第3話



 彼女に初めて会ったのがいつだったか、今ではもう思い出せない。


 ただ、気付いたら隣にいたような気もするし、何か特別なきっかけがあって、彼女も屋上に足を運ぶようになったような気もする。

 いずれにしろ確かなのは、私と彼女の間には、「それ以上に踏み込まない」――という関係性のラインが互いに存在していて、彼女と最後に会った日に、私はそれを踏み越えようと試みてしまったということだ。


 私は、彼女のことを綺麗だと思った。

 揺れる髪も、物憂げな横顔も、その在り方も、その立場も。

 どうしようもなく儚くて、どうしようもなく美しいものだと思っていた。


 私は、あの背中を、引き留めたかった。


 ……いいや。それは、正しくない。

 私は、あの背中に……抱きつきたかった。

 あなたが望む場所へ、あなたが赴く場所へ、私ごと連れて行ってほしかった。

 だけどそれは叶わなくて、そうしたかったという後悔だけが膨らんで。


 彼女と再会した、その瞬間に。

 馬鹿みたいに大きく膨れ上がった感情が、爆発したような、気がする。


 自分勝手な欲望が、とめどなくあふれ出して。

 彼女を自分のものにしたいという、そんな思いで突き動いた。


 私は、そうして。

 今、どこに居るんだろう。



 *



 空はからりと晴れていた。

 照りつける陽ざしがじりじりと私の体力を奪っていく。全身にじっとりと汗をかき、ぼろぼろの衣服がべたりと張り付いてくる。晴れ過ぎだ、と思う。

 極めつけには、この右腕である。見慣れた自分の右腕はどこにもなく、代わりに真っ白くてきれいな剣のようなものが二の腕のあたりからぬるりと生えている。理屈はわからないけれど、昔、おじいちゃんの家で見せてもらったものとよく似ていたし、それを鞘に納めて手渡されたとき、ずしりと感じた重さがそのまま右腕になっているようだった。

 

 (あつい、おもたい、いたい)


 がりがりがりがりと剣になった右腕を引きずりながら、コンクリートの道をあてもなく歩く。

 ひび割れた道路に沿って、見たこともない建物がたくさん並んでいた。吹けば飛びそうな素材でくみ上げられた、かろうじて壁と天井を形作っているような住居らしきものがあれば、その形すら放棄して骨組みだけが残っているようなものもあった。

 景観は、大事だ。建築物を建てる際、その国が持つ文化や風習に倣ったものでなければ建築は認められず、景観を壊すという行いは国家に対する反逆とすらみなされたこともあったと聞く。

 奪われていく体力と、それがもたらす辛さのすべてを意識から追いやるように、いろんなことを考えて。だから芸術家たちはこぞってティファレト国に行って好きなものを造るんだと思考を繋げたあたりで、私の心は酷い郷愁にかられた。


 ――こんな景色の場所なんて、樹界のどこにも存在しない。


 私はそこで、ゆっくりと顔を上げて。

 果てしない青空を見上げた先、私の頭上に。


 天高く、空を衝いて鎮座する、ガラス球を実らせた大樹の姿を見た。


 (……ああ)


 あのガラス球の……いちばん低い位置に実っているガラス球の内側に。

 私の家が、かつてあったことを思い出す。


 不意に、両脚からするりと力が抜け落ちて。

 私の体は、そのままどさりとコンクリートの上に倒れ伏した。

 

 熱を持ったコンクリートはじりじりと熱かった。

 頬や腕にやけどを負うだろうけれど、それももうどうでもよかった。


 (どこにも、行けない)


 (どこにも……帰れない)


 脳裏に浮かぶすべての記憶は、想い出は、遠い過去の向こう側のもので。

 今の私に残されたものなど、何一つないことをひしと実感して。


 このまま目を伏せたなら、二度と目を覚ますこともないだろうと。

 そう信じて、ゆっくりと眠りにつこうとした時だった。


 (…………?)


