『帰宅拒否部』のふたりの距離は

黒犬

第1話 『帰宅拒否部』のふたりの距離は

 卒業証書の分だけ重くなった鞄と一緒に、校門を出る。

 高校3年間を過ごした学び舎を振り返って別れを惜しむ様な気持ちにはなれなかった。ほんの少しの感傷はある。例えばこの制服のブレザーもスカートも、この先もう着る事はないんだろうなとか。でも、終わるものがあれば続いて行くものもある。新しく始まるものも、変わって行くものもある。


 私は左手の『リング』に目をやる。極薄のスマートウォッチかブレスレットの様なそれは、リング全体が淡く緑色に発光している。青信号の色。あなたの周りに不審人物はいませんというサイン。


「――そして私がひとりだっていう事」


 自分で言ったのに、少し寂しくなってしまう。


 リングは私が高校に入学した頃にできた。そしてきっと、これから先もリングによるソーシャルディスタンスの調整は続いて行く。


 5年前に流行した新型感染症は、当時有効な治療薬やワクチンが無かった事や感染力が強かった事で世界中を大混乱させた。日本でも感染を防ぐ為に、マスクの着用や手の消毒、そしてソーシャルディスタンスの徹底が求められた。他人との距離をとりましょう。密にならない様に暮らしましょうって。でも人はものさしがないと、どのくらい他人と離れればいいのか分からないし、決まりを守れない。自分達は割と適当に生きているから。だったら技術でどうにかしてしまおうというのがこの国らしいといえばらしいなって思う。


 当時、厚労省が大慌てで作った接触確認アプリの機能は、今はこのリングにまとめられている。人との接触を記録して、感染者が出た時に濃厚接触者に通知する機能。更にこのリングは接触を許可していない他人が半径2m以内に近付くと黄色に発光して注意を促す。そして許可なく他人の体に接触すると、今度は赤に発光して警告を出し、それでも離れないと警察に自動通報する。


 痴漢やセクハラ、ストーカーやDVドメスティックバイオレンスなんていう事件が世の中を悩ませていた頃。せっかく他人との接触を監視するアイテムを作ったんだから、他の事にも使えた方がお得だと考えた偉い人がいて、その人はプライバシーの問題よりも公共の利益を重視する人だった。それだけの事だ。


 感染症の流行が終わっても、このリングだけは残った。

 寝る時も外さないでいる様にと言われて最初は慣れなかったけれど、今はもう体の一部の様に感じる。私がいつもかけている眼鏡の様に。学校の制服よりも、親よりも、このリングと私は長い付き合いをする事になるのかもしれなかった。


 そのリングが、黄色に変わる。

 振り返ると、ここまで走って来たんだろう。彼が荒い呼吸を整えていた。

 結局、こうなってしまったなって、私は溜息を吐く。


「――先輩、酷いですよ、黙って行っちゃうなんて」


 私よりも小柄な彼が、捨てられた子犬の様な目でこっちを見る。それだけで罪悪感を覚えてしまう。でもここで負けちゃダメだ。


「私の卒業は君に関係ないだろう。なあ後輩君」

 私は黄色になったリングを指差しながら、もっと離れなさいと彼を手で追い払う。彼は昔から空気を読まないし距離を測らない。

 親しい友人や家族には、予めリングの『鍵』を渡しておくことで接近や接触を常に許可しておく事もできるけれど、私は彼に鍵を預けていなかった。だから彼はちょっと拗ねた様な仕草で私から距離を取る。

