ケトルと木洩れ日と白昼夢のポタージュ
「私は君のように笑えなかった。皆を安心させる為に微笑を零せなかった。様子のおかしい私を見た皆は、何が起こったのかを知ってしまったんだ。──あの日を境に全てが狂いだした。君のような人にと願って赤子に君の名を付けた家族が心中した。君と親しかった者達が手のひらを返して君を糾弾しはじめた。かつて皆が喜んで歌にした君の名は、私の所為で呪われた忌名になってしまった──」
「『……嘘だろ?そんな事が?』」
「──だがな。昨日の夜、不思議な子どもに会ったんだ」震える青年の声に確かに希望が灯った。「あの子は綺麗な黒い髪をしていて、この辺りでは見ない顔なんだが……深夜の大通りで君の名を呼んでいたんだ。君の正しい面影を追い求める変わった子が、まだこの世に居たんだよ」
「……」
「明日の朝、あの子が元気そうなら君の話をしてやるつもりなんだ。歴史に残る英雄や犯罪者としてではなく、ただの一人の人間としての君の話を──」
◇
「これは……?」
「申し開きもございません。昨日の夜、ちょっと苛々してて……どうかしてました」
「……ふふ、ははっ……あははっ!いやいや、元気そうで何よりだ。何と言うか、この大穴からは芸術性を感じるぞ。空の額縁をあてがってこのままアートにしてしまおう。おい!誰か……」デュロアは満面の笑みで回廊を振り返る。返事をしたのは厨房のケトルだった。「しまった!」
ドタバタと忙しなく靡く髪を追ってセヴォンも階下へ駆ける。廊下を走るなと咎める者は一人もいなかった。
「なるほど。これが『煮立つ』か。確かに泡がブクブク言ってるな。……あっっつ!──くないぞ。別に熱くない。私はヴァルデック家の嫡子なのだから、これくらい……」
「あの。今、ケトルの底を触りましたよね?びっくりして声も出ませんでした。どうして火も消さずに指を突っ込んだんですか?」
「……泡の出る所に触れてみたくて」
「素手でそんな事したら誰だって火傷します。見せてください。……うわあ。酷くならない内に向こうで冷やしましょう」──
◇
──「ふふっ……」
「……何か?」
「ああ、いや。こうして誰かに手当てをされるのが久しぶりでな。君があまりにも優しく私の指を取るから、おかしくって」
「そんな事……使用人の方がいるでしょう?」
「いないぞ」青年はさも当然の事であるかのように答えた。「何年か前に一人残らず殺されたんだ。今思えば、アレも吸血鬼の仕業だったのかもしれない──仇を取らなければな」
仇を取る。
青年が昼夜を問わず唱えていた自罰に似た誓い。全く同じ言葉だと言うのに、今朝のそれは憑き物が落ちたように生気で満ちていた。
「私には成さなければならない事が沢山あってな。手料理もその一つなんだ。……その。もしも吸血鬼が人の世で暮らすとして、もうヒトの生き血を吸う事ができなくなった時……昔好きだったものなら何とか食べられるんじゃないかと思うんだが、君はどう思う?」
「どうって。吸血鬼と暮らすおつもりなんですか?」
「──まさか。もしもの話だと言っただろう」
──嘘だ。
仮定の話にしては歓びに溢れすぎている。
青年は火傷の痕を名残惜しそうに撫でながら厨房へ戻っていった。彼がよく笑うようになった理由は火を見るよりも明らかだ。彼が大口を開けて向日葵のように笑ったり、小さくて古い本の背表紙を小突いて微笑む度にセヴォンはひどく苦しんだ。この状況で自分にできる罪滅ぼしと言えば、ルイの霊魂を
問題は校長やサミュエルに何と説明するかだ。「無理やりジュヴァンへ連れ戻すのが可哀想になったから」だなんて動機が通る筈もない。吸血鬼に襲われてやむを得ず帰還した風を装えば許されるだろうか?何で肌を刻めば二人を騙せる?痛くない自傷などあるのか……?一人で悩み苦しむセヴォンを宥めるように暖かな春風が吹き抜ける。小川のすみっこに映る自分はひどい顔をしていた。
「──ひっつき虫だ」青年はセヴォンの裾をつまんで笑った。「きっと何処かでくっつけたんだろう」
「……」
「さっきから浮かない顔だな。寝不足か?もしかして、昨晩眠れずにどこかへ出掛けたり……」
「──ちょっと散歩がしたくて。ごめんなさい。もうしません」
「謝るな。別に怒ってない」
「ごめんなさい」
「……」
「あの旧邸を近くで見たかったんです。火葬場に行く時に屋根だけ見えたから……」セヴォンは聞かれてもいない事を語り出した。「でも、見られませんでした。疲れたから途中で帰ったんです」
「……そうだったのか。あちこち連れ回したりして悪かったな」青年は釣り糸を巻き取って立ち上がる。「今日はもう邸へ帰ろう。日が暮れると奴が出る」
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