 地面に押し当てた耳に、振動が伝わってくる。

 それが足音だと気づいたのは、振動が音として聞こえるようになったあたりで。

 その足音は、私の耳元でぴたりと止まった。


 「ねえ、アナタ」


 甲高い、男とも女ともつかぬ声だった。

 寝ている体が日陰に包まれたから、日傘でもさしているのだろうかと思った。

 私の目もとに流れ落ちている前髪を、硬く太い指先がそっと撫でた。


 「生きたい?」


 どこか冷たく、どこか優しい声だった。

 その問いに何と答えたとして、その答えはありのまま受け入れられるだろうという、不思議な確信だけがあった。


 その者が、何なのか、誰なのかもわからないまま。


 気付けば、私の頭は小さく頷いていた――ようだった。



 *



 空がからりと晴れた、さんさんと陽ざしが射し込んでくる昼間。

 カーペットの上にあぐらをかいて座り込んだまま、陽気にあてられて昼寝をする逢禍の姿があった。

 場所は便利屋ヴァルハラの客室。開けっ放しの窓から流れ込んでくる風が、よけいに彼女に心地よさを与えている。


 「逢禍?」


 いつまで経っても客室から出てこない友人を心配し、こんこんとノックをする凄咲。

 その音で目を覚まし、ふるふると頭を振って逢禍が答える。


 「ああ、悪ィ……寝ちまってた」


 それからかちゃりと戸が開き、凄咲が顔を覗かせた。


 「疲れてるなら、ちゃんとベッドで寝………………」


 「ん、わかっちゃいるけど、居心地よくてな…………? どした、凄咲」


 戸を開け、凄咲の目に映った部屋の様相は。

 崩れたベッドシーツだけが乗っかった、誰も寝ていないベッドと。

 その真横で、ぽっかりと開いた窓と、吹き込む風ではためくカーテン。


 「……なんとか答えたらどうだよ。なんで固まって――」


 きゅっと口を結んだまま黙り込んでしまった彼女に声をかけようと、立ち上がった逢禍もまた、視界の端に移ったからっぽのベッドを見る。


 それから、暫しの沈黙があって。


 「…………逢禍」


 先に口を開いたのは、凄咲だった。


 だらだらと冷や汗を流す逢禍の両肩をがっしと握り、両の目をかっと広げながら、彼女の顔を真正面から見つめて凄咲が切り出す言葉は。


 「…………探すのを手伝ってくれ……!!!」


 そして、それに対する逢禍の答えは。


 「…………うん……!!!」


 ともどもが焦燥を伴いながらの、選択であった。



 *



 こと地界において、『まともな店』というものは非常に限られたものである。


 樹界における起業の手順は非常に複雑で、尚且つ土地を得ることも社屋を建てることも唯の住人には非常に難しく、現状樹界にある企業というものは、樹界の建造当初から続いている老舗が大半であり、比較的新しい企業も国家とのつながりを得ることで起こるに至っている。そして、それだけの狭い関門を潜り抜けて起こすことが叶った企業は、樹界そのものに価値を見出されたということになり、倒産という事態になることも少ない。

 然れども、地界にはそれが無い。店を起こすにあたり、誰の許しを得る必要もなく、放置されている廃墟を占拠する、或いは空いた土地に自ら建築するなどして、店を名乗れば会社の出来上がりである。

 無論、建てるにあたって遵守すべき法が存在しないということは、それの存続や存在を約束してくれる法も存在しないということであり――地界では、寝床だとかを求める者たちによる店や会社というものへの強盗・略奪といったことは常である。

 

 誰が定めるわけでもない、『まとも』というものの基準を……仮に、『内装や外装が整っている』、『然るべき土地にある』、『客層も安定している』、『内容も安定している』……等と言ったものとするならば。

 法も秩序も倫理も存在しない地界において、それらすべてを満たすものとなれば――必然的に、数は限られてくる。


 バチカル区とイウェレス区の境に立つ、蛍光ピンクに光り輝くネオン看板をひっさげたこの店……『恋獄れんごく』は、その数少ないまともな店のひとつである。

 その理由として、まず第一に店主が強い。厄介ごとを持ち込もうものなら店主が直接肉体でもって解決にかかる。そして第二に、上質な酒類が提供されている。

 恋獄はバーである。昼間に仕込み夜中に開店するこの店は、潰れては建ってを繰り返す他のバーが出すような、機械燃料まがいのアルコールの類は一切取り扱っていない。酔いの代償に身体に障害を負わされることもなく、純粋に美味い酒を飲めるとして、バチカル区・イウェレス区の住人ともに愛されていた。


 高原凄咲もまた、そこに通う常連客のひとりであった。


 L字のカウンターテーブルに沿って並んだ席のひとつに腰掛け、白い髪を垂れ流して横を向き突っ伏している。片手に握られているのは一口飲んだきりのアイスミルクが注がれたグラス。彼女のそんな姿を、恋獄のマスター――もとい、ママが物珍し気に見下ろしていた。


 「で? 随分な様子だけど、どうしたのよ。凄咲」


 さらさらと流れるピンクの髪は、凄咲のそれと比肩するほど美しく。

 ぷっくりと膨らみ、ボリューミーでてらてらと光る赤い唇から、甲高くよく通る声が発される。

 それでいて肉体は巨躯である。着込んだスーツには肩幅と胸筋の形が浮かんでいて、その者が自らに閉じ込めている『強さ』というものを象徴していた。


 恋獄のマスター、チェシャ姉はオカマである。

 強く、逞しく、美しいという三点を兼ね備えた、無敵のママである。

 その彼――彼女の前ではどんな悪党も怯むが故に、彼女は頼られ、恋獄は愛されている。凄咲もまた例外ではなく、彼女の前であるからこそ、全身から脱力しつくした今の様子を見せていた。