「そんな、部活で2年も一緒に汗を流した後輩に向かって冷たいじゃないですか」

「ほう、なら『帰宅拒否部きたくきょひぶ』のどこに汗を流す要素があったのか言ってみたまえ」


 話を盛るな、と言うと後輩君は「えへへ」なんて笑ってごまかす。彼には豆柴みたいな愛嬌がある。私にはないもの。どうしても憎めない、その性格。


「帰宅拒否部だなんて酷いなぁ先輩は。僕たちの部には立派な名前があるじゃないですか」


『文学史研究会』


 思わずハモる。そうなのだ。一応、表向きはそういう事になっている。


「何も研究しない研究会だけどね」


 というか、活動らしい活動は何もしていないし、それで怒られた事もない。

 全校生徒は必ずどこかの部に所属しなければならないという校則のせいで、体育会系の部にも文化系の部にも馴染めない生徒には行き場がない高校だった。真面目な部に所属すれば活動に参加しなければならないし、顧問も目を光らせている。でも集団に馴染めない生徒というのはどこにでもいるから、顧問や部員にしても、本当は帰宅部志望ですなんていう生徒の面倒を見るのは手間ばかりかかってメリットがない。


 そういう生徒を詰め込む為に残されている形ばかりの部がいくつかあって、我らが文学史研究会もその中のひとつだった。ちなみに、真面目に読書や創作活動がしたければ別にちゃんとした文芸部があるから、間違って入部届を出して来た真面目な生徒は全て私が事情を説明して追い払った。


 この、最初から帰宅拒否部志望だった後輩君を除いては。


 それにしても不要な愛部精神に溢れている後輩も困りものだ。少しは先輩風を吹かせないと格好が付かないじゃないか。私は大袈裟に言ってみる。


「――じゃあ卒業する先輩から、これからの文学史研究会を背負って立つ後輩君に送る言葉だ。よく聞きなさい」

「はい先輩!」


 本当に返事だけはいいんだよなコイツは。


「今からでも遅くない。もう部室通いは止めて、受験勉強なり何なりもっと有意義な事に時間を使いなさい」

「僕は先輩といて、この2年間とっても有意義でしたよ」


 そういう事を真顔で言うな。少しは恥ずかしいとか思え。


「――私は今日で卒業するんだぞ。もう忘れたのか?」


 がらんとした部室の椅子にひとり座って、読んでもいない本を広げて時間を潰していた日々を思い出す。後輩君がやって来るまでの1年間は、自分にとって理想の時間だった。たったひとりでいても誰にも咎められない。すぐに家に帰る必要もない。帰宅拒否部の、私だけの時間。


 読まないつもりの本を図書室で借りるのは、誰にも話し掛けられない為の盾が欲しかったから。帰宅部じゃなく帰宅拒否部になったのは、学生や娘じゃなくて『私』でいられる時間が欲しかったから。


 それをこの後輩君ときたら、第一声で全部台無しにしてくれた。


「後輩君、これは覚えてるか? 君が私に初めて話し掛けて来た時の事だ」

「――先輩、何読んでるんですかって言いました」

「それもいきなり、後ろから、私が読んでる本を覗き込む様にして言ったんだ」


 その上、私の耳に彼の息がかかるくらいの距離で。

 部室の入口に背を向けていた私も悪い。でも初対面の相手に、それも読書をしている――読書している風を装っている人にそこまで無遠慮に近付ける神経がどうかしていると思う。彼が私の肩を叩いたりするから心臓が止まるかと思った。それから、彼が急に近付いて来たせいでリングの接近注意が間に合わず、いきなり接触警告を鳴らしたから軽くパニックになって寿命が縮んだ。多分1年分くらい。どうしてくれるんだ。責任を取れ責任を。


