伝言‥

@J2130

第1話 伝言‥


 夕方の大学の3号館の地下、通称「サンチカ」はいつも通りにタバコの薄い煙が漂い、粗末な椅子と同じく粗末なテーブルが、学生達によって任意に好き勝手な方向に散らばり、けして小さくもない話し声が、どのテーブルからも響いていた。


 ほとんどの学生が、講義を終えた安堵感にひたり、おもいおもいに友人と恋人と、学生時代の貴重な不安定な時間を浪費していた。


 コーヒーも飲まず、僕とケイスケは週末のヨット部の練習について話していた。

「今、2130は修理中で、ちょっと艇がたりないんだよね~」


 僕の愛艇J―2130は今デスマスト(マストの故障)を起こし、しばらくは動けない。次期部長であるケイスケは、部員の配艇に頭を悩ましている。

「う~ん、まだ3杯あるから、ちょっと時間を縮めてやりくりしようか?」

「まだ、何人くるかもわからないしね。遠山は週末の天気はどうだって?」


 船が少なければ、部員の乗船時間を短くするしかない。といっても、週末、三浦半島の先端の合宿所に何人の部員が現れるかも定かではない。


 気象担当の遠山からは、別に報告はなく、まあ、テレビの天気予報以上に情報を提供してくれることはないが、一応彼の意見は聞いておかなくてはいけない。


「まだ遠山からはなんにも…。晴れそうだけれどね。風の強さは分からないね」

 ぼくはケイスケに学生手帳の一頁に、いつも現れる部員のあだ名や名字を書いて、ちぎってわたした。十八名の名前が記され、テンダー(救助艇)も含めれば4杯分の配艇は、そう難しくもなさそうであった。


 ケイスケは船舶免許を持っている僕と小杉とタカとオサムにチェックをし、テンダーの乗員から配艇を決めていった。


「俺さ、2130の修理もしなくちゃいけないから、テンダー終わったら上がっていい?」


 動力付きのテンダーは、船舶免許がないと操縦できない。

 ヨットの練習より、今は愛艇の修理を優先させたいが、免許を持っている人間は限られているので、ぼくが抜けると、免許を持っている人のヨットの練習に差し支える。


「わりいね、堀ちゃんのテンダーの割当さ、一番にして、そのあと、2130の修理しなよ。レースはまだ先だけれども、やっぱ早く直したいよな」


 実際、いつも乗らない艇に乗るのは気がひけるし、ケイスケの言ったように愛艇の壊れた姿はなんといってもさびしいものであった。


「そうさせてもらうよ、タカもできれば午後あたりから上げてもらうと助かるけど、テンダーがいなくなっちゃうからね。まあ、いいよ。大丈夫だから」

 同じ配艇のタカにも手伝ってもらいたいが、他の部員の練習に差し支えるのは明白であり、しかたない。


 一段落したところで、ほっとしてふと目をあげると、真っ黒に日に焼けた、ハーフっぽい顔立ちの学生が多少眉間にしわを寄せて、でも、そう不機嫌な様子ではなく、サンチカのざわつきを睥睨している。


 ぼくらは途端に席を立ち、すぐに汚れていない椅子をたちどころに見つけ、我々のテーブルに寄せてきて、

「チース…」

と低い声で挨拶をしながら、軽く会釈をした。


 おそらく、こんにちはの「チ」や、おはようございますの「ス」だけが残り、このような言葉になったのであろう。

「オウ」


 同じく軽く返事をすると、川浪先輩は座れよ、と言うかわりに、我々の背後の椅子にすばやく視線を投げ、くつろぐように促した。


「先輩、どうされたんですか?」

ぼくは、4年生になってほとんど講義のない先輩が、こんな時間にサンチカにいる用事を伺った。


「学生課と就職課にさ、用事があってよ」

そういいながら、サイフから千円札をだすと、

「コーヒーな、ホットで。あとケイスケも堀もなんか飲め」

 ケイスケが受取り、僕が先輩と同じもので、と言うと,彼は売店へ飛んでいった。

 ケイスケは次期部長ではあるが、フットワークが良く腰の重い僕よりはよっぼど気が利く。


「堀、どうよ…、ヨット部は。」

「はぁ…、おかげさまで、部員も増えたし、船も増えたし順調です」

「なんか足りないものは?」


「いえ、今のところありません。

 先日先輩方より頂いた、ライフジャケットも役立ってます。今までのはボロボロで、これ、『浮くの?』っていう感じでしたからね」


 ジャケットと言うより、ぼろきれに近かった、すっかり長年の酷使により、もとのオレンジ色から、真っ白に色ぬけし、今や重量物をおくときの座布団代わりになっている、数枚の元ライフジャケットが頭に浮かんだ。


