鷹峯弘樹

 俺の恋は、始まる前から終わっていた。


「ちょっと、また遅刻?! 鷹峯君、いい加減進級に響くわよ」

 教室に響く甲高い声。友人らの、またかよ、というあきれ顔。

「うっせーな。委員長には関係ねえだろ」

 思わずそう言い捨てる。すぐに顔を伏せたのは、こんな顔誰にも見られるわけにはいかなかったからだ。

 だってそうだろ? 怒られてんのににやついてるなんて、気持ち悪りぃじゃねえか。


 そのまま寝たふりをしていると、委員長とその友達が話している声が聞こえてきた。

「それにしても、由希ってば本当に鷹峯のことが嫌いだよね……」

 やっぱり、嫌われてる、よな。

 ずきり、と胸が痛む。


 さっきまで浮ついていた気持ちが、急にしぼむ。けど、考えても仕方の無いことだから、と、俺は自分の気持ちを仕舞い込んだ。

 伝わらない想いなら、しまっておいたほうがいいだろう?

 まさかこの俺が、あの日高由希を好きだなんて。



 母親が帰ってこなくなり、家には兄妹と、俺たち兄妹を殴る父だけがのこされた。

 いつも酒を飲んだ赤ら顔で、仕事もろくに続かないから、俺が妹を食わせなきゃいけない。


「あー……」

 夜の九時過ぎ。誰もいない公園のベンチで、俺は一人うめく。

 その拍子に口の端の傷が痛んだ。思わず顔をしかめると、それでまた痛むからタチが悪い。


 今日は久々に派手にやられた。やつが帰ってきて、その時俺は夕飯をつくっていて、妹はドライヤーで髪を乾かしていて。

 「帰ったぞ」という声に気づけなかった。そしたらキレて妹に殴りかかろうとしたので、慌てて庇ったらもろにくらった。


 殴られようがどうしようが、バイトの時間はやってくる。

 今日のシフトは二十二時から。当然高校生が深夜に働くのは禁止されているが、俺は年齢を偽って働いていた。夜の方が稼ぎが良いからだ。


 おかげで授業中は寝てばかりだし、そもそも起きられなくて遅刻も多いが、卒業さえできればいいからどうでもいい。


 幸い、奴はひとしきり暴れたあと家を出て行って、いまは家に妹だけ。大方、うさを晴らすために呑みにでも出かけたんだろう。こうなれば朝までは帰ってこないから、今日は我が家は安全だ。


 自分で握ったおにぎりを食べて腹を満たすと、俺はシフトの時間になるまで夜風に当たってぼーっとしていた。


「鷹峯君?」

 声がかけられたのは、丁度そろそろバイトに行こうかと思ったときだった。


「……委員長」

 目の前に、日高由希が居た。心配そうに、こちらを窺っている。


「喧嘩? 口の端、怪我してるじゃない」

 そう言うと、ちょっと待ってて、と自分の鞄を漁り始めた。


「さてね」

 俺が他校生としょっちゅう喧嘩していると、噂になっているのは知っていた。実際は家に住み着く鬼に殴られているだけなんだが、訂正はしていない。

 他人から、同情されるのはまっぴらだったからだ。

 俺の返答に、委員長は怒るかと思いきや「そう」と小さく呟くだけだった。


「いつもみてえに突っかかってこないのな」

 思わずそう言うと、少しだけきょとん、としたあとで委員長が言う。


「だって、喧嘩じゃないんでしょ? 自分で聞いといてなんだけど、よく見たらあなたの手、傷ついてないんだもの」

 驚いた。教師も、仲間内すら、俺のことを喧嘩と遅刻常習犯の不良だと思ってるのに。


「なあ、なんで俺に構うんだ」

 もう夜遅い。きっと委員長は塾の帰りかなにかで、早く帰った方が良いはずなのに。


「そんなの、クラスメイトなんだから、怪我をしてたら心配するのは当然のことでしょ?」


 その言葉に、胸を捕まれた。

 誰かから心配されるなんて、いつぶりだろう。


 そう思ってから、いや、違うと思い直す。

 彼女は、委員長だけは俺のことを、ずっと心配してくれていた。


 いつも一緒にバカやってるクラスのやつらも、「留年しても友達だから安心しろよ」と言ってくれることはあっても、俺の進級や卒業のことを本気で心配してくれるようなやつはいなかった。


「ごめん、こんなのしかなかったわ」

 委員長が、眉根を寄せて何かを差し出す。

 見ると、可愛らしいキャラクターが印刷されたピンクの絆創膏だった。


「こんなのつけられるかよ」

 言いながらも、俺は頬がかあっと熱くなるのを感じる。今が夜で、暗くて助かった。

 鼓動も煩くて、頭が混乱して、心臓と口が直接繋がってるみたいだった。


「でも、一応もらっとく。その、ありがとな」

 自分には不似合いな可愛らしい絆創膏を受け取り、手帳型のスマホケースに仕舞い込む。


「遅いし、気をつけて帰れよ」

 去りながら、委員長の方は見ずに手を振ってその場を後にする。

 頬の痛みも、父に殴られた理不尽による胸のもやつきも、気づけば消えていた。

 

 

 結局、委員長とは上手く話せないまま卒業の日を迎えてしまった。

 けれど、この気持ちは言っても仕方の無いことだったんだ。

 こんな家庭環境じゃ付き合うなんて無理に決まってるし、俺と一緒に居たら委員長まで悪い噂が立つだろう。


「そういえばさ、弘樹って結局三年間彼女つくんなかったよね。好きな子とかいないの?」

 最後のホームルームが始まる前の、つかの間の喧噪。友達の悠大が話しかけてきた。


 思わず委員長の方に視線が行く。と、目が合ってしまった。

 かと思うと、ものすごい勢いで顔を逸らされる。


「いや、いないけど」

 言いながら、俺も慌てて視線を下げる。スマホケースが目に入って、すぐに視界から外れた。


「もーらい。今スマホ見てたっしょ、なに? 実は彼女の写真とか入ってんの?」

「バッ、お前返せ……!」


 スマホケースには、あの日貰ったピンクの絆創膏が、今も後生大事にしまってある。我ながら女々しいやつだと思うが、どうしても手元に置いておきたかったのだ。なんだかお守りみたいに、守ってくれる気がして。


 取り返そうともみ合っている内に、何かがひらひらと落ちる。絆創膏だ。慌ててキャッチすると、がたん、という大きな音が少し遠くで響いた。


「ちょっと、由希?! ホームルーム始まっちゃうよ!」

 見ると、教室を走り去ろうとする委員長を、その友達が慌てて呼び止めている。


 思わず、息を呑んだ。

 伝わらない想いなら、口にしない方が良いと思っていた。

 けど、今日は卒業式だ。俺が委員長に告白して玉砕しても、気まずくなることもない。


 それに、それに万が一上手くいったとして。

 俺の悪評のせいで委員長まで悪く噂される心配もないし、この春からは家を出て、妹と二人で暮らす予定だ。あの鬼の被害に遭う心配も少ない。


 それに――。

 強引にスマホを取り返し、チャットアプリから委員長に連絡を取る。


「屋上に、来てくれないか。話したいことがある」

 

 ――それに、絆創膏を見て委員長は、こっちが恥ずかしくなるくらい、顔を真っ赤に染めていたのだ。


 文字を打ち込みながら、自らも屋上目指して走る。

 送信ボタンを押すのと、委員長からメッセージが来るのは同時だった。


「屋上に来てくれない? 話したいことがあるの」

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制服を脱いで走り出す、始まるはずのなかった恋の話 秋来一年 @akiraikazutoshi

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