「あの時『君にはデリカシーってものが無いのか!』って叫んでましたね、先輩」

「そうしたら君は『デリカシーって何ですか?』って信じられない事を言った」


 ふたりで笑い合う。

 ほら、こうなってしまった。

 だから今日だけは君に会いたくなかったのに。

 今日で君とはお別れなのに。


 全部君が悪いんだぞ。


 私が読むつもりなんて無かった本を本当に読まなきゃいけなくなったのは、君が内容をしつこく聞いてくるから。

 私が誰かの先輩なんていう役割を演じなきゃいけなくなったのは、君がいつも尻尾を振って私につきまとうから。

 卒業の日がこんなに寂しいのは、明日からはもう君に会えないから。


 いつか別れの日が来ると知っていたから、親しくなんてなりたくなかった。

 空気も距離も読まずに近付いて来て私を困らせるから、リングの鍵を渡さなかった。

 心の距離を保っていたかった。その日が来ても傷付かずに済む様に。

 だから彼の名前も呼ばなかったし、私の名前も呼ばせなかったのに。

 先輩と後輩のままで終わりにしたかったのに。

 何で私は今、泣きそうなんだろう。


「――知ってるか後輩君。どんなに楽しい日々にも終わりは必ず来るし、出会いがあれば別れがあるんだ――そう、サヨナラだけが人生だ」

「『勧酒かんしゅ井伏鱒二いぶせますじですよね」

「元々の漢詩は于武陵う ぶりょうだな。なんだ、後輩君もたまには文学史研究会らしい事を言うじゃないか。見直したぞ」

「先輩に教わったからですよ」


 そう言って後輩君が目を伏せる。寂しそうに。そうだな。彼はいつも自分では本を読まないで、部室でただ私の話を聞いていたっけ。そして何で彼がこんな所に――私の隣にいるんだろうって、いてくれるんだろうって、私はずっと思っていた。


「――そうだった。確かに私が教えたんだ。でも私は先輩だからな。後輩君よりはものを知っていないと格好が付かないだろう? だからこんな言葉も知っている。生者必滅会者定離しょうじゃひつめつえしゃじょうりさ」

「しょうじゃ――って何ですか?」

「命ある者はいつか必ず亡くなるし、出会った人とはいずれ別れる定めだって事だな。仏教の教えに、そんな言葉があるそうだよ」

 そして心の中でもうひとつ付け加える。『愛別離苦あいべつりく』愛する者と別れる苦しみ。それらは人が生きる限りいつかは経験する苦しみだ。そして愛する人とすらいつか必ず別れなければならないのなら、同じ部活の先輩と後輩の関係でしかない自分と彼がここで別れる事だって必然で、特別な事じゃない。


 これまでもあった、そしてこれからも続くだろういくつもの別れのひとつでしかない。


 そう言えば彼の寂しさを慰められるだろうかと思った。

 そう思う事で少しは自分も楽になれるだろうかと考えた。


 でもそれは、お互いに無理だったみたいだ。


 彼が近付いて、私の左手を握る。握手の様にじゃなく、両手で包み込む様に。

 私は驚いて右手の鞄を落とすけれど、その手のやり場がない。

 途端にリングが接触警告を鳴らす。


『無許可の身体接触を検出しました。他者への接触を希望する場合は、リクエストを送信して対象から許可を受けて下さい。無許可の身体接触を続け、対象から2m以上離れない場合、1分後に自動通報機能が作動します。自動通報が行われた場合の取り下げはできません。なお、接触対象の情報は既に相互に記録されています』

『無許可の身体接触を受けています。対象からのリクエストは受信していません。こちらから対象を選択して接触を許可しますか? 許可しない場合、また対象が2m以上離れない場合は1分後に自動通報機能が作動します。自動通報が行われた場合の取り下げはできません。なお、接触対象の情報は既に相互に記録されています』


 女性とも男性とも取れる様な無機質な声でお互いのリングが警告文を読み上げる。赤信号。この触れ合いは認められたものではないと言っている。間違ったものだと言っている。


「――どうしたんだ、後輩君」

「嫌なんですよ。いつか必ず別れが来るから何だって言うんですか。だから悲しむなとか、諦めろとか、そもそも期待するななんて『誰かの言葉』で言われたくないんです。僕は」