「バカ、そんなもん、いつまでも使ってねえで、早めにOBや俺達に頼んでおけ」

「はぁ、ヨットの備品に目がいっちゃて、ライジャケまでは…、使えればいいや、みたいな気がしまして。すいません、何かありましたら、またお願いします」


「まあな、俺の現役のときもそうだったけどな…。安全管理担当者のお前からそういわれちゃな。でも、海はこえーからよ…」

 誰でもヨット部員なら、数度は経験している、「こえー」記憶がすぐに頭に浮かんだ。


「ええ、気をつけていても、それでも、やばいときがありますからね。でも、充分に注意します。すいません」

トレイに不器用に3つのカップを載せたケイスケが、

「ウィース」

 と低い声で戻ってきたことを告げる。


 ぼくは、立ち上がって、先輩のホットコーヒーだけを持ち上げ、先輩の前に置いた。ミルクと一応シュガーもすばやくトレイから取り上げ、邪魔にならないようにテーブルの中央付近に並べる。


「ケイスケ、お前、この寒いのに、コーラかよ」

川浪さんの驚きをよそに、

「いただきます! 自分は暑いっす」

ケイスケは一言そういうと、うまそうに一口すすった。


 川浪さんに近況を報告し、他の先輩がたの様子を伺い、紙コップのコーヒーがなくなったころ、

「ヨシ、行くぜ!」

と、先輩はいきなり席を立った。


 僕らに質問の猶予も与えず、バッグを抱え、ウィンブレに袖を通し、時計を見て、大またでサンチカの出口にむかって歩いていく。

 誰をよけようともぜず、誰にも邪魔されず、まっすぐに最短距離で歩いていく。


 あわてて、トレイに三つのカップを載せて、ダストにそのままつっこみ、バッグを持ち、上着をかかえ、僕らは先輩を見失わないように、喧騒の中を必死で追った。


「これ、やばい雰囲気だよな…」

僕はケイスケに小声でささやいた。

「やばいな…、このあと用事はないけれど、ちょっとな…」

三号館の出口で、やっと立ち止まり、振り向いた先輩は、

「オイ、どこがいい?」


一応先輩は、場所の希望をぼくらに聞いた。

「どこでもいいっす!」

当然の返事をすると、

「それじゃ、加賀屋にするか」

またもケイスケが走り、路地に消える。


「あそこは、もつ煮がうまいんだよな…」

 消えたケイスケの後を、僕と川浪さんはゆっくりと歩いた。

 冬の冷たい風が路地のゴミ達と共に、ぼくらを追い抜いて行く。

 ポツポツと飲み屋の看板も点灯しはじめ、街は夜の喧騒に包まれ始めている。


「ウィーっす、空いてました。奥の席です」


 ケイスケは店頭でぼくらを迎えると、半分振り返りながら店の奥を指差した。


蛍光灯の下の、背もたれのない緑の丸椅子と、うす茶色のいびつなテーブルが、いかにも貧乏学生のために用意されたように、ぽつんとお客を待っている。


 バックのビールジョッキをかかげた水着の美女のポスターは、大学一年生のころから見ているものである。


「ナマ中みっつと、あともつ煮もみっつね」

気の利くケイスケが、”おねえさん”、と言っておばちゃんを呼び止めると、間髪をいれずに注文をする。


「先輩、自分、やきとりが食いたいっす」

「オウ、好きなもん、適当に頼め」

メニューを見ずに、川浪さんは、ぼくらにその紙を投げ、いずれ使うだろう灰皿を手もとに寄せた。


 ビールが運ばれてくると、ぼくらは軽くカンパイをして、先輩が何を話されるのか、また何をぼくらから聞きたいのか、間をとるつもりで、少し減ったビールジョッキを眺めていた。


