦めた。
言葉以外で伝えることにしたのだ。
彼と同じように、作品で。
「? わかった」
「それじゃ、またね」
電車がホームに到着した音を聞きながら、通話を終了する。
言えた。言えた……!
心臓の音がうるさい。本番はこれからだっていうのに。
スマホをポケットにしまい、わたしはもう片方の手に握っていた大きな布の端と端を摘まむ。
そして、五分後に想いを馳せた。
あと五分で、電車がやってくる。彼を乗せた電車が。
高架を走る電車を見上げ、わたしはこの布を大きく広げ、はためかせる。
高く澄んだ秋晴れの空。薄紫の花畑。広がる白い布。
そこに描かれているのは、刷毛で大きく描かれたTatarian asterの文字。昨日の晩、慌てて描いたにしては我ながら悪くないと思う。
きっと彼は、この文字を検索するだろう。そして目にするはずだ、この薄紫の花――紫苑の花言葉を。
紫苑の花言葉、それは「遠方にある人を想う」「君を忘れない」。
そして、Tatarian aster、英語の花言葉は
――愛の象徴。
これを知った彼は、どんな反応をするだろう。
彼岸花のように真っ赤になる彼を想像しながら、わたしは電車を待った。
シオンのきみ、リコリスのわたし 秋来一年 @akiraikazutoshi
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