 「ああ…………聞いてくれるか……チェシャねえ


 もぞもぞと口を動かし、やっとのことで凄咲は口を開いた。

 グラスを丹念に磨きながら、恋獄のマスター――もといママであるチェシャ姉は、続く言葉に耳を傾ける。

 それなりに繁盛している店内、カウンター席に腰掛けているのは凄咲だけで、後の客は皆テーブル席で粛々と酒盛りに興じている。凄咲は寝転がりながら店の出入口へと目をやり、カウンター席に向かってくる客がいないことを確認する。


 「……あー…………」


 彼女の悩みの種は、ありのまま伝えることのできない物事であった。

 凄咲はのそりと背を起こし、髪を整えると共に、アイスミルクのグラスを胸の前へやり、それを握る右手に左手を重ねた。

 

 高原凄咲は、嘘や隠し事が苦手な女である。

 数千年の時を生きる人外の者、魔女でありながら、それだけは変わらない。

 故に隠さねばならない事柄を説明するとき、彼女はこうして打ち明ける。


 「……猫……がな…………逃げて……しまって」


 「あら」


 その事柄を、例えにおこして説明する。

 その彼女の伝達の仕方を、チェシャ姉もまた知っていた。


 「それはどんな猫かしら?」


 アイスミルクで喉を潤してから、凄咲は説明する。


 「毛並みが赤くて、目が黄色い。……良い、血統の子でな。もともと依頼の品として調達を頼まれていたんだが……私の不手際で、依頼人に渡す前にいなくなってしまった。逢禍にも捜索を手伝ってもらっているところだ」


 「成程、成程。それだけ綺麗な子なら、すぐ見つかりそうなものだけれど。他に特徴はある?」


 「ああ、ある。えっと……左目と、右う……右前脚が、不自由だ。あと、えっと……なんて言うかな……幼い……かな? ああでも、子猫と成猫かと聞かれれば、成猫だと思う。それくらいの年だ」


 「ふんふん。よーくわかったわ」


 チェシャ姉はことんとグラスを片付け、そっと片腕をテーブルにかけて答えた。


 「その子。うちで預かってるわ」


 「…………本当か……?」


 「ええ、多分ね」


 凄咲は、心底ほっとした様子で息をつき、胸を撫でおろす。


 「それで、貴女はその子をどうするつもり? 依頼の品として引き渡すの?」


 「当初はそのつもりだった。依頼は依頼だからな……だが事情が変わって、その子は誰のものでもなくなった。……うちで預かろうと思っていた……ところなんだ」


 「あら……仕事人間の貴女にしては、珍しい判断ね」


 「攫った手前、言えることではないがね……依頼自体に不可思議な点が多すぎる。自分が消されかねない依頼など、地界の人間が出すわけが――」


 「すとっぷ」


 チェシャ姉の人差し指が、凄咲の唇に押し当てられる。


 「……依頼に関してはトップシークレット、でしょ? ついてきて」


 それ以上の言葉は必要ないと、そう伝えながらチェシャ姉は手招きをして、凄咲をカウンターの裏へと誘った。

 こくりと頷き、それに従って凄咲は立ち上がり、チェシャ姉のもとへと歩く。施錠されたドアの鍵を開ける前に、チェシャ姉はこんこんとノックをしてから、中で待つ彼女にこれからそこへと向かうことを伝える。


 かちゃりと鍵が開き、開かれたドアの先。

 チェシャ姉の私室でもある、質素な部屋の中心に。


 ――ふかふかのカーペットの上で、きゅっと縮こまって正座する、赤い髪の少女の姿があった。

 白銀の剣と化している右腕を、ローテーブルの上へと置いたまま。

 少女はその顔をチェシャ姉へ向け、その後ろに立つ白いシルエットを見て、小さく声を漏らした。


 「ぁ…………っ」


 凄咲が戸を閉めたのを見た後に、チェシャ姉は静かに問いかけた。

 流し目で、目線だけを背後に――凄咲に向け。


 「アタシの目が正しけりゃ、だけど」


 「この子……魔女でも、ヒトでもないわよね?」


 少しの間を置いてから、凄咲はこくりと頷いた。


 「ああ」


 「……『なりそこない』だ」



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ヴァルハラフィクサー 朝神佑来 @Asakami_yurai

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