 少しの沈黙のあとで、

「合宿、いつからだ?」

お通しをつつきながら、先輩がつぶやいた。

 まだ他の客は少ないが、飲み屋独特のざわつきのなかでも、なぜかよく通る声で、目線を下に向けたまま、先輩の声はビールやもつ煮や、焼き鳥の皿の間をくぐって響いてきた。


「3月1日からです」

「先輩も是非、遊びにきてください」

ぼくとケイスケの順で、優等生の回答をすると、

「俺は旅行に行ってくるよ…」


「トルコに行くからよ…」


 卒業旅行という風習がいつごろからメジャーになったかは定かではないが、まだそんなに普及したころではなく、『卒業旅行』という単語も耳慣れなかった時期であった。

 ただ、ぼくらにわかったのは、先輩はぼくらの知らない異国へ学生時代最後の思い出を作りにいくらしいということであった。


「トルコっすか…、『飛んでイスタンブール』っすね」

「トルコ…、意外ですね」


これまた、ぼくとケイスケの順で素直な感想を言うと、

「やっぱそうか?そうだな、だから行くんだけれどな」


 ビールを一気にあけると、ぼくらのジョッキの黄色い液体の量を見定め、空のジョッキをちょっと振りながら、先輩は気持ちよさそうに応えた。


 先輩のちいさい仕草から、ぼくらは自分のジョッキ内にある「ノルマ」に気づき、先輩と同じように一気にビールを飲み干すと、学生らしく丁重に、

「すいません、これ3つお願いします」

と、“おねえさん”を呼び止めて、注文をした。


「意外だろ?日本人はいないってことだな、お前らの思うようにな」


 バブルの頃である。


 円が強くて、ヨーロッパやアメリカに行っても、円で十分遊べた頃である。

 はっきり言って、円さえもっていれば宇宙にだっていけるのではないかと思われたそんな時代である。


 海外旅行といえば、メジャーな地域以外が考えられなかったぼくらには、非常に意外であった。


「日本人がいないほうがいいんですか?」

 またも大きいジョッキが運ばれてきて、ぼくらは喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからない状態のまま、先輩に当然の質問をした。


「まあな、しかも友達と二人だけで行ってくる…」

「二人っすか…、大丈夫ですか? その…、治安はいいんですか?」

「男二人だぜ、治安はそんなに悪くないしな…」


「なんでトルコなんですか? 

ハワイだって、グアムだって、ヨーロッパだって、ニューヨークだって、いろいろあるじゃないですか? 

ハワイに行って、ヨット乗ったって、ぼくらはいいじゃないですか? 

トルコっすか…? 確かに遺跡は面白そうですが…」


 満足そうな笑いを含みながら、先輩は、うまそうにビールを飲み、ぼくらの疑問をうれしそうに聞いていた。


「なんでだろうな…、やっぱ俺達は変わり者なんだろうな…」


「俺達」という言葉が気になった。


 やっと大学に入って、テニスやスキーのサークルで就職までの数年間を恋やバイトや遊びにふけり、青春を楽しめばいいのに、何を勘違いしたか、ヨット部なんかに入って、寒い冬の真っ盛りにしもやけをつくりながら海に入っている。


 ねずみの出る合宿所で、食事当番の作ったカレーをうまそうに食べ、深夜まで、セイルやヨットの修理をし、朝の6時に起床して、海に出る。


 他にやることは、できることはたくさんあっただろうに、ぼくらはなんの疑問も感じずに、眠い目をこすりながら、白波の立つ海に、数えきれぬほど出艇した。


「俺はわかるな~」


 ケイスケがおもむろに応えた。酔いがすぐに顔にでる彼は、すでに真っ赤になり大きなジョッキに手をかけながら、

「自分はわかりますよ! そうっすよ! 」

と先輩に語りかけている。


「何がそうなんだよ…、オイ、まだ酔ってないだろうが…」


「ああ、酔ってないが、でも、なんかわかる!