 彼はそう言って、私の手を離そうとしない。

「もしもこのまま別れるなら、この手を離さなきゃいけないなら、僕は先輩の言葉で『さよなら』って言われたいんです。何も言わずに行ってしまうとか、誰かが仕方ないと言ったからとか、リングに許可されていないからじゃなくて」


 そう言って。まったく、なんて顔をしてるんだ君は。今にも泣き出しそうな、この世の終わりみたいな。それに、気付いてるか? 今君が私にしてるのは脅迫って言うんだぞ。


 こんな優しい脅迫を受けたのは、生まれて初めてだよ。


 でもたった1分で君と私の何が決められるんだろう。それに君が30秒も使うから、私の持ち時間は最初から半分しかない。私にだって心の準備っていう奴が必要だっていうのに、君は相変わらず空気を読まない男だな。


『――身体接触の解除及びソーシャルディスタンスの確保が確認できませんでした。不適切な身体接触事案として自動通報機能を作動中です。最寄りの警察署ないし交番から警官が派遣されます。到着予測時間は約5分後です。位置情報とユーザーIDは特定されています。その場で待機して下さい』


 ほら、時間切れになってしまった。


 時間っていうのは映画みたいに、ドラマチックな場面だからって流れるのが遅くなったりはしないんだぞ。知ってたか後輩君。


「私が君に、直接さよならなんて言える訳がないだろ――まったく君は酷い奴だな」


 その勇気がなくて逃げ出したのに。何も言わずに去るつもりだったのに。私は右手で彼の頭を撫でる。もう通報されてしまったんだ。今更この位どうって事ない。まるでしつけのできていない子犬の相手をしているみたいだけれど、彼もすぐに大人になってしまうんだろうか。今度は私を見下ろして、頭を撫でたりするんだろうか。

 そして苦笑する。何を考えてるんだ、私は。


「――まったく、こんな私のどこがそんなに良かったんだか。男みたいな口調だし」

「かっこいいじゃないですか」

「同級生には何を考えてるのか分からない奴って言われてる」

「ミステリアスですよね」

「スタイルが良い訳でもないし、顔も特に美人じゃない」

「先輩はどっちかというと可愛い系だと思います」

「かわっ――ってこら、先輩をからかうな!」


 思わず変な声を出してしまったので腹いせに彼の髪をグシャグシャにする。

 そして改めて、彼と手を繋ぐ。解けない様に、指を絡める。彼が顔を赤くするのが少し可笑しい。年上を舐めた罰だと思え。


「一応、共犯だからな。今さら逃げられても困る」

「僕の事を警察に突き出せばいいじゃないですか。先輩は被害者でしょ」

「冗談だろ。警察ごときに君は渡さないよ。渡すくらいならこのまま私がさらう」

 覚悟は決めた。もう認めるよ。自分にも君にも、嘘はつかない。


「――私は、君の事が好きだ。だから『さよなら』は、先送りにする」


 それが避けられないとしても。いつかは『さよなら』に捕まるのだとしても。

 顔を赤くしたままの彼が私に何かを言おうとするけれど、遠くからサイレンの音が聞こえ始める。やれやれ、空気を読まない奴はひとりで間に合ってるよ。そして私の隣にあるその席は、もう埋まったんだ。


 彼ひとりが、いればいい。


「読書家になって良かったよ。こういう時の上手い言い訳がすぐに思い付く」

「凄いですね先輩。それで、今回はどのパターンで行きますか?」

「そりゃ決まってるだろ。恋人同士の痴話喧嘩です、ごめんなさいって素直に謝るのさ」


 私が突然恋人同士なんて言うから、彼が緊張して息を呑む。私は笑って、それを見た彼が可愛らしく拗ねる。


 きっと大人は私たちを叱るだろう。でももういい。

 私はきっと、彼との正しい距離を見付けられたから。他の誰でもなく、自分の手で。

 だからもう離れないし、離さない。


 いつか来るさよならから逃げずに、私は生きて行く。

 彼と私と、ふたりの距離で。

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