 堀ちゃんも同じだぜ、きっと再来年、俺達が卒業旅行に行くときは、グアムやハワ イなんて行かないぞ! そうだな~、バンコクとか、あ…、でも海があればいいな~。ロスとかじゃないぜきっと…。う~ん、マイナーなところだろうな、きっとそうだよ」


「で、男だけで行くのか? なんでだよ、俺はまだ一度も海外なんて行ってないし、最初くらいメジャーなところに行きたいよ!」

パスポートも持っていなかったぼくは、真剣にそう応えた。


 先輩は、面白そうに聞いている。

 飲むペースが変わらないから、またもジョッキが空になったが、かまわずぼくらの会話を楽しんでいる。


「俺はきっと、そうだな~、やっぱハワイやオーストラリアやニュージーランド、まあ、ヨットに乗らなくてもいいから、ヨーロッパでも行きたいな…」

 当時の本音を言った。本当に海外なんて行ったことがなかったから…。


 まだ、ジョッキに三分の一ほどの液体を残しながらも、酔いの中でも気の利くケイスケはすかさず3杯目のビールを“おねえさん”に注文し、逆に

「いくつ?」

と“おねえさん”に聞かれると、先輩がすかさず

「3つ」

と応えた。


ぼくとケイスケは一瞬見つめあい、躊躇なく自分のジョッキを空にした。


「帰るぞ!」


と、先輩はいきなり席をたった。

 卒業旅行の話しのあともいろいろとヨット、海、仲間のことは話したがあまり覚えていない。

 そんなに長い時間ではなかったことは確かだったが。


 タバコを静かにもみ消し、返すその手で、そのまま伝票をつかむと、金額も確かめず、バッグを抱え、ウィンブレに袖を通し、時計を見て、大またでレジむかって歩いていく。


 誰をよけようともぜず、誰にも邪魔されず、まっすぐに最短距離で歩いていく。


 ぼくらはまた、あわてて上着とバッグを抱え、おそらく必要ないであろうが、サイフを手にとった。

「いくっらっすか?」

ぼくとケイスケで一応金額を伺うと、予想通り、

「いい」

と先輩は応えてた。ぼくらは精一杯元気よく、

「ごちそうさまでした!」

とお礼を言い、先輩は満足そうに、

「この分、後輩におごってやれ」


 といつも通りに応え、サイフを無造作にウィンブレのポケットにつっこんだ。


 街はすっかり夜の様相を示し、ネオンや飲み屋の赤や緑の看板が、ぼくらの顔に反射し、街灯の明かりを打ち消している。


 駅前の大通りには、車が行き交い、騒音が大声での会話を要求している。

 駅直前のファーストフードの店前で、

「自分、キップがないんで買ってきます」

ケイスケがでかい声で言うと、すぐに走って行った。


 怪訝そうな先輩にぼくは、

「もうすぐ、学校も終わっちまうんで、アイツ、定期、買ってないんですよ」

と応えると、


「待っててくれ、電話してくっからよ」


 先輩は、ファーストフードの前の、いくつも並んでいる緑のカード電話のひとつにゆっくりと向かった。


 今のように携帯電話はなく、どこの駅前にも公衆電話が数多く並んでいた。

 テレフォンカードを機械にさして電話をするのだが、さらに昔のように、赤電話へ硬貨をいれてかけるより、なんて便利なんだと思っていた。そんな時代だった。


 店の前にある大通りに、白で色づけされた縞がらの横断歩道は、信号の色の変化とともに、駅に向かう人でごったがえし、たたでさえ狭い歩道は、ただ突っ立っている人間を許しそうもなかった。


 ぼくは、ぎりぎりファーストフードに並ぶ列と、電話に並ぶ例にまぎれないような位置で、人の流れを避け、ぼんやりと緑の点滅を繰り返す、歩行者用の信号を眺めていた。


「…ああ、……さんのお宅ですか?はい、川浪です」


 先輩の声が途切れ途切れに聞こえてきた。自宅に電話したわけではなかったようだ。


「……さんいらっしゃいますか? ええ、そうです…、そう川浪です」


 彼女の家か…いいな、うらやましいな…。

 ケイスケはまだ帰ってこない、また信号が変わって人波が近づいてきた。


「そうですか…ああそうでしたね、金曜日は……でしたね」

 彼女は不在のようだ。

 もうすぐ雑踏が僕を包み込む。


「それではすいません、伝言お願いします…」


 信号待ちの車のエンジン音は低く、JRの駅からのベル音も放送も途切れた。


 パチンコ屋のネオンは動いているが、不思議と呼び込みの声も聞こえない。


 飲み屋の提灯や看板は明るいが、目に入るだけだった。


 都会の駅前、一瞬の喧噪の隙間…。


 ぼくは先輩の声を聞いた。


「愛してます…と伝えてください」


 多くの人がぼくのそばをとおり、少し当たった人もいた。

 車は動きだし、走行音が大通りから響いてきた。

 新しい電車が駅に近づき、低い周期的な連続音が聞こえてくる。


「ごめん、待った?」

 ケイスケが赤い顔のままかけてきた。手には切符が握られている。


「先輩は?」

「そこで電話して…」


 そう言って横を向くと、すでに川浪さんはゆっくりとこちらに向かってきていた。

「すいません、切符買ってました」

 ケイスケはかるく会釈し、切符を先輩に見せた。


「まだ2年だろ、定期買っておけよ…」

 笑ってケイスケの肩を叩いた。

「電話、家っすか?」

 ケイスケが先輩に訊いている。


「いや…違うな」

 歩きながら川浪さんは応えた。


 僕は何も口をはさまず、ポケットから定期券を取り出しながら聞いていた。

「用事があってな…」

「用事はすんだんですか?」

「ああ…いなかった…」

「そうですか…、残念ですね」

「でもよ、伝言しといたからな…。大丈夫さ…」

 少し笑いながらつぶやくように先輩は言った。



 電車を挟む形の二つのホームがある駅なので、先輩とはここで別れることになる。

「ごちそうさまでした」

 僕とケイスケはきっちりときおつけの姿勢をしてお礼を言った。

「オウ、またな…」

 川浪さんはそう言ってそのまま向こう側のホームに向かっていった。ホームに上がると、ゆっくりと歩く先輩の姿が見えた。


 他にも多くの乗客がホームを歩いている。みんなこれから家路につくのだろう。ごったがえしていると言っていい。


 すでに左側に川浪さんが乗るであろう電車が近づいてきていた。

こちらをちらりと見た先輩は、右手を少しだけあげ腰のあたりで振った。すぐに大きい車両がその姿を隠す。


 しばらく停車したあとベルが鳴り電車がゆっくりと動きだす。

 最後尾の車両が抜けると、ホームにはまばらな人しか残っていなかった。


 まるで箒ではいたように数人の、たぶん降りた乗客をのこして電車はさっていった。


「川浪先輩、なんかあったんかな?」

 ケイスケは時計を見ながらつぶやいた。埼玉の上尾まで帰る時間を確かめている。


「さあ、ごきげんにみえたけど、俺達後輩にいろいろとヨット部にについてのなんて言うのかな、伝えたいことがあったんじゃない?」


 我々が乗る電車がやってきた。

 先輩の彼女への伝言については話すのは控えた。なんとなく、そんな気がしてやめた。

「卒業旅行のことしか覚えてないな」


 ケイスケは電車に乗り込みながらぼくに向かって言った。

「そうだね、でも、先輩…、なんかな、俺にはかっこよく見えたんだよな~」

 ぼくは正直に今の気持ちをケイスケに言った。

「ドアがしまります…」

 車内放送が響いた。


「大丈夫だよ、堀ちゃんもそのうちかっこよく後輩に奢れるし、卒業旅行もみんなでいこうぜ」

 ケイスケはいつも前向きで頼もしい。ぼくにはまだ彼女もいないし、かっこよく伝言も残せない。


「卒業旅行…、ずいぶん先だね。いっしょに行けるかな?」

 ドアが閉まりかける。


「もう考えてんだ、タイとか行こうぜ、そこでヨット乗ってよ…」

 低い機械音とともに電車のドアが閉じた。車内はすぐに暖かくなり、ぼくらとその他の乗客を乗せて家路へと動きだした。


*****


 2年後、ぼくらヨット部の同期のほとんどは、ヨーロッパでもアメリカでもなく、タイのまだメジャーでなかったプーケットに行きヨットに乗り、不器用な青春を締めくくった。


 みんなそれぞれ就職し、転職し、結婚し子供もいる人、いない人、日本にいる人、いない人、出世した人、しない人、いろいろだ…。


 たまに思いだす。用事で大学の近くを車で通ると、ファーストフードはそのままだが、公衆電話はまったくなく、パチンコ屋もオフィスビルになっている。


「伝言お願いします…」


 卒業して妻と会ったころにはもう携帯電話があったので、そんな経験はできなかったが、うん、やっぱり先輩はかっこよかったなと今でも思